私たちは、罪の支配下ではなく、神様の支配下にある

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私たちは、罪の支配下ではなく、神様の支配下にある

ローマ 6:1-14

池田真理


 今日はローマ書6章の前半を読んでいきます。この6章の前半と、6章の後半、7章の前半は、同じことを少しずつ違う3つの切り口から語っていて、少ししつこい印象を受けます。おそらくそれは、この手紙の書き手であるパウロが、ユダヤ人からも異邦人からもよく誤解されていて、誤解を解く必要があったからです。当時の人たちが持った、パウロに対する誤解は、現代の私たちにも無関係ではありません。少しずつ読んでいきます。まず1-2節です。

A. 罪の中にとどまる私たち (1-2)

1 では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。2 決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

 これは、前回読んだ5:20「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」という言葉を受けての問いです。罪が多い方が恵みが多いなら、恵みを増やすためにもっと罪を犯せばいいということになる、という屁理屈です。屁理屈ですが、当時の教会の中には、例えばコリントの教会のように、実際にこの屁理屈によって乱れた生活を正当化する人たちもいたようです。行いによってではなく信仰によって救われるというなら、信じていれば何をしてもいいんでしょ、と開き直る態度です。

 私たちはさすがに、信じていれば何をしてもいいとは思わないかもしれませんが、信じていれば自分は何も変わらなくていいと、開き直ってしまうことはあるかもしれません。私たちは確かに、ただ恵みによって造り変えられるのであって、自分の力で自分を変えなければいけないと思う必要はありません。でも、自分は変わる必要があると認めているのといないのとでは、大きな違いがあります。自分は罪を赦されているのだから、もう変わる必要はないと思っていると、いつの間にか、信仰は自分に都合のいい言い訳になります。自分の間違いを認めないで、他人を責めたり、神様を責めたりすることになります。

 パウロは、それは違う、と強く否定しています。私たちは罪に対しては死んだのだから、罪の中にとどまって何も変わらないなんてありえないのだと言っています。どういうことか、続きを読んでいきましょう。まず3-7節です。


B. イエス様が私たちを新しくした

1. 古い私たちはイエス様と共に死んだ (3-7)

3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。4 私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。5 私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。6 私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。7 死んだ者は罪から解放されているからです。

 イエス様は、私たちを罪から解放するために、十字架で死なれました。そのことを、ここでパウロは様々な言い方で説明しています。

 6節には「私たちの内の古い人はキリストと共に十字架につけられた」と言っています。罪の中にいた古い私たちは、イエス様と共に十字架で死んだのだということです。私たちはもう罪の奴隷ではなく、神様の愛の中で生きる自由を与えられています。

 3−4節に戻ると、洗礼のことが語られています。洗礼は、一度水の中に沈んで、起き上がる動作をしますが、それはイエス様の死と復活を共にするという意味があります。洗礼という行為自体に私たちを生まれ変わらせる力があるわけではなく、古い私たちがイエス様と共に死に、イエス様が死から復活されたように、私たちも新しい命を与えられるということを表しています。

 でも、このことを、私たちはなかなか実感できないんじゃないでしょうか。古い自分は死んだ、罪はもう私たちを支配しないということを、頭では分かっていても、日々の生活の中でそれを実感するのはなかなか難しいことだと思います。なぜなら、罪が私たちを支配することはもうなくても、罪の力は依然として私たちに影響を及ぼしているからです。私たちはイエス様を信じた後も、相変わらず神様を忘れますし、自分を神様にして他の人を苦しめます。私たちの罪の性質はなくなっていないのです。でも、それでもいいのだとパウロは言います。続きの8-11節を読みます。

2. 実感できなくても、新しい命が与えられている (8-11)

8 私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。

 ここで一番重要なのは、最後の「考えなさい」という動詞です。これは、「みなしなさい」「認めなさい」とも訳せる言葉です。11節をもう一度読むと、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だとみなしなさい/認めなさい」となります。「〜です」と断言はしていません。

 これは、パウロも、私たちの罪の性質が消えて無くなることはないと知っていたからです。古い私たちは死んで、私たちは罪に対して死んだと言っても、実際には、私たちは生きている限り、自分の罪の性質と付き合わなければいけません。イエス様は私たちを罪から解放してくださいましたが、完全な解放はまだ達成されていないからです。私たちが罪から完全に解放されるのは、この体が死ぬ時か、イエス様がこの世界に戻って来られる時です。

