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心に刻まれるしるし
ローマ書第5回
ローマ 2:17-29
池田真理
今日はローマ書の続きで、2:17-29を読んでいきます。前回から引き続き、なぜ神様に選ばれた民であるユダヤ人が異邦人と同じように罪深いのか、というテーマが議論されています。前半と後半に分けて読んでいきます。まず、17-24節です。
A. 信仰は道徳ではない (17-24)
17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、18 御心を知り、律法に教えられて何が大切かをわきまえています。19 ‐20 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。21 それなら、どうして、他人には教えながら自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら盗むのですか。22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。23 あなたは律法を誇りとしながら、律法に背いて神を辱めています。24 「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中で侮られている」と書いてあるとおりです。
ここでパウロが批判しているのは当時のユダヤ人の偽善ですが、彼らの問題は私たちの問題でもあります。彼らも私たちも、信仰を道徳と間違えてしまうことが起こるからです。
信仰とは、まず第一に心で神様を信じることですが、その結果として、言葉や行いをより良いものに変えることが必ず伴います。それまで神様と関係なく生きてきた人が神様を信じて生きるようになるということは、自分中心の生き方から神様中心の生き方に変わることであり、自分のために他人を利用する生き方から他人のために自分を用いる生き方に変わることです。それは、社会で一般的に許されているよりも、より厳しい倫理基準を持ち、より高い道徳観念を持つこととも言えます。ですから、信仰には道徳が伴うと言えます。
でも、道徳には信仰は必ずしも必要ではありません。より良い生き方や道徳的な正しさというのは、結局は人間が判断することです。他の人間が私の言葉や行いを、良い、正しい、立派と思ってくれれば、それでいいことになります。立派な行いの裏で心で何を思っていようと、他の人にそれが見えなければ、別に問題は起きません。それが道徳の限界です。
でも、道徳は信仰よりも分かりやすいので、私たちは道徳に頼りたくなってしまいます。目に見えない神様よりも、目の前の人間に評価された方が分かりやすいので、信仰よりも道徳を優先してしまうとも言えます。そして、だんだん、人から評価されていれば、神様からも評価されているように錯覚していってしまいます。反対に、人から評価されなければ、神様からも評価されていないと思ってしまうことにもなります。そうなると、神様を心から信じているかどうかよりも、人に認められる良い行いをしているかどうかの方が中心になってしまいます。そのまま間違いに気づかなければ、信仰は簡単に偽善になってしまいます。そして、偽善は多くの人を苦しめます。
後半の内容もこれと似ています。25-29節を読んでいきましょう。
B. 信仰は宗教的儀式ではない (25-29)
25 あなたが律法を行うなら、割礼は役にも立つでしょう。しかし、律法に背くなら、あなたの割礼は割礼を受けていないのと同じです。26 だから、割礼を受けていない者が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字と割礼とがありながら、律法に背いているからです。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。そのような人は、人からではなく、神から誉れを受けるのです。
割礼は、男の子が生まれたら生後8日目に行われることが決まっていた、ユダヤ人の宗教的儀式です。それは、ユダヤ人がユダヤ人であることのしるしであり、神様に選ばれた民であるしるしでした。
でも、ここでパウロが言っているのは、割礼を受けることがユダヤ人を神様に選ばれた民にするのではないということです。割礼という儀式に超自然的な力があって、ユダヤ人を他の民族よりも優れた民族に変化させるようなことはない、ということです。
私たちには割礼の習慣はありませんが、キリスト教特有の様々な宗教的儀式に、ユダヤ人にとっての割礼と同じような、間違った期待をしてしまうことがあります。洗礼を受けたからと言って、または聖餐式や礼拝に出席したからと言って、私たちの人間性が特別に清くなったり優れたものに変化することはありません。そういうものが、私たちを神様に選ばれた民にするわけではありません。でも、洗礼を受けているかどうかや、礼拝に真面目に出ているかどうかなどは、道徳と同じで、他の人の目に見えることで、分かりやすいことです。だから、そういう儀式的なものに頼って、心で本当にイエス様を礼拝することの大切さを忘れてしまうことが起こります。そして、最悪の場合、そういう形式ばかりを他人にも強制して、中身のないむなしい偽善的な信仰に陥ってしまいます。
