神様との和解

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神様との和解

ローマ 5:1-11

池田真理

 今日はローマ5章の前半を読んでいきますが、この箇所は、これまでの1章から4章までの結論部分と言えます。ここでは、パウロの論争的な口調が一旦止んで、イエス様を信じて生きる喜びと希望が、自分のうちに抑えきれないという調子で、語られています。少しずつ読んでいきます。まず1-2節です。


1. 神様との和解が希望を生む (1-2)

1 このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 この2節は、今日の箇所全体のテーマと言える2節です。私たちは、神様と和解したことで、現在も未来もどんな時も揺るがない希望を手に入れたのだ、というテーマです。神様と和解するとは、ここで「神様との間に平和を得ている」と言われている通り、神様との関係を回復させていることを指します。神様に愛されている確信を持ち、神様を愛して生きることを願う、神様と愛し合う関係を持っていることです。この関係を持っていることによって、私たちは希望を誇ることができます。どういうことなのか、続きの箇所で改めて説明されています。まず3-4節です。


2. 希望は苦難の中で強められる (3-4)

3 そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、4 忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。

 神様に愛されているという確信と希望は、苦難の中で揺さぶられ、試されますが、それによって強められます。苦難によって生まれる忍耐とは、ただじっと我慢してその時が過ぎるのを待つことではなく、神様に助けを叫び求め、神様を信頼する決心を続けることです。大きな試練の中で、時に神様を疑い、叫び疲れてしまう時もあるかもしれませんが、その中でしか知ることのできない神様の愛があります。
 だから、パウロは「忍耐が品格を生む」と言っています。「品格」とは、英語ではcharacter(性格、人格)、新共同訳聖書では「練達」(熟練すること)と訳されていて、訳しにくい言葉のようですが、「鍛えられた人格」のような意味です。苦難の中で神様に助けを求め続けることによって、私たちは信仰者として強くなれるという意味です。
 そして、信仰者として強められた私たちは、苦難の中においても私たちを変わらずに愛しておられる神様を信頼し、苦難を希望に変えていくことができます。だから、私たちは、神様の与えてくださる希望を誇ると同時に、苦難をも誇ることができます。
 では、その希望の根拠、神様に愛されているという確信を持てる根拠はどこにあったのでしょうか?5-8節に進みます。


3. 希望の根拠 (5-8)

5 この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6 キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。

 a. イエス様の死(=神様からの和解の申し入れ)

 先に6-8節に注目すると、強調されているのは、イエス様が死なれたことです。それも、助けを求めてもいない、自分に助けが必要だと気が付いてもいない私たちのために、イエス様が死なれたことです。さらに言えば、私たちは皆、イエス様が死ななければならなかった原因であり、イエス様を殺したのは私たちでもあります。
 さっき、苦難の中で希望は強められるとお話ししました。でも、その苦難というのは、誰かの責任を追求できない病気や災害のようなものから、明らかに人間に責任があるものがあります。そして、苦しみの責任を全く持たない人はこの世に存在しません。私たちは皆、自己中心的で、他人の痛みに鈍感で、不正義に対して無知だったり無関心だったりするからです。だから、私たちは皆、互いに被害者であり加害者でもあります。誰かの罪の犠牲者になることもあれば、誰かを犠牲にする罪人でもあるのです。どちらか一方の人は、いません。
 イエス様が死なれたのは、その全てから私たちを救うためです。第一に、加害者としての私たちが、自分の罪の罰を受けて苦しんで死ぬことがないように、イエス様は私たちの身代わりになられました。神様は、私たちが救いようもないほど悪く、過ちを犯す者だと知っておられましたが、それでも私たちの罪を赦して、私たちが神様と共に新しい正しい人生を歩んでほしいと願われたからです。
 イエス様が死なれた第二の意味は、被害者としての私たちに、他人から受けるどんな苦しみも、神様は知っておられると証しするためです。イエス様は友人からの裏切りも、無責任な憎しみも、冷たい無関心も、根拠のない差別や侮辱も、経験されました。暴力による体の痛みも知っています。それは、人間の罪の連鎖が作り出しているこの世界の現実です。イエス様はこの現実を終わらせるために、この世界に来られました。そして、この現実は神様が望んでいる世界ではないと気づいた一人ひとりを通して、この世界を変えようとされています。
 イエス様の死の第三の意味は、助けを求める私たちに神様が沈黙しておられる状況においても、体の死を迎えても、神様の愛は変わらないと証しするためです。十字架の上で、イエス様は神様に見捨てられる絶望を味わわれました。でも、その絶望はイエス様の復活と共に希望に変わりました。神様が私たちを見捨てることは決してなく、体の死さえも超えて、私たちとの関係を続けてくださることが証明されたからです。
 このように、イエス様の死を通して、神様は私たちに対する愛を証明されました。私たちの罪を赦し、私たちの苦しみを共に苦しみ、私たちを決して見捨てずに永遠に共にいたいと願われる愛です。

