❖ 聴く(英語通訳付)
❖ 読む
大人が本気で歌う教会
詩編 96
永原アンディ
今日のテキストは詩編96編です。まず全体を読んでみましょう。
1 新しい歌を主に歌え。全地よ、主に向かって歌え。
2 主に歌い、その名をたたえ 日ごとに救いの良い知らせを告げよ。
3 国々に、主の栄光を すべての民にその奇しき業を語り伝えよ。
4 まことに主は大いなる方 大いに賛美される方 すべての神々にまさり畏れ敬われる方。
5 もろもろの民の神々はすべて空しい。主は天を造られた。
6 威厳と輝きは主の前にあり 力と誉れはその聖所にある。
7 もろもろの民の氏族よ、主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ。
8 御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて主の庭に入り
9 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。
10 国々に告げ知らせよ 「主は王となられた。世界は固く据えられ 決して揺らぐことはない。主はもろもろの民を公平に裁かれる。」と
11 天は喜べ。地は喜び躍れ。海とそこに満ちるものは、とどろけ
12 野とそこにあるものも皆、喜び勇め。森のすべての木々も、喜び歌え
13 主の前に。主は来られる。地を裁くために主は来られる。主は義によって世界を まことをもってもろもろの民を裁かれる。
ユアチャーチのことを誉めてくれる方はたくさんいるのですが、私には特に印象に残っている言葉があります。以前にもお話ししたことがありますが、今のところ、私にとってはそれ以上にうれしい言葉はありません。それを今日のお話の題名にしました。「ユアチャーチは大人が本気で歌う教会ですね!」 もちろん本格的な聖歌隊があるというようなことではありません。「一人一人が、本気で歌うことを、礼拝として神様に捧げている。」ということです。なぜうれしいかと言えば、それこそがユアチャーチの本質だと信じてきたからです。
この本気で歌う礼拝の大切さを教えてくれるのが今日の詩編です。この詩には〇〇しなさい、という語り掛けがいくつか出てきます。見つけてください。
歌いなさい、讃えなさい、告げなさい、語り伝えなさい、帰せ(主のものと認めなさい)、携えてきなさい、入りなさい、ひれ伏しなさい、おののきなさい、告げ知らせなさい、喜びなさい、とどろきなさい、勇気を出しなさい、喜び歌いなさいとあります。
この詩編は、これらの〇〇しなさいという呼びかけと共に、その内容が歌われています。そしてこの詩の全体が、私たちの礼拝において欠かすことのできない大切な要素を教えてくれています。
1. 歌え、告げよ、語り伝えよ、喜べ、 誰が、誰に?
最初の3節をもう一度読んでみましょう。
新しい歌を主に歌え。全地よ、主に向かって歌え。 主に歌い、その名をたたえ 日ごとに救いの良い知らせを告げよ。国々に、主の栄光を すべての民にその奇しき業を語り伝えよ。
呼びかけられているのは<私たち>です。<新しい歌を><主に>向かって歌いなさい、と。しかし私たちといっても、ここにいる人たちだけでということではなさそうです。<全地よ>とあるように、神様に作られたものの全てが、歌い、神様をほめたたえることが望まれています。
どうしたら全ての民が歌うことができるのでしょう?それは未来のこととして期待すべきことです。今、そのためにできることは、私たちが歌うことです。まだ主に向かって歌う喜びを知らない人々を代表して歌っているのです。
そして、その歌を聞かせるのは神様だけではないようです。人々に「日ごとに良い知らせを告げる」ため、主が日ごとにして下さる「素晴らしいこと」を語り伝えるためでもあるのです。
なぜ<新しい>歌なのでしょうか?今の私たちが、未来に向かって、今の気持ちも主に向かって歌うべきだからです。もちろん、過去の恵みについて、それを思い起こすために歌うことも大切です。しかし、同じ過去の恵みについて歌うにしても、それに対する昨日の思いと、今日の思いと、明日の思いは異なるのです。神様は、今この時の私たちの思いを聞きたいのです。それはまた<人々>も同じです。今、この時の私たちの思いを伝えたいからです。
ここまでまとめましょう。私たちは主に向かって歌います。しかし私たちとは、単に自分自身でも、ここにいるグループだけでもなく、キリスト教徒というだけでもなく全ての人と共に、その代表として、新しい歌を歌い続けてゆきます。それを聞いていてくださるのは神様だけではありません。歌う私たちの生活を通して、人々にも伝えられるのです。
次に少し先の7−9節に目を向けてみましょう。
7 もろもろの民の氏族よ、主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ。
8 御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて主の庭に入り
9 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。
栄光を主に帰す(ascribe), という言葉は、普段あまり使いませんが、主のものであると認めなさい、ということです。なぜそう言われるかと言えば、人間は神様に属するものを自分の所有と勘違いしやすいものだからです。例えば、ここに記されている栄光、力は本来神様のものなのに、王や権力者は自分のものと勘違いすることが多いのです。今の時代でいえば、世界の環境、資源がそうです。本来は神様のもので、私たちはその管理を委ねられているに過ぎないのに所有者のように勝手に振る舞い。独り占めを試み、富む者はますます富み、貧しい者はさらに貧しくさせられます。
