主に喜び叫べ!

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主に喜び叫べ!

詩編 100

永原アンディ

1. 賛歌。感謝の詩。
全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。

2. 喜びながら主に仕えよ。
喜び歌いつつその前に進み出よ。

3. 主こそ神と知れ。
主が私たちを造られた。私たちは主のもの。
主の民、その牧場の羊。

4. 感謝して主の門に進み賛美しつつ主の庭に入れ。
主に感謝し、その名をほめたたえよ。

5. 主は恵み深く、主の慈しみはとこしえに。
そのまことは代々に及ぶ。


1. 叫ぶほどの喜びの根拠 (1,5)

1. 賛歌。感謝の詩。
全地よ、主に向かって喜びの声を上げよ。

 最近、絶叫したことがありますか?ここのところは感染予防もあって、大声を上げることも滅多にないのですが、この詩の書き出しは「主に向かって喜び叫べ!」です。今は、少し控え目にした方が良さそうですが、喜び叫ぶことは神様の前に決して行儀の悪いことではありません。50年位前、「グループ・サウンズ」とよばれた日本で最初のバンドミュージックがブームになりました。ものすごい人気でコンサート会場で絶叫していて意識を失う人が続出して「失神」(syncope)という医学用語が社会現象になりました。 

 まさに偶像礼拝なのですが、私たちの主に対する喜びがそれより小さいわけがありません。全ての人が、全ての動植物、自然が神様を喜んでいる。創世記によれば、それが神様とその被造物である世界との本来の関係であったはずです。その喜びを見え辛くしているのは、神様の意思に背く人間の営みからくるものです。

 しかしそれでも神様は私たちを諦めません。イエスとしてご自身の作った世界に来られ、被造物のように生き、喜び、悲しみ、苦しみを通って、私たちの主であることを明らかにされたのです。この詩の最後の一節が有効であることをイエスはご自身で証明されたのです。

5. 主は恵み深く、主の慈しみはとこしえに。
そのまことは代々に及ぶ。

 目の前に立ちはだかる様々な問題によって、絶望的な気持ちになることがあります。しかし真実を見誤ってはいけません。あなたに対する 主は恵み深く、主の慈しみはとこしえにかわることはありません。


2. 主と私たちの関係 (3)

私たちにはなぜそのような資格が与えられているのでしょうか?それをどう活かしたら良いのでしょうか?そのことを知るためには、主と私たちの関係を理解していることが役に立ちます。この詩の中心に位置する3節をもう一度読みましょう。

3. 主こそ神と知れ。
主が私たちを造られた。私たちは主のもの。
主の民、その牧場の羊。

 私たちは主という言葉を、イエスに結びつけて考えますが、詩編の時代の人はイエスの存在を知らなくても、創造主は世界の外側にいる存在ではなく、日々お仕えしている主人という意識があったのでしょう。

 反対に私たちは、福音書に出てくるイエスが、時にとても人間的で、世界を超越した神様という概念に結びつけることを困難に感じます。自分が毎日仕えている主人であるイエスは、この世界の全てを創られた神様なのだ。その感覚を私たちは礼拝を捧げることによって磨くことができます。創造者と被造物という、他の誰よりもかけ離れた存在である神様が、イエスという誰よりも近い存在でもあるという真理は、創られた私たちもまたイエスと共に永遠の存在であることを保証しています。私たちが主の民であり、羊飼いである主の羊であるということは、主のための勤労者であるだけでなく、その家族の一員であり、必要なお世話をしていただけるものだということです。嬉しくて叫び出したくなりませんか?


3. 私たちの信仰 (23-25)

 3番目に取り上げるのは、今まで取り上げてきた1節と3節と5節をそれぞれ結ぶ2節と4節は、私たちを礼拝へと招き入れる言葉です

喜びながら主に仕えよ。
喜び歌いつつその前に進み出よ。

感謝して主の門に進み賛美しつつ主の庭に入れ。
主に感謝し、その名をほめたたえよ。

 日本語は主に仕えよ、と訳していますが、この仕えるの意味は英語にあるように礼拝せよ、です。訳が不適格なのではありません。というのは仕えることの本質は、礼拝することだからです。「私はどうやって主に仕えたらいいのでしょう?」と、問われることがあります。私は、誤解を恐れて「奉仕」という言葉は、教会では使わないようにしています。というのは、主に仕えることが、教会でのお仕事の何かを担当することだという勘違いがよく起こるからです。私たちの最優先の奉仕は礼拝を捧げることです。誰かのために祈りことも大切な奉仕です。誰かの悩みを聞くことも、しかし最優先は礼拝することです。

 しかし礼拝は、私たちからの一方的なものではありません。チャペルで行う礼拝をサーヴィスと呼びますが、神様が私たちに奉仕してくれる時もあるのです!どういうことなのでしょう。前の部分で、「私たちの神である主が私たちの羊飼い」と歌われていました。イエス様は、私たちが仕える主人であると同時に、私たちを、守り、養う羊飼いであることを確認しました。私たちが元気に楽しく日々を過ごすことができるように、私たちを整えてくださる。それが主が私たちのためにしてくださる、神様の側からのサーヴィスです。

 さあ今朝も、これから主の前に進み出て、心からの礼拝を捧げましょう。


(祈り)主よ。今日もあなたに招かれて、あなたの前に進み出て、私たちはここにいます。あなたの前に。そしてあなたに礼拝を捧げます。あなたを喜び叫びます。あなたの恵みを思い起こして、あなたの恵みを期待して、歓び歌います。どうぞ、あなたの霊を私たち一人一人に満たしてください。喜びの霊である聖霊よ、どうぞ私たちの心を、深く変わることのない喜びで満たしてください。感謝してイエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

私たちの人生の営みの中心は礼拝です。礼拝は心静かに、神様の声を聞くだけの時ではありません。心の底から主に向かって叫ぶ時でもあるのです。苦難の時の助けを求める叫びもそうですが、本来は、喜びに満たされて叫ぶことだってできるくらい「主は恵み深く、主の慈しみはかわることはない」のです。主の恵みを受けとって喜びの叫びをあげましょう。

話し合いのために

1) あなたが喜び叫ぶことを妨げるのは何ですか?
2) あなたが喜び叫ぶことのできる根拠は何ですか?

子供たちのために(保護者のために)

まず、しばらくチャペルには来られないけれど、家族で捧げている礼拝が、神様が喜んでくださる本当の礼拝であることを伝えてください。
短い詩編ですから、みんなで声を合わせて読んでみましょう。
イエスが神様であること、私たちは働き人であると同時に、養われている者、世話をされている者でもあることを伝えてください。ワーシップタイムで子供達と一緒に歌ってみてください。