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苦難の中で主に叫ぶ
詩篇 107:1-32
永原アンディ
詩編107編を2回に分けてお話しします。今日は33節までです。
ここにはイスラエルの民が、様々な苦難から救い出され、そして再び集められたという、ちょうど今月からオンサイト礼拝を再開できた私たちに相応しい内容です。
最初の3節には、救い出され呼び集められた感謝と喜びが描かれています。そしてその後、四種類の異なった苦難が記録されています。
私たちもまた、それぞれが様々な苦難から解放されここに呼び出された民として、自分自身に語られるイエスのメッセージとして注意深く耳を傾けましょう。
A. 教会:主に集められた家族(1-3)
「主に感謝せよ。まことに、主は恵み深い。その慈しみはとこしえに。」
主に贖われた人々はそのように唱えよ。 主は、彼らを苦しめる者の手から贖い
国々の中から集めてくださった 東から西から、北から南から。
私たちは、全く異なる背景で生まれ育ち、それぞれ異なる時期にユアチャーチというコミュニティーに加わりました。
そのきっかけとしてそれぞれが、このままではいけない、苦しい、耐えられない、そのような状況にあって助けを求めた時に、イエスに呼びかけられ、そこから解放されてここにいるのです。
解放されるだけではいけないのか?なぜ集められるのか?それはまた新しい束縛になってしまうのではないか?そのような疑問を持つ方がいるかもしれません。
確かに人間関係には面倒な所がたくさんあります。しかし私たちは人間関係の中でしか生きることのできない存在です。
神様が私たちを「愛する者」として創られたからです。相手がいなければ私たちは愛し合うことはできません。ですから、神様は私たちを苦難から、人々の中に連れ返すのです。
しかもそれはただ世界という漠然とした大きなコミュニティーではなく、そのなかにあって目に見える一つのコミュニティー、教会、神の家族に迎え入れられるのです。
ここにも面倒はあるでしょう、しかし決定的に違うのは、この家族の長がイエスだという点です。
教会はイエスの体と表現されます。この体のそれぞれの部分は、神様がくださる栄養で、過去の苦難の中で負った傷を癒やされ、それぞれの部分の与えられた役割を果たします。
その役割はたった一つの言葉で表現できます。愛することです。
教会に留まらなくても、気まぐれに愛と言える行為をすることはできるかもしれませんが長続きは望めません。イエスの体を通して与えられる栄養を受けることができないからです。
愛されているという実感なしに、人を愛し続けることはできません。神様に受け入れられ愛されているからこそ、私たちは見返りを求めず愛することができます。
皆さんは人々を愛するためにここにいます。見返りが来なくても、愛は変わりません。イエスという源泉を持つオアシス=教会が私たちの生活のベースキャンプとして与えられているからです。
それでは、私たちが救い出されてきた四つの苦難を見ていきましょう。
残念ながら、これらの苦難は実際にはイエスに従う者となってからも繰り返しやっては来るのです。
しかしイエスを知った私たちにとっては、過去が自分一人で乗っていたボートだとすれば、今は、どんな荒天でも乗り切れる、イエスという船長の操舵する船に乗っているということなのです。
このあと四つの苦難について、順番に見ていきますが、それぞれに同じフレーズが登場します。
「苦難の中で主に叫ぶと 主は彼らを苦しみから助け出した/主に感謝せよ。その慈しみと 人の子らになされた奇しき業のゆえに」というものです。
今日一番受け取ってほしいことは、私たちが苦難の中で主に叫べば、主は私たちを苦しみから助け出される。そのことを感謝し感謝すれば、主との関係はもっと親密なものになり、助けを必要な人が主に出会うことの助けとなる、ということです。
B. 苦難の中で主に叫ぶ
1. 迷いの中で主に叫ぶ (4-9)
彼らは荒れ野をさまよい 不毛の地で人の住む町に至る道を見いだせず
