イエス様は私たちを世界に向けて押し出す

Image by Free-Photos from Pixabay

❖ 見る
英語通訳付


❖ 聴く(英語通訳付)


❖ 読む

イエス様は私たちを世界に向けて押し出す

ローマの信徒への手紙 1:8-17 (シリーズ第2回)

池田真理

 今日はローマの信徒への手紙1:8-17を読んでいきます。4つに分けて読んでいきたいと思います。まず8-12節です。


A. イエス様を信じることは人との関わりの中で生きること

1. 互いを通して方向修正するために (8-12)

8 初めに、私は、イエス・キリストを通して、あなたがた一同について私の神に感謝します。あなたがたの信仰が世界中に語り伝えられているからです。9 私が御子の福音を宣べ伝えながら心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は、あなたがたのことを絶えず思い起こし、10 祈るときにはいつも、神の御心によって、あなたがたのところへ行く道が開かれるようにと願っています。11 あなたがたに会いたいと切に望むのは、霊の賜物をあなたがたにいくらかでも分け与えて、力づけたいからです。12 というよりも、あなたがたのところで、お互いに持っている信仰によって、共に励まし合いたいのです。

 パウロはここで、なんとかあなたたちに会いに行きたいと訴えています。そして、それは、ローマの人たちを「力づけたい」からであり、「お互いに励まし合いたい」からだと言っています。でも、この手紙の内容を読んでいく限り、パウロが望んでいたのは、なんとかしてローマの人たちの信仰を方向修正して、神様のことをもっとよく理解してほしいということです。パウロは、ローマの人たちに対して、「あなたたちは間違っていないからそのまま頑張ってください」と激励しようとしていたのではなく、「あなたたちはちょっと間違っているから、よく考えてね」と教えようとしていました。このパウロの姿勢から、私たちは、互いに励まし合うとはどういうことかということを教えられていると思います。
 イエス様を信じて生きることは、単純なようで、簡単ではありません。「この状況で神様は何を望まれるのか」、それぞれの置かれた具体的な状況の中で、次々と疑問は湧いてきます。また、苦しみがあまり大きいと、神様が本当にいるのか、本当に自分を愛しておられるのか、分からなくなってしまう時もあります。そして、人間が集まるところには、必ず大なり小なり力関係が生まれます。目立つ人の発言が注目されがちですが、それが必ずしも正しいとは限りません。いつの間にかみんなで間違っていることに気が付かなくなってしまうことも起こります。それが、結局は誰かを傷つけたり、排除したりする結果を招くこともあります。
 だから、私たちはいつも、自分以外の人、自分のグループの外の人たちに、方向修正してもらう必要があります。イエス様のことを全部わかったつもりにならずに、自分が間違っているかもしれないと覚えていて、相手に耳を傾ける謙虚さを持つことが大切です。
 これは、間違いを正す側だったパウロも同じです。パウロは決して、問題の答えを全部知っていて、ローマの人たちにそれを受け入れるか拒否するか二択を迫っていたわけではありません。パウロ自身も、これまでずっと、様々な意味で自分とは異なる人たちと関わる中で、成長してきました。各地の教会の人たちと個人的に関わり、それぞれの抱える苦しみや葛藤に向き合うことで、パウロ自身もイエス様をより深く理解していったのだと思います。だから、パウロが「お互いの持っている信仰によって、共に励まし合いたい」と言った気持ちは嘘ではありません。互いの違いを認めて、本音をぶつけ、真剣に対話し、一緒にイエス様に答えを求め続けることが、励まし合うということです。教える側だったとしても、教えることは自分自身の信仰のためでもあり、教える立場と教えられる立場は決して固定ではなく、常に入れ替わるものです。
 それにしても、パウロはなぜこんなに積極的に行動できたのでしょうか?その原動力が続く言葉から少しずつ分かってきます。13-15節に進みます。

2. 人に伝えずにいられないから (13-15, 1コリント9:16)

13 きょうだいたち、ぜひ知っておいてほしい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも、何か実りを得たいと望んで、何度もそちらに行こうとしたのですが、今まで妨げられているのです。14 私には、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。15 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。 

 ここで一番注目したいのは、14節の「私には果たすべき責任がある」という言葉です。「責任 」と訳されている言葉は、元々「負債 debt」の意味もある言葉です。つまり、ここで言われている「責任」は、「委ねられている役割」という意味よりももっと強い意味で、「強制的にさせられていること」という意味です。パウロが何を言いたかったのか、パウロの他の手紙がヒントになります。コリントの信徒への手紙第一9:16です。

