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アダムからキリストへ:罪の連鎖から恵みの連鎖へ
ローマ書シリーズ第10回・ローマ 5:12-21
池田真理
(このメッセージは、2013年2月12日に国際基督教大学で行われた永田竹司先生の最終講義「ロマ書におけるアダム・キリスト:新しい人の到来」にたくさんの示唆をいただいています。)
今日はローマ書5章後半を読んでいきますが、内容に入る前に一つお断りをさせていただきます。今日のメッセージは、私が神学生だった時に感銘を受けた先生の講義に、たくさんの示唆をいただいています。国際基督教大学(ICU)の永田竹司先生です。私の通っていた神学校はICUのすぐ隣で、永田先生は講師として教えに来られていました。私は先生から、聖書の書かれた時代の歴史や文化を知ることがイエス様の愛の大きさをさらに広く理解させてくれるんだということを学びました。今日読んでいくローマ5:12-21は、永田先生がICUを退任される際に行われた記念の最終講義の中で取り上げられた箇所でした。ただ、このメッセージの言葉の責任は全て私にありますので、何か問題があれば私に責任があります。
それでは3つに分けて読んでいきます。まず12-14節です。
A. 全人類の代表であり、罪人の代表であるアダム (12-14)
12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。13 確かに、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められません。14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。このアダムは来るべき方の雛型です。
まず、この箇所は「このようなわけで」と始まっています。でも、直前の箇所とこの箇所では内容的に直接のつながりがなく、思わず「どのようなわけで?」とツッコミたくなります。これは、ここでパウロは直前の箇所だけを振り返っているのではなく、これまでの議論全てを振り返っているからだと、私は思います。1章から始まった、全ての人は罪深い、異邦人もユダヤ人も皆等しく罪人であるという議論です。今日の箇所はこれまでの議論の総まとめであり結論であり、パウロは、今日のこの箇所のことを言うために、1章からの議論を続けてきたということです。ですから、12節は、「このようなわけで、全ての人に死が及んだ。全ての人が罪を犯したからです」となります。
ただ、今日の箇所で重要になってくるのは、12節のその間の部分です。「一人の人によって罪が世に入った」というところです。これは14節に進むと、「アダムの違反」のことを指していると分かります。神様が最初に造られた人間、アダムが犯した罪のことです。アダムの罪とは、神様を否定し、自分自身を神様にしようとした罪です。でも、この「一人の人=アダムによって罪が世に入った」というのは、全人類の罪がアダムひとりのせいだという意味ではありません。神様を否定し、自分自身を神様にしようとするのは、アダムだけが犯した罪ではなく、私たち人間全てが持っている罪の性質です。アダムは、その性質を最初に発揮しただけであり、その意味で全人類の代表です。
では、なぜパウロはここでアダムのことを持ち出してきたのかというと、アダムは全人類の代表であると同時に、罪人の代表だからです。特にユダヤ人にとって、アダムは人類最初の罪人であり、失敗者、卑怯者、追放者の代表で、永田先生の言葉を借りると、「人類最悪の人」でした。パウロは、ローマ4章でアブラハムは全ての人にとっての信仰の父であると語っていましたが、アブラハムはいわば信仰の優等生です。現実には、そのような優等生ではない、優等生にはなれないと感じている多くの罪人が存在します。私たちも含めて、多くいます。パウロは、イエス様はそんな私たち罪人のためにこそ、この世界に来られたのだと語ろうとしていました。イエス様は、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。パウロは、このイエス様の愛を語るためには、優等生のアブラハムを語るだけでは不十分で、人類最悪の罪人アダムのことこそ語らなければいけないと考えたのです。
そして、さらに、14節の最後には驚きの言葉があります。「このアダムは来るべき方の雛型です。」この言葉の真意を知るためには、続きの箇所が必要です。15-19節です。
B. アダムは罪の連鎖を、キリストは恵みの連鎖を起こした (15-19)
15 しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。16 この賜物は、一人の犯した罪の結果とは異なります。裁きの場合は、一つの過ちであっても、罪に定められますが、恵みの場合は、多くの過ちがあっても、義と認められるからです。17 一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人のイエス・キリストを通して、命にあって支配するでしょう。18 そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
「アダムはキリストの雛型である」ということが一番分かりやすく説明されているのは、最後の18-19節だと思います。アダムの過ちによって全ての人が罪人となったように、イエス様の正しい行いによって全ての人が正しい者とされた、ということです。アダムとイエス様がもたらす結果は正反対ですが、一人で全ての人に影響を及ぼすという意味では二人は共通しています。アダムは罪の連鎖を起こし、イエス様は恵みの連鎖を起こしたと言い換えていいと思います。
まず、アダムによる罪の連鎖というのは、私たち人間の罪の性質が招く結果のことです。私たちの罪の性質というものは、それ自体、連鎖していく性質を持っています。神様を神様とせず、自分を神様にするなら、他の人を犠牲にするしかありません。誰かの犠牲にされた人は他の人を犠牲にし、憎しみの連鎖になっていきます。そんな負の連鎖の中で、ますます人は神様から引き離され、神様のことを忘れていきます。神様との関係の断絶は、霊的な死を意味します。だから、罪によって全ての人を死が支配したと言われています。