飢え、また渇き命は衰え果てようとしていた。
苦難の中で主に叫ぶと 主は彼らを苦しみから助け出した。
主は彼らをまっすぐな道に進ませ 人の住む町に向かわせた。
主に感謝せよ。その慈しみと 人の子らになされた奇しき業のゆえに。
まことに主は渇いた魂を潤し飢えた魂を良いもので満たしてくださった。(4-9)
私事からで申し訳ありませんが、私がイエスを求めたのは人生に迷っていたからです。迷うとは、道がわからなくなることです。
富士山の麓に青木ヶ原という場所があります。樹海とよばれる大きな森で、迷うと方向がわからなくなり遭難してしまうと恐れられています。
人間の体には癖があって、自分はまっすぐに歩いていると思っていても、実は左右どちらかに偏って歩いてしまうそうです。
そうなると、まっすぐ歩けば外に出られるだろうと思って進むのだけれども、実は大きな円を描いて同じあたりをぐるぐると回っているだけで、いつまで経っても脱出することができません。
どう生きたらいいのか、どこを目指したらいいのか、自分が何者なのかもわからない。自分の存在にどんな意味があるのかもわからない。自分にどんな価値があるのかもわからない。さらに進めば自分が生きているのは無駄、人の邪魔とさえ思えてしまいます。
信頼していた人から裏切られたり、信じていた価値観が崩れる時、進む道が閉ざされた時、私たちはそんな迷いの中に放り出されます。
しかし幸いなことに私たちには、助けを叫び求められる方、イエス・キリストがいます。イエスは自分のことを「道であり、真理であり、命です」と言った方です。
イエスを信じて従うことは、真理の道、命の道、神様と自分をつなげる道を歩むということなのです。
2. 束縛の中で主に叫ぶ (10-16)
闇と死の陰に住む者たち 苦悩と鉄の枷に締めつけられる捕らわれ人は
神の仰せに逆らい いと高き方の計らいを侮った。
主は労苦を通してその心を挫いた。 彼らはつまずいたが、助ける者はいなかった。
苦難の中で主に叫ぶと 主は彼らを苦しみから救い出した。
闇と死の陰から導き出し 彼らの枷を壊してくださった。
主に感謝せよ。その慈しみと 人の子らになされた奇しき業のゆえに。
まことに、主は青銅の扉を破り 鉄のかんぬきを砕いてくださった。(10-16)
物理的に無実の罪で牢の中にいる人は多くはありません。しかし、束縛は様々な形で私たちを苦しめます。
イスラエルの民にとっての束縛は前回お話しした、エジプトでの奴隷状態であり、多くの人々がバビロンに連れ去られたことでした。
皆さんは逃げたくても逃げ出せない状態に置かれているでしょうか?
例えば、イエスを信じる信仰を認めない国に住む信仰者は、心の中で主に向かって叫ぶしかありません。
様々な束縛に縛られる私たちは、それでもこの大きな家族の中へと「解放」されています。その苦しみのためにともに叫んでくれる家族がここにいます。
束縛は多様です。昔からの男尊女卑、コミュニティーの因習、多数派による支配が人を束縛します。
もしかすると誰も自分を束縛していないのに自分の思い込みが自分を不自由にしているかもしれません。
自分が無意識のうちに人を束縛していて苦しめているのに無自覚な人もいます。
自分が解き放たれるために、苦しむ人が解き放されるために、叫ぶことから始めましょう。叫びが届き、なすべきことを教えられ、そのための力が与えられます。
3. 病の中で主に叫ぶ (17-22)
彼らは背きの歩みのゆえに愚か者となり
過ちのゆえに苦しむことになった。
彼らの喉はどの食べ物も忌み嫌い 彼らは死の門に近づいた。
苦難の中で主に叫ぶと 主は彼らを苦しみから救い出した。
主は言葉を送って人々を癒やし 破滅から解き放ってくださった。
主に感謝せよ。その慈しみと 人の子らになされた奇しき業のゆえに。
感謝のいけにえを献げ 喜び歌いつつ、御業を語り伝えよ。(17-22)
この大きな私たちの家族の中にも、病を得て苦しみの内にいる者が多いことを覚えましょう。
病を癒やされたことをきっかけにイエスを信じる者もいれば、病を得て癒やされないままにこの世の生を終える者もあります。