C. 信仰とは (28-29)
では、偽善的な信仰ではない、本当の信仰とは何かというと、28-29節のパウロの言葉にヒントがあると思います。
28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。そのような人は、人からではなく、神から誉れを受けるのです。
10 国々に告げ知らせよ「主は王となられた。世界は固く据えられ 決して揺らぐことはない。主はもろもろの民を公平に裁かれる。」と
13b 主は来られる。地を裁くために主は来られる。主は義によって世界を まことをもってもろもろの民を裁かれる。
私たちにも、「霊によって心に施される割礼」があります。それは、神様に愛されているという確信です。私たちは、イエス様の十字架を通して、神様が私たちの罪を赦し、私たちをこのままで愛してくださっていると知ることができます。私たちが自分の人生はなぜこんなにひどいものなのかと思ったとしても、イエス様が十字架で死なれた事実は変わりません。十字架が、神様が私たちを愛していることの、動かぬ証拠です。それでも、私たちはそのことを知っていても、愛されている実感を持てないこともよく起こります。頭では神様は良い方だと分かっていても、心がついていかないことがよくあります。そんな時、私たちは自分を責める必要はなく、自分の力に頼らずに、聖霊様が自分に働いてくださるのを待つだけです。私たちは誰も、神様の愛を自分の力で信じるのではありません。聖霊様によって初めて可能になることです。だから、「霊によって心に施される割礼」と言われています。聖霊様によって私たちの心に刻み込まれる、愛されている確信です。
ですから、今日の内容に合わせて、信仰とは何かと問い直すとしたら、こう答えることができると思います。信仰とは、自分の力によらずに、神様の愛をただで受け入れること、です。私たちは、神様に愛され、選ばれるために、何かをする必要はありません。何かができると思うのは、思い上がりです。それが道徳的行いであれ儀式的なことであれ、私たちが神様に選ばれるために頑張れることはないのです。神様が私たちに求めるのは、私たちが他人よりも優れていることではなく、自分で自分の正しさを証明することでもありません。そうではなく、ただ自分の弱さや間違いを隠すことなく、神様の愛に期待して委ねていくことです。それは、最初は怖いことかもしれません。でも、十字架の力と聖霊様の力によって、愛されている確信が強められていくことによって、少しずつできるようになります。
私たちが本当に神様のことを愛しているかどうか、愛されている確信を持っているかどうかは、神様にしか見えません。また、そのことを信じたくても信じられない葛藤がどれほど大きいかも、他の人には見えませんが、神様は知っています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である者こそがユダヤ人である」と言われています。そして、「そのような人は、人からではなく、神から誉れを受けるのです。」
(お祈り) 私たちの主よ、あなたは一人ひとりの心の内をよく見て、知っておられます。あなたの愛を疑い、信じ切れないでいる弱い心を知っておられます。それでも、あなたの私たちへの愛が変わることはありません。どうか、私たちの恐れや不安をとかして、傲慢な心を砕いてください。あなたを信頼して、愛されている喜びをもっと知り、あなたに似た者になれるように変えてください。イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。
メッセージのポイント
私たちは、目に見えない神様よりも、目の前の人間の目を気にしがちです。その結果、道徳的に正しい生活を送ることや、宗教的な儀式を守ることが信仰の中心になってしまい、それができているかできていないかで、自分も他人も評価するようになってしまいます。でも、神様が私たちに求めるのは、私たちが他人よりも優れていることではなく、自分で自分の正しさを証明することでもありません。そうではなく、自分の欠けを認めて、神様にしか自分を救えないと認めることだけです。
話し合いのために
1. なぜ私たちは偽善的になりやすいのでしょうか?
2. 偽善的でない(完成された)信仰とは?
子供たちのために(保護者のために)
イエス様は「あれはやっちゃダメ、これもやっちゃダメ」というように言う方ではありません。また「これをしないと(これができないと)愛してあげない」ということもイエス様には一切ありません。じゃあ、何をしても怒られないの?なんにもしないでいいの?と思ってしまいますが、それは一人ひとりが考えて決めることです。考えるヒントはいつも、イエス様は私たち一人ひとりが大好きすぎて、十字架で命を捧げられたということだけです。自分の正解と他の誰かの正解は違うかもしれません。他人と違うとどきっとしますが、「みんながどう思うか」よりも、イエス様によく聞いてください。