 それでも、罪に支配されないで生きる新しい命は、確かにもう私たちに与えられており、私たちのうちに始まっています。8−10節で言われているイエス様の復活の命は、私たちの新しい命を先取りするものです。死者の中から復活させられた私たちは、もう死ぬことがありません。神様の愛に生きる命は永遠で、もう罪の力に負けて死ぬことはないということです。それは、この体があるうちから既に始まっており、この体が死んでも永遠に続く命です。それは具体的にどのように生きることを意味するのか、最後の12-14節を読んでいきましょう。


C. 私たちはもう罪の奴隷ではなく、神様の僕 (12-14)

12 ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。14 罪があなたがたを支配することはありません。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるからです。

 ここの部分は、一見非常に道徳的で、禁欲の勧めのように聞こえますが、そういうわけではありません。パウロはここで、「もう罪を犯してはいけない」とは言っていません。14節の前半にこうあります。「罪があなたがたを支配することはありません。」英語では、「罪はもうあなたがたの主人ではありません」と訳されていて、こちらの方が分かりやすいかもしれません。パウロは、私たちの主人はもう罪ではなく神様であることを思い出しなさい、と言っているということです。私たちはもう罪の支配下ではなく、神様の支配下にいます。それは、私たちがそのことを忘れて失敗することがあっても、もう動かない事実です。だから、ここでパウロは、罪を犯してはいけないと警告しているのではなく、私たちが罪を犯すことは避けられないけれども、罪はもう私たちを支配することはできないのだと励ましてくれているということです。
 12節では、「体の欲望に従うようなことがあってはなりません」と言われています。体の欲望とは、自己中心的な欲望の全てを含みます。そういう欲望は、残念ながら私たちが生きている限り消えて無くなることはありませんが、それに従うかどうかは私たちが決められることです。神様に従いたいという願いがあれば、神様は聖霊様によって私たちの考えを守り導いてくださいます。
 13節には、「五体を義のための道具として神様に献げなさい」とあります。「五体」というのは、この世界に肉体を持って生きていることを強調する言葉です。この世界に生きている限り、私たちには罪の性質が残っていますが、この世界に肉体を持って生かされているのは、この体を使ってこの世界で神様の道具として働くためです。だから、この体で生きている限り、持てる能力の全てを使って神様に仕えることが、私たちに与えられている新しい生き方です。

 今日最初の問いは、罪から解放された私たちは、もう何もしなくていいのか、という問いでした。答えは、神様を自分自身よりも愛して生きる決心を続ける必要がある、です。私たちは罪から解放されても自ら罪の奴隷に逆戻りする性質を持っています。それに対抗するために必要なのは、神様を誰よりも愛することであり、神様に従う僕となることです。
 私たちは神様を誰よりも愛しているでしょうか?自分の思いや他人の思いに振り回されていないでしょうか?時に自分に失望したり、他人に傷つけられたりしながらも、私たちは追い求めるべき方をもう知っています。イエス様の愛が私たちを支配して、私たちを造り変え、私たちを通してこの世界を変えてださることを期待して、生きていきましょう。

(お祈り)私たちを造り、この世界を造られた神様、あなたは私たちが間違いやすく弱い者であることを知っておられます。どうか、私たちがむなしいものを追い求めるのではなく、あなたの確かな愛と希望を追い求めることができるように、助けてください。あなたの霊を私たちに注いでください。イエス様、あなたの十字架によって、私たちも古い自分に死ぬことができます。肉体の死を超えてあなたと共に生きることができることを、楽しみにしています。どうか、私たちの日々の歩みを導いてください。主イエス様、あなたの大きな犠牲と愛に感謝して、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

私たちを支配することはありません。私たちはそのことをなかなか実感できず、相変わらず罪の中で苦しんでいるように感じますが、事実として、私たちはもう罪に支配されることはありません。私たちを支配しているのは神様であり、私たちは神様に属する神様の僕として生きる新しい命を与えられています。


話し合いのために

  1. 3−4節から分かる洗礼の意味とは?
  2. 罪から解放されるために、私たちにできることはあるのでしょうか?

子供たちのために(保護者のために)

3−4節を中心に、洗礼について話してみてください。洗礼という儀式に、私たちを罪から解放したり、私たちを清くしたりする効果があるわけではありませんし、洗礼を受ける前と後で私たちに大きな変化が起こるわけでもありません。それでも洗礼は、古い私たちが死んで、新しくイエス様と共に生きる人生の始まりを意味します。