(1コリント9:16) もっとも、私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私には災いです。

パウロにとって福音を宣べ伝えることは、自分の内側から決して消えない願いであり、それをすることが喜びでした。

 ここで私たちがパウロに学べるのは、イエス様を信じることは、イエス様のことを人に伝えずにはいられなくなることだということです。パウロが特別なのでも、牧師が特別なのでもありません。イエス様の素晴らしさを伝えるためには、聖書に詳しい必要も、理路整然と教理を説明する必要もありません。イエス様と共に生きていることを喜んでいて、自分の周りの人にイエス様のことを知ってほしいと本気で願っているなら、必ずしも言葉で言い表さなくても、それでいいと思います。逆に、自分の中からイエス様と共に生きる喜びが消え、他の人に伝えたいという願いがないのなら問題です。それはもしかしたら、辛い状況に置かれてイエス様を見失ってしまっているのかもしれません。または、惰性で「クリスチャン」を続けていて、困ったときだけイエス様を頼ったり、自己満足のためにイエス様を利用しているだけになっているのかもしれません。両極端ですが、両方とも、解決方法はただ一つです。イエス様の十字架という事実、福音を受け取り直すことです。結局、それが私たちを動かす原動力であり、道に迷ったときの道しるべです。16節に進みます。


B. 私たちをつき動かす原動力

1. イエス様は全ての人のために死なれたという確信 (16)

(ローマ1:16) もっとも、私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私には災いです。

a. 十字架という「救い」

 パウロがここで「私は福音を恥としません」と言っているのは、そういう人(福音を恥とする人)がたくさんいたからです。福音は、一言で言えば、十字架で処刑された一人の罪人に関するものです。どうしてその人が人間を救う力を持っているというのか、多くの人は理解できませんでした。それは、今の世界でも同じです。イエス様を信じることは非科学的で非常識な面があるので、最初は誰でも戸惑い、信じてからも、どう人に説明すればいいのか、私たちは迷ってしまいます。
 でも、私たちは、十字架の出来事は全ての人に救いをもたらすものだと知っています。救いとは、罪の赦しです。罪とは、全ての人間が持っているもので、神様を神様とせず、自分を神様にする性質のことです。どの時代もどの文化でも、この人間共通の罪の性質が苦しみをもたらしてきました。自分が神様なら、他の人は支配していい存在になり、自分の国の利益が最優先なら、他の国は攻撃して支配していい存在になるからです。それは、傷つけあい、殺し合う負の連鎖です。イエス様は、この負の連鎖を止めるために、十字架で死なれました。私たちの罪がもたらす苦しみと死を引き受けられました。そして、私たちの罪を赦し、私たちを罪の力から解放されました。罪に支配されて傷つけ合うのではなく、神様によって愛し合うことができるようにしてくださいました。それがイエス様が十字架で達成してくださった私たちの救いです。

b. 全く新しい生き方への招き

 この救いは、個人の心を変えるという以上の、世界規模の救いです。この世界に生きながら、全く新しい世界を見ながら生きる、新しい生き方への招きと言えます。

 16節のパウロの言葉で、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも(救いをもたらす)」とあります。日本語では少しニュアンスが変わっていますが、英語では直接的に言われている通り、「第一にユダヤ人に、その次に異邦人に」という言い方が元々のパウロの言葉です。パウロははっきり、ユダヤ人が優先だということを言っているのです。でも、パウロは自分の民族を特別視して、ユダヤ人以外を差別しているのではありません。そうではなく、「ユダヤ人に限定されてきた救いが、今やユダヤ人以外の全ての民族にまで及ぶようになった」という、パウロの確信を表しています。正確に言えば、神様は最初からユダヤ人だけを愛していたわけではなく、ユダヤ人の方で神様のことを勘違いしていたのですが、それは神様がイエス様としてこの世界に来られるまでは明らかにされていませんでした。神様の愛の大きさが、それまでユダヤ人が考えてきた以上に大きく、実際、誰にも想像できないほど大きかったことが、イエス様によって明らかにされました。それは、人類の歴史の分岐点であり、この世界に神様の国が始まった分岐点です。このことは、続くパウロの言葉にさらにヒントがあります。最後の17節を読みます。

2. 救いは神様の恵みであるという確信 (17)

