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聖霊の働き③:見えない希望を信じる力
ローマ 8:18-30
池田真理
今日はローマ書8章18-30節を読んでいきます。「聖霊の働き」というテーマは今日で最終回です。私たちは、神様の愛を知っていても、絶望してしまう時があり、祈ることもできなくなる時があります。そんな時、それでも神様を信じる中に希望があるのだと、私たちの心に働きかけて、一人ひとりに分かるように教えてくださるのが聖霊様です。
少しずつ読んでいきます。まず18節です。
A. 私たちは何のために集められたのか?(1-5,47,48)
18 思うに、今この時の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光と比べれば、取るに足りません
ここで言われている「今の苦しみ」とは、この世界で私たちが経験するあらゆる苦しみを含んでいます。病気や戦争や、様々な挫折、人間関係の破綻など、聖書が書かれた時代も今も、私たちは様々な苦しみや悲しみを経験します。でも、ここで言われているのは、今私たちが経験している苦しみは、将来栄光が与えられるという希望と比べれば大したことはない、ということです。どういうことなのか、少しずつ読んでいきたいと思います。まず19-22節です。
1. 自然界は人間と共に苦しんでいる (19-22)
19 被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます。20 被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、そこには希望があります。21 それは、被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望です。22 実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。
被造物というのは神様に造られたもの全てのことで、人間も含まれますが、ここでは人間以外の生き物や自然界全体を指しています。この世界で苦しんでいるのは私たち人間だけではなく、私たち人間のせいで自然界も苦しんでいます。
聖書には、昔から人間が自然環境を壊しているという認識がありました。最も古いものだと、アダムとエバが神様の命令に反いたことで、「土は呪われてしまった」と言われています。(創3:17)また、詩篇や預言書には、戦争や王の失政によって大地が荒れ果てたという表現がよく出てきます。(イザヤ書24-27章など。)現代の環境破壊とはレベルが違うにしても、人間の悪が神様の造られたこの世界を壊しているという認識は昔からあったのです。
でも、今日のローマ書の箇所に戻ると、自然界のことが触れられているのは、少し唐突な印象を受けます。なぜ、私たちが今苦しんでいるということを話しているのに、自然界も共に苦しんでいると言う必要があったのでしょうか?
それは、神様が約束してくださっている将来の希望というのは、人間に限られたものではなく、自然界を含むこの世界全てが新しくされるという希望だからです。人間が完全に罪から自由になり、神様の子どもとしてこの世界を正しく治められるようになった時、自然界は本来神様に造られた調和を取り戻します。それは、イエス様がこの世界に戻ってこられる時を待たなければいけませんが、必ず来ると約束されている希望です。私たちは、その時を目指して、これ以上この世界を破壊することがないように、自然界が本来の姿を取り戻せるように、努力を続ける必要があります。
それでは23-25節に進みます。
2. 私たちの体は滅んで終わりではない (23-25)
23 被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子としていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。24 私たちは、この希望のうちに救われているのです。現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。25 まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。
人間は皆、神様の子どもであり、神様に愛されていない人間は存在しません。でも、この世界は神様の愛から程遠い状態にあり、憎しみや傷つけ合いの方が多くて、神様の愛を信じたくても信じるのが難しいのが現実です。また、その中でも神様の愛を信じて、神様に喜ばれる生き方をしたいと願っていても、それを完全にできる人は誰もいないというのも、私たちの葛藤です。
この葛藤と闘いは、やがてイエス様がこの世界に戻って来られて、私たちの体を贖われて新しい体にしてくださるまで続きます。その時には、神様の愛が完全に実現され、私たちは本当に神様の愛を理解し、神様の子供として永遠に神様と愛し合って生きることができるようになります。
だから、私たちは今神様の愛と厳しい現実の間で闘っていますが、この闘いは先の見えない苦しい闘いではなく、神様の約束のもとで希望に満ちた闘いです。私たちは誰も、若くても年老いていても、夢半ばで生涯を終えるのではなく、私たちの体の死を超えて続く、神様の計画の中で生かされています。
でも、このことを信じて希望を持ち続けるのは、実際とても難しいことです。だから、イエス様がこの世界に来られたのであり、私たちには聖霊様の助けが必要です。続きを読んでいきましょう、26-27節です。
B. 希望を信じられない時
1. 聖霊様が助けてくださる (26-27)
26 霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。27 人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って聖なる者のために執り成してくださるからです。
