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ハレルヤ!私の魂よ!
詩篇 104:24-35
永原アンディ
詩編の103,104を“私の魂よ主をたたえよ”というテーマでお話ししてきましたが、その5回目、最終回です。いつものように少しづつ読んでゆきましょう。
A. 世界は創造主のもの
1. レビヤタンも私たちも (24-26)
主よ、あなたの業はいかに豊かなことか。あなたは知恵によってすべてを造られた。
地はあなたの造られたもので満ちている。
海も大きく広々としている。その中のうごめくもの
大小の生き物は数知れない。
そこには舟が行き交い
あなたの造られたレビヤタンもその中で戯れる。
これらは皆、あなたに望みを置き
その時に応じてあなたが食べ物を与えるのを
待っている。
レビヤタンは海に住む巨大な怪獣として恐れられていました。ヨブ記とイザヤ書と詩編に登場しますが、ここでは被創造物の一つとして「戯れる」と可愛く表現されています。表紙のためにパブリックドメインを探したのですが、これが一番可愛かったのです。
世界にはまだ私たちの知らない動物も植物も存在します。ネッシーだっているかもしれません。私たちは知らなくても、世界は神様が創られたもので満ちています。私たちは自分たちの営みに関連することだけに関心があります。
例えばここには、戯れるレビヤタンと共に、そのすぐそばを運行する船が描かれています。
古代の人々にとって海は恩恵を与えてくれるものであると同時に、突然怪獣に襲われるような不安、恐れを感じさせるものでした。
しかし詩人は、そのすべてが人が理解していようといまいと神の創造されたものとして、神様との関係の中で生かされていることを知っています。
世界は神様のもの、と認めることは自分勝手にはできないという点では窮屈に感じるかもしれませんが、自分では対処できない物事でも、わからないことでも、神様は決して悪くはなさらないというという安心を与えてくれることなのです。
2. 神が与え、神が取り上げる (27-30)
あなたが与えると、彼らは拾い集め 御手を開くと、彼らは良いもので満ち足りる。
御顔を隠すと、彼らは恐れ息を取り去ると、彼らは息絶えて
塵に帰る。
あなたが息を送ると、彼らは造られる。あなたは土の面を新たにする。
私たちは生きるのに必要な全てを、神様に与えられています。多くの人は自分で働いて得ていると感じていますが、それはこの詩で言うなら、「拾い集め」る努力をしているに過ぎません。神様が手を開かなければ、私たちには拾い集めることさえできません。私たちはいただくことはできても、何一つ創造することはできないということです。
このことを忘れることが「罪」とも言えるでしょう。創造することができないのに自分の分以上に欲するので、他の人から、また自然から奪うことになるのです。
「私の魂よ、主をたたえよ」という励ましは、神様が十分良くしてくださるのだから、欲張るなよという自戒でもあるわけです。
そのように必要なすべてが与えられる被創造物でも、必ずいつかは塵に帰るのだということを詩人は付け加えます。神様の似姿として作られた人間も例外ではありません。肉体が滅びずに済む人は一人もいないのです。
なぜ神様はそのような世界を作られたのか?それは創られたものの知るところではありません。しかし神様はそれを教えるのではなく、私たちがこの世界における死で終わるものではないということをイエスを通して約束してくださいました。
今は、先のことを悩むときではなく、「私の魂よ、主をたたえよ」といいながら、今を精一杯生きる時です。
B. 主によって喜ぶ
1. 主と共に喜び歌う (31-33)
主の栄光がとこしえにあるように。
主がご自分の業を喜ばれるように。
主が地を見ると、地は震え山々に触れれば、それらは煙を吐く。
私は命のあるかぎり、主に向かって歌い 長らえるかぎり、わが神をほめ歌う
どんなに暗闇が地を覆っているように見える時にも、あなたが見ようとするなら、神様の恵みを見ることができます。「主の栄光がとこしえにあるように。主がご自分の業を喜ばれるように」という一節に注目しましょう。これは他人事ではないのです。神様の最後の創造物である人間が世界に絶望するなら、神様はご自分の業を喜ぶことはできません。主の栄光は私たちの営みを通して現されます。そのために、私たちは、そう願うだけでなく、私たちがするべきことがあります。そしてその第一歩が礼拝です。皆さんの週の歩み自体が神様の栄光であり、目に見える主の体・教会です。神様の光として、主の体・教会として歩む力はこの礼拝から得るのです。イエスの弟子たちは主と共に歩みながら、賛美の歌を主と共に歌いました。主に向かって歌うことは、主と共に喜ぶこと、神様の喜びに参加することでもあるのです。ですから、詩人が歌っている通り、私たちも命ある限り、主に向かって、主をほめたたえて礼拝しましょう。
2. 主に従って歩む人のゴール (34-35)
私の思いが御旨に適うように。
は主によって喜ぶ。
罪人は地から消えうせ悪しき者はもはやいない。
私の魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。
私たちが、諦めずに神様の意思にかなって生きなければ神様も喜べないことを、詩人も願っています。神様が私たちの喜びの源泉だからです。神の国=神様の支配の完成を目指して私たちは進んでいますがゴールは未だ見えてはいません。
しかし詩人はゴールを想像しています。すべての者が創造主と和解し、もう主に背く者のいない状態です。私たちはそれを期待して生きるのです。それぞれの場で“愛”という神様の戦いを戦い、局地的に勝利を収めてゆくのです。
最後に結びの言葉に注目しましょう。シリーズの題である「私の魂よ、主をたたえよ」で終わってはいません。「ハレルヤ」と加えられています。英語の聖書は、調べた限りどれも意訳して「主をたたえよ」とされています。日本語の聖書は現在使われているほとんどの聖書で、主をたたえよと意訳せず、原語のまま「ハレルヤ」としています。それには意味があると思います。ハレルヤは、意訳すると文になるのですが、原語では一つの命令形の動詞です。主をほめたたえることは、他の何かをたたえることとは決定的に異なるということでしょう。ハレルヤ!私の魂よ!この言葉を忘れずに、この地上での歩みを続けてください。
(祈り)神様、あなたが創られた全てを感謝します。私たちがコントロールできることも、できないことも感謝します。受け入れられることも受け入れられないこともあなたを信頼して感謝します。私たちの喜びの泉となり、私たちがあなたを喜んで生きることを、あなたも喜んでくださることを私たちも嬉しく思います。あなたの思いがこの世界のなりますように、今週も私たちの歩みを導いてください。私の魂よ!ハレルヤ!と自分を励まして、人々を励まして歩み続けることができるように、一人一人をお導きください。
メッセージのポイント
神様の恵みでさえ、水や空気の大切さと同様に慣れてしまい、喜べないものに目を向けてしまいがちです。神様の声よりも、それ以外のノイズが耳に付いて心が重くなります。しかし、世界の主権を神様から奪うことは誰にもできません。永遠に主と共に歩めることを喜んで、ハレルヤ(主をたたえよ)!と互いに、また必要な時には自分の心に呼びかけて歩み続けましょう。
話し合いのために
1)最近感じた創造の素晴らしさは?
2)あなたはどんな問題を抱えていて、どこ「主によって喜ぶ」とはどのようなことですか?
子供たちのために(保護者のために)
大人ですら経験したことのないパンデミックの中で、子供達に永遠の希望を伝えることは大切なことです。地上の、それも人間だけがこの状態をアタフタしていますが、海の中の生き物たちは悠然と与えられた生を楽しんでいます。こんな時だからこそ、子供達とこの詩から楽しい想像を沢山して、神様をほめたたえましょう。