「供え物を携えて」とありますが、私たちが献げる献金と考えて差し支えありません。なぜなら、私たちは自分の力で稼いだお金と考えがちですが、実は神様が恵みにより、資源を与え、機会を与え、能力を与えくださるので私たちは収入を得ることができるからです。この神様の働きを担って教会が活動できるように、私たちは神様からいただいたものから、献げ物として主の前に差し出すのです。
この献げ物を携えて、私たちは主の前に来てひれ伏します。それは「全てはあなたのものです」という気持ちの現れなのです。オンサイトであろうとオンラインであろうと、真剣に、心を込めて礼拝しましょう。
11-13aを読みます。
11 天は喜べ。地は喜び躍れ。海とそこに満ちるものは、とどろけ12 野とそこにあるものも皆、喜び勇め。森のすべての木々も、喜び歌え13a 主の前に。
〇〇しなさいの最後に「喜べ、喜び踊れ、喜び歌え」ということを考えてみましょう。 <喜ぶ・踊る・歌う>ことが礼拝の大きな要素であることがわかります。礼拝は、理性的に受け取る、表現するだけでなく、感情的に受け取る、表現するものです。しかし、喜べないのに、喜んでいるふりをしなさと言われているのではありません。今の自分の感情のままで礼拝していいのです。
それにしても、この世界の創造以来、変わることのない人間の罪深さ、愚かさにもかかわらず、神様の恵み、憐れみは私たちに注がれています。それがなければ、地球上の人間は、はるか昔に他の動植物、自然を道連れにして滅びていたことでしょう。この、神様の恵み、憐れみが私たちの喜びの根拠です。そしてそれは、今置かれている状況に左右されることはありません。
2. 歌え、告げよ、語り伝えよ、喜べ、 何を?
それでは「歌え、告げよ、語り伝えよ、喜べ」 の内容について書かれている部分を読んでみましょう?
4 まことに主は大いなる方 大いに賛美される方 すべての神々にまさり畏れ敬われる方。
5 もろもろの民の神々はすべて空しい。主は天を造られた。
6 威厳と輝きは主の前にあり 力と誉れはその聖所にある。
10 国々に告げ知らせよ「主は王となられた。世界は固く据えられ 決して揺らぐことはない。主はもろもろの民を公平に裁かれる。」と
13b 主は来られる。地を裁くために主は来られる。主は義によって世界を まことをもってもろもろの民を裁かれる。
神様に感謝すること、また人々に告げ知らせるべきことの内容は、
1. 全てを創られた方であること
2. 世界の王(主)であること
3. その力と栄光が完全に現される時が来ること
の三つです。 世界は自分のものではなく、神様が創られたもの、私たち一人一人もその中に含まれる、と考えない限り人間同士の争いは終わることはないでしょう。私たちには、誰も自分が支配者であることを主張する権利はありません。また、国や民族が他への優越を主張することもできません。
全てを創られた方だけが、最初から終わりまで主であり、王である方です。この方が王である限り、誰も搾取されたり、身の危険を覚える必要がありません。
問題は、この世界の現状をどうみたら良いのかという点です。13節にあるように、この時代に預言され、期待された真の王、主は、ナザレのイエスとして、地を裁くために来てくださったのに、悪いことは起こり続けているようにみえます。イエスが来られて2000年以上も経つというのに?
神様の力と栄光が完全に現される時は確かにきたのです。しかしその完成には至っていないということです。私たちは、完成の時の只中に置かれているということだと思います。イエスによる正義の実現は<始まり>ました。しかし今はまだ道半ばなのです。
私たちは新しい歌を歌い続けます。誰にも知らされていない完成の時を目指しながら、すでに始まった神の国の民として前進してゆきましょう。
(祈り)神様、あなたが私たちを招いて、あなたの計画を進める者としてここに置いていてくださることをありがとうございます。あなたが共にいて下さる、喜び、安心をありがとうございます。どうぞ私たちに、日々新しい恵みに気付かせ、私たちの心に新しい歌を生まれさせてください。私たちが、いつもあなたの恵みをいただき、その力によって、あなたの愛を、あなたの正義を行うものとしてください。イエス・キリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
「歌え」それは礼拝しなさいということです。「新しい歌を」、それは過去ではなく今、そして未来を喜び、願い、求めなさい、ということです。私たちは主の求めに真剣に応えているでしょうか?全てを公平に裁かれる主に従って歩むということは「主の公平な裁きの執行官」として生きるということです。それは主から来る喜びと平和をすべての人々と分かち合うということです。
話し合いのために
1. 私たちが礼拝で歌うのは何のためですか?
2. なぜ主に向かって歌うことが大切なのですか?
子供たちのために(保護者のために)
このテキストを親子で読みましょう。そして神様の「礼拝しなさい」が私たちに与えられている第一の命令であることを確認しましょう。それなしには、神様に全ての人が命じられている「互いに愛し合うこと」もできないからです。そして、この日のメッセージの後のワーシップに、ライブでも、後からでもいいので子供たちと一緒に参加してください。