どんなに、神様が私たちを愛してくださっていて、目に見える現実だけが全てではないと知っていたとしても、私たちにはどうしても理解できない悲しい出来事や、逃れたくても逃れられない苦しみがあります。大切な人を亡くしたり、病気で色々なことをあきらめなくてはならなくなったり。家族から傷つけられて苦しんだり、過去の出来事に囚われている自分を変えたくても変えられなくて無力感に襲われたり。苦しんでいる人を見ても何もできない虚しさに支配されることもあるかもしれません。そして、神様に祈ろうとしても、何をどう祈ればいいのか、分からない時があります。現実がひどすぎて、一体なぜ神様はこの現実を許しているのか分からず、何を願っていいのか、言葉が出てこない時があります。泣くことしかできない時、涙すら出てこない時もあると思います。
今読んだ26-27節は、それでもいい、と私たちに教えてくれます。「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。」神様は私たちの言葉にならない嘆きを知っています。私たちは神様の前で立派な言葉や態度を持つ必要はありません。「なぜですか」と問い続けて、一生答えが出ない問いもありますが、神様は聖霊様を通して私たちの思いを導き、守ってくださいます。そして、希望を信じることができるように、助けてくださいます。
最後の28-30節を読みましょう。
2. 神様の愛は変わらない (28-30)
28 神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。29 神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。
神様の計画とは、私たちを自分の子どもとして、ご自分の元に呼び戻すことです。それは、私たちの肉体が死んで天国に帰ることも含みますが、それ以上に、肉体があるかないかに関わらず、私たちの心が神様の元に戻ることです。神様に希望を置き、嘆きや悲しみを抱えたままでも、神様を信頼することです。
28節には「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となる」とあります。これは、YCの皆さんに説明する必要はないかもしれませんが、「神様を信じれば全てがうまくいく」という意味ではありません。そうではなく、全てがうまくいっていないような状況でも、神様は私たちには分からない方法で、見えないところで働いておられ、私たちの短い人生の時間を超えて、良いことをしてくださる方だと信頼できるということです。見えない希望を信じる力こそ、本当の希望です。私たちは、イエス様の十字架と聖霊様の助けによって、その希望を持ち続けることができます。
そして、私たちがこの希望をいただいたのは、私たちの願いによってではなく、神様の計画によります。28-30節には、神様が「前もって知っておられた者たち」とか「あらかじめ定められた者たち」という言い方がされています。これは、ともすると、神様が誰を救うか決めていて、救うと決められていた者しか救われないという運命予定説にとらえられることがありますが、それは間違いです。イエス様は全ての人のために十字架で死なれたのであり、神様は全ての人を救いたいと願われている方です。では、ここで何が意味されているのかというと、神様の愛を知った人は皆、神様が最初から自分のことを知っておられたと分かった人たちだということです。私たちが神様を信頼できるのは、神様は世界の始まりから、また私たち一人ひとりを造られる前から、ずっと変わらず、私たちとこの世界を愛しておられる方だからです。
最後に、神様が預言者エレミヤに語った言葉を読みたいと思います。
「私はあなたを胎内に形づくる前から知っていた。母の胎より生まれ出る前にあなたを聖別していた。」(エレミヤ書1:5)
これは、私たち一人ひとりに向けられている言葉です。この神様の愛は、私たちが置かれている状況がどんなであろうと、決して変わりません。そして、私たちの嘆きや悲しみを、神様は必ず良いことのために用いて変えてくださる方です。私たちの思いや計画を超えて働く神様に、希望を持っていましょう。
(お祈り)神様、あなたは私たちを初めからご自分の子供として造られました。そして、これまでずっと、私たちが気付かなかった時も、そばにいて、愛してくださってきました。でも、この世界に生きていると、時にそのことが分からなくなります。どうか、弱い私たちを助けてください。消えない苦しみや悲しみがあっても、あなたは良い方であると信じる力を私たちに与えてください。状況が悪くて、出口が見えない時も、あなたは出口の向こうで待っているのではなく、今ここに私たちと共に苦しんでおられることを教えてください。あなたの中にだけ、私たちの希望があります。主イエス様、あなたが十字架で私たちのために死なれた愛を、もう一度心に受けとめます。このお祈りを、あなたのお名前によってお捧げします。アーメン。
メッセージのポイント
私たちは、神様の愛を知っていても絶望してしまう時があり、祈ることもできなくなる時があります。でも、神様は私たちが生まれる前から私たちのことを知っておられ、それぞれの歩みと心の中の思いを知っておられます。そして、私たちには分からなくても、私たちとこの世界を救う神様の計画は確かに進んでいます。聖霊様はそのことを私たちに教え、見えない希望を信じる力をくださいます。
話し合いのために
1)この箇所で言われている将来の希望(栄光)とは何ですか?
2)26-28節について、ご自分の経験を教えてください。
子供たちのために(保護者のために)
この箇所は数節ごとにテーマがあります。19-22節は「自然界の呻きと希望」、23-25節は「イエスを信じる者の呻きと希望」、26-27節は「聖霊の呻き」、28-30節は「神様の希望の計画」です。全部は大変なので、どれか一つを取り上げて読んで、テーマに沿って話しても、テーマとは関係なく聖書本文の疑問点や好きな言葉を話し合ってみてもいいと思います。また、26-28節は多くの人に親しまれてきた箇所だと思うので、そこについてご自分の経験を子どもたちと話してみてもいいかもしれません。大切なのは、神様は全てを益としてくださるということが、必ずしも私たちの願いが全て叶うという意味ではなく、むしろ一生解決されないままの問題や叶わないままの願いがあっても、それすらも神様は用いられるということです。