17 神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

a. 「神の義」とは

 ここで急に「神の義」 という言葉が出てきました。この言葉には何重もの意味があります。まず、神様は正義の方で、いつも正しいことをされるという意味です。また、神様は誠実な方で、いつも私たちに応えてくださる方だという意味もあります。神様がそういう方であることは、イエス様の十字架によって証明されました。また、十字架によって私たちの罪を赦してくださったという意味で、神様は私たちを正しい者としてくださる方だということも言えます。神様は、私たちとの壊れた関係を修復し、正しい関係に回復させてくださる方です。私たちを罪人のまま受け入れ、自分の子どもとして愛してくださり、また、友となってくださる方だとも言えます。そして、このことは全て、神様が率先して行ってくださることであり、神様ご自身の願いです。神様は、私たちを救いたいと願われて、イエス様という一人の人となられて、十字架で死なれました。それは、神様の側で大きな苦しみを伴う計画でしたが、人間の意志とは関係なく、神様の自由な意志で、神様ご自身が決められ、実行されたことです。そこに、人間の入る余地はありません。神様の救いというのは、神様が正しい良い方であることに根拠があり、百パーセント神様の働きなのです。私たちはそれを恵みとして受け取るだけです。

b. 信仰という恵み

 だからパウロは、「正しい者は信仰によって生きる」という旧約聖書の言葉を引用しました。イエス様を信じるか信じないかは、私たちに委ねられた選択です。それは確かに、私たち人間が、一人ひとり決断しなければいけない問題です。でも、イエス様を信じること自体が、私たちの力でできることではなく、イエス様の力によることです。私たちの理性と感情に働きかけて、十字架の出来事を理解させてくださるのは、イエス様の霊、聖霊です。十字架という出来事自体が神様の恵みであると同時に、その出来事を信じる信仰も神様の恵みです。ただで、一方的に与えられている、受け取るかどうかも強制しない、神様の恵みです。でもそれは確かにもう、全ての人に差し出されている、今ここに存在する恵みです。そのことを確信できるとき、私たちのうちには喜びが尽きず、他の人にもこの喜びを伝えたいという思いが与えられます。

 この喜びは、イエス様によって何度も新しくされることができます。自分の力によらずに、ただ信仰という恵みによってそれぞれの人生を生き、それぞれに与えられている人間関係の中でイエス様のことを証し続けましょう。私たちは、イエス様が誰のことも見捨てないと知っており、互いの問題を一緒に乗り越えることによって成長できると知っています。私たちには自分の人生も誰の人生も変えることはできませんが、イエス様はどんな人にもどんな状況においても、喜びと希望のある生き方を与えることができます。 

(お祈り) イエス様、あなたは、私たちがあなたのことを知るずっと前から、私たち一人ひとりのことを知っておられ、共に生きることを願ってくださっていました。今も、私たちがあなたのことを忘れてしまっていたとしても、見失ってしまっているとしても、あなたは決して私たちを見捨てることはなく、実は一番近くにいてくださると知っています。どうか、私たちが自分の力で生きるのではなく、ただあなたを信頼し、あなたに希望を置くことができるようにさせてください。そして、私たちの内にあなたと共に生きる喜びを増し加えてください。私たちの主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエス様を信じることは、私たちを人との関わりの中に押し出します。私たちは、イエス様が誰のことも見捨てないと知っているからであり、互いの問題を一緒に乗り越えることによって成長できるからです。私たち自身もイエス様によって何度も新しくされることを経験し、自分の力によらずに、ただ信仰という恵みによってそれぞれの人生を生き、それぞれに与えられている人間関係の中でイエス様のことを証し続けましょう。私たち自身には自分の人生も誰の人生も変えることはできませんが、イエス様はどんな人にもどんな状況においても喜びと希望のある生き方を与えることができます。

話し合いのために

1.「お互いの信仰によって励まし合う」とは、具体的にどういうことですか?あなたはユアチャーチでそういう関係を持っていますか?

2.「福音を告げ知らせる」「イエス様を証しする」とは、言葉でイエス様のことを説明すること以外にどんなことがありますか?それをせずにはいられないことはありますか?

子供たちのために(保護者のために)

1コリント9:16で、パウロは、イエス様のことを伝えないとしたら自分は不幸だとまで言っています。パウロにとって、イエス様のことを人に伝えることは、自分自身が嬉しいことで、したくてやっていたこと、やらずにはいられないことでした。みんなにとって、教会に行くこと、お祈りすること、聖書を読むことなどは、本当はやりたくないけどやらなければいけないことでしょうか?やってもやらなくても、どっちでもいいことでしょうか?それとも、心底嬉しいことでしょうか?イエス様を信じることは、誰かに言われてすることではなく、みんなの心に正直に従えばいいことです。(保護者の皆さんの正直なところも含めて、一緒に話してみてください。)。