癒しなんてありませんという信仰も、祈れば何でも癒やされますというのも、どちらもイエスの教えた信仰ではありません。
イエスはその時その時の痛み、苦しみを取り去ったり、耐えられるものとしてくださったりします。
ですから私たちは、痛みの中で叫びます。自身の痛みでも、人々の痛みでも、癒して下さいと叫びます。そして主は応えて下さいます。
しかし最も大切なことは、この肉体を持って生きることが終わる時、全ての人が、全ての病から完全に解放されて、魂はなお主とともにあることなのです。
そこに究極的な希望があります。
4. 嵐の中で主に叫ぶ (23-32)
船で海に出た人々は 大海を渡って商いをした。
この人々が深い底で 主の業、その奇しき業を見た。
主が言葉を発して暴風を起こすと 波が高くなった。
彼らは天に上り、深淵に下り 魂は苦難におののき
酔いどれのようによろめき、ふらつき その知恵もことごとく錯乱した。
苦難の中で主に叫ぶと 主は彼らを苦しみから導き出した。
嵐を沈黙させたので、波は収まった。
彼らは波が静まったので喜び 主は彼らを目指す港に導いた。
主に感謝せよ。その慈しみと 人の子らになされた奇しき業のゆえに。
民の集会で主を崇めよ。 長老の集いで主を賛美せよ。(23-32)
私たちの人生にも、このような表現がぴったりな嵐の時があります。
私たちの中には命さえ危ぶまれるような状態の中で、イエスを知り救い出されてイエスとともに歩み始めた人もいます。その人にとっては本当に感謝してもしきれないことでしょう。
そしてそれは、あまり考えたくはないと思いますが、自分自身や、家族や、友人の中にも起こりうることなのです。
そこで私たちが頼るのはこの詩人の証言です。 「苦難の中で主に叫ぶと 主は彼らを苦しみから導き出した」この主はどういう方か?ルカによる福音書8:22−25を読んで終わろうと思います。
ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、弟子たちは水をかぶり、危なくなった。それで、近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、このままでは死んでしまいます」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も水も従うではないか」と互いに言った。
(祈り)苦難から私たちを救い出してくださる神様。あなたを心から褒め称えます。苦難から救い出された者も、苦難の中に置かれている者も、あなたを信頼してほめたたえます。どうぞ今の苦難から私たちを救い出して下さい。かつてあなたが、苦難の中にいた私たちに、語りかけてくださり、私たちを救い出してくださったように、どうか救い出して下さい。苦しんでいる者を思い起こさせ、そのために自分ができることを教え、必要な力を与えて下さい。感謝した、期待して、主イエス・キリストの名前によって祈ります
メッセージのポイント
「苦難の中で主に叫ぶと 主は彼らを苦しみから助け出した/主に感謝せよ。その慈しみと 人の子らになされた奇しき業のゆえに」という言葉は私たちにも向けられています。あなたが苦難の中で主に叫べば、主はあなたを苦しみから助け出されます。そのことを感謝し賛美し礼拝すれば、主との関係はもっと親密なものになります。そして、助けを必要な人が主に出会うことの助けにもなるのです。
話し合いのために
1)イエスと出会うきっかけとなった苦難はどのようなものでしたか?
2)あなたの一番最近の「叫び」は?
子供たちのために(保護者のために)
この箇所は数節ごとにテーマがあります。19-22節は「自然界の呻きと希望」、23-25節は「イエスを信じる者の呻きと希望」、26-27節は「聖霊の呻き」、28-30節は「神様の希望の計子供たちと23-32とルカ8:2−25を一緒に読んで、イエスがしたこと言ったことを話し合ってみて下さい。人の人生が船の航海のように嵐に会うこともあるけれどイエスが共にいてくださるなら大丈夫であるということを伝えて下さい。