これに対して、イエス様による恵みの連鎖というのは、イエス様の十字架の愛が起こす奇跡です。イエス様の命と引き換えに、私たちの罪は赦されました。神様はご自分の命を捧げるほどに私たちを愛し、私たちに愛されていることを知ってほしいと望まれました。私たちは、愛されていると分かって初めて、本当に愛することができますし、赦されていると分かって初めて、本当に許すことができます。だから、神様との関係の回復は、私たちと神様の間だけの問題ではなく、私たち一人ひとりと他の人との関係の修復も可能にしてくれます。イエス様の十字架の愛という大きな恵みは、それを受け取った一人ひとりを通して、その周りの人にも連鎖していくのです。
さらに、この二つの連鎖は、どちらの連鎖がより強い力を持っているか、もう勝敗は決まっています。今日最後の20-21節を読みます。
20 律法が入り込んで来たのは、過ちが増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。21 こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。
C. キリストの恵みは罪の中でこそ満ち溢れる (20-21)
20 律法が入り込んで来たのは、過ちが増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。21 こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。
先に21節に注目すると、イエス様は、罪と死に支配された私たちを恵みで支配し、永遠の命に導くと言われています。イエス様の愛の力は、私たちの罪の力よりも大きく、私たちを罪の連鎖から解放することができます。ドミノ倒しにたとえると、アダムに代表される私たち人間の罪の性質が倒してしまったドミノを、イエス様の十字架の愛という恵みが一つずつもう一度起き上がらせていくイメージです。イエス様の愛は、どんなに複雑に重なって倒れたドミノも、重く重なったドミノも、起き上がらせることができます。神様が本来私たちに望まれていた、あるべき姿に、いるべき場所に、私たちを引き上げることができます。
それでは最後に20節に戻ると、律法のことが言われています。さかのぼって13節にも律法が登場していました。でも、今日のアダムとキリストの話の中で、律法のことを話す必要はそんなにないように私たちには思えます。それなのにパウロが律法のことに触れているのには、やはり理由があります。それは、パウロにとって、それまでユダヤ人の律法の中では罪人とされてきた人たちのためにも、イエス様は来られたのだということが重要だったからです。それは主に、律法を持たない異邦人と、ユダヤ人の中でも律法を守れない人たちのための恵みです。従来の「正しい人間」の枠から外れて、神様の恵みからこぼれ落ちたとされてきた罪人たち、失敗者たち、社会から排除された人たち、そんな人をイエス様は招かれ、赦され、癒されます。そして、その人たちを見下して、自分は正しいとうぬぼれている人たちの罪は大きく、やはり罪の赦しを必要としています。イエス様はその両方の人たちの間の関係も修復することができます。赦された罪が大きければ大きいほど、修復された関係が深ければ深いほど、イエス様の恵みはいっそう大きくなります。だから、イエス様の愛は、罪の中でこそ満ち溢れると言えるのです。
最後に、パウロの仲間の誰かが書いたと言われている、エフェソの人たちへの手紙2:14-16を読みます。
14 キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、15 数々の規則からなる戒めの律法を無効とされました。こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました。16 十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです。
イエス様は、私たちと神様の間の壁を壊し、私たちと他の人たちの間の壁を壊すことのできる方です。それは私たちの人生に劇的な変化を起こす場合もありますが、多くの場合はもっとささいな日常の中で起こる小さな変化です。主は私のことを確かに知っておられ、叫びを聞いておられると実感できる時。許せない人や理解できない人と、少しずつ向き合うことができるようになる時。イエス様の愛は、私たちの内側から働き、アダムの性質をキリストの性質に変えていくことができます。そして、私たちはイエス様によって一人の新しい人になり、イエス様のうちに互いに繋がりあって、一つの体となっていくことができます。
(お祈り)主イエス様、あなたは、社会の中で人から見下されたり嫌われたり、忘れられた人たちの元へ行き、罪を赦して、傷を癒され、共に食事をされました。その中に私たちも入れていただいたことを、ありがとうございます。どうか、あなたの愛で私たちを造り変え続けてください。あなたのように人を愛することができるようにしてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
メッセージのポイント
キリストの恵みの大きさを語るには、信仰の優等生アブラハムを語るだけでは不十分で、人類最悪の人アダムを語る必要がありました。アダムは、神様を否定し、自分自身を神にしようとする、私たち全人類の代表です。正しい生き方を知っていても実行できず、立派な信仰も持てない、全てのアダムのために、イエス様は十字架で死なれました。罪人を招き、赦し、愛されるイエス様の愛は、私たちを罪から解放し、神様との関係を回復させ、人との関係に癒しを与え、新しい人生を可能にしてくれます。
話し合いのために
1) アダムの罪と私たちはどう関係がありますか?
2) パウロはなぜここでアダムの話をしたのでしょうか?
子供たちのために
聖書はかっこいいヒーローや立派な王様の話ではないということは、もうみんな知っているかもしれませんが、中でも人類最初の人アダム(とエバ)は最悪ですよね。神様の掟を破って神様を裏切るし、自分の罪を人のせいにするし、楽園から追放されてしまうし、情けなくなります。でも、アダムは私たちの代表です。そして、イエス様は、裏切り者のことも卑怯な人のことも赦すし、仲間外れにされた人を仲間にいれる方です。私たちはみんなアダムと同じ弱い人間ですが、イエス様によって、イエス様と同じように他の人の間違いを許したり、仲間外れにされている人を仲間に入れてあげたりできるようになりましょう。(創世記3章とマルコ2:13-17を参考に。)