 b. 聖霊様によって心に注がれる神様の愛

 ここで5節に戻ると、この神様の愛というのは、聖霊様によって私たちの心に注がれる、とあります。私たちは、イエス様が私たちのために死なれたということを知識として知っていても、それによって心が動かされていなければ意味がありません。私たちの心を動かすのは聖霊様です。聖霊様が、イエス様の死を通して、神様に愛されているという確信を私たちの心に与えてくれます。その確信が安心や喜びになり、私たちの心を変えていきます。反対に、そのような安心と喜びが心からなくなってしまったら、聖霊様の助けを求めましょう。私たちは、聖霊様の助けなしには、愛されている確信を忘れてしまったり、分からなくなってしまう、弱い者なのです。

 それでは今日の結論部分に入っていきましょう。まず9-10節です。


4. 神様に義とされるとは、神様と和解すること (9-10)

9 それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。。

  この2節は、同じ内容を別の言い方で繰り返しています。でも、その言い換えに注目すべき点があります。それは、9節の「義とされる」が、10節で「神と和解させていただく」と言い換えられていることです。神様に義とされるとは、神様と和解することだということです。この言い換えは、裁判官が突然法廷を降りてきて、原告と共に被告に手を差し伸べるような変化です。上から私たちを裁く方が、下に降りてきて、和解を申し出られたというイメージです。イエス様の死によって私たちの罪を赦された神様が、私たちをご自分の友人として迎え、もう一度関係をやり直したいと言ってくださっているのです。自分の力では神様との関係を修復することのできない私たちに、神様の方から近づいて、修復を申し出てくださっているということです。私たちは、イエス様の十字架を通して、その神様の愛を真実だと信じて受け取るかどうか、一人ひとり決めなければいけません。それを受け取って生きることが、私たちの救いです。最後の11節を読みます。


5. 神様を誇りとして生きよう (11)

11 それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。

 今日の前半で、私たちは希望を誇りとし、苦難をも誇りとしているとありましたが、この最後の1節では、神様をも誇りとしているとあります。誇りとするというのは、喜びとするとも訳せる言葉です。私たちは、イエス様を通して神様の愛を知り、聖霊様によってその愛を受け取って、神様に愛されている喜びと安心を得ています。その上で、私たちが与えられているのは、神様を誇りとして生きること、神様を喜び、たたえて生きていくことです。イエス様は、私たちの親友となって、私たちの喜びも悲しみも共にしたいと願っておられる方です。私たちは、この招きを受け取っているでしょうか?


(お祈り)神様、私たちは自分の罪と他人の罪の中で苦しみ、進むべき道を見失いやすいものです。あなたが私たちを愛しておられること、この世界を良いものとしてつくられたことも、時に信じるのが難しく感じてしまいます。どうか私たちが、その度に、あなたの十字架を思い出し、あなたの赦しと憐み、愛を受け取ることができますように。私たちの心にあなたの霊を注いで、あなたに愛されている確信と、あなたと人を愛して生きたいという願いを、確かにさせてください。あなたと共に生きることのできる喜びと感謝を、私たちのうちに増し加えてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

私たちは、神様に愛されていると確信することで、神様と和解し、苦難の中にあっても決して揺るがない希望を手に入れることができます。神様の私たちへの愛は、イエス様が十字架で死なれたことにより証明されました。イエス様は私たちの過ちも苦しみも知っておられ、その上で私たちと共に生きることを望まれる方です。聖霊様によって、イエス様の思いをもっとよく知り、イエス様と共に生きる喜びと希望をもっと味わっていきましょう。

話し合いのために

1) 神様に愛されていることを確信していますか?
2) イエス様はあなたの親友ですか?

子供たちのために(保護者のために)

イエス様は私たちの親友でありたいと願う方です。私たちは、イエス様のことを忘れたり、友達の一人ではあっても親友とまでは思えなかったり、気持ちが変わります。時には、どうして親友なのにそんなひどいことをするのかと、けんかをしかけたり、「もう絶交だ」と思う時もあるかもしれません。でも、イエス様の私たちへの気持ちは変わりません。いつでも変わらずに私たちを大切に思ってくれる親友は、私たちを強くしてくれます。イエス様はそんな親友になってくださる方です。イエス様の方から絶交を望むことは決してありません。いつでも私たちと仲直りしたいと望まれています。(読むとしたら、ヨハネ15:3「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」)