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これらのことを心に留めよう
詩篇 107:33-43
永原アンディ
A. 枯れる理由と潤う理由(33-38)
主は河を荒れ野とし 水の湧く所を干からびた地とし
実り豊かな地を塩の地とした。 そこに住む者らの悪事のために。
主は荒れ野を池とし 乾いた地を水の湧く所とし
飢えた者をそこに住まわせたので 彼らは人の住む町を築いた。
畑には種を蒔き、ぶどう畑を作り 豊かな実りを得た。
主が祝福したので、彼らは大いに増えた。 主は家畜も減らさなかった。
当時のイスラエルやその周辺の民にとって、水の豊かな日本に住む私たちには全く想像がつかないほど、水は貴重なものでした。
水が豊かに湧くところは少なく、多くの部分は荒野でした。水があれば作物ができるので人が住む町ができますが。水の出ないところでは人が住むことはできません。
今まで豊かに水が湧いていたところの水が枯れてしまえば、生死を分ける大問題になります。
イスラエルといえば、普通の海の10倍の塩分濃度がある死海が有名ですが、元々塩分を多く含んだ土壌から流れ込んだ塩分でそうなったのです。湧き水が出なくなれば、そこはもう植物が育たない塩の地となってしまうのです。
その反対に、乾いた地に水が湧き出れば、そこに飢えた者が導き入れられ、町ができその周辺は開墾され穀物や葡萄が豊かに実るということも起こるでしょう。
しかし、現代の私たちが詩人から学べることは、実際の旱魃をめぐる出来事ではなく、私たちの神様に対する心の態度です。
そして詩人は「悪」が荒廃を呼ぶと考えています。
その一方で詩人は神様が、貧しい者たちを招き入れ、祝福し、豊かな生活を与えることを対比的に謳っています。
今の時代、私たちはまさに人間の限りない貪欲によって実際に自然環境が破壊されていることを見ているので、詩人の理解に共感できます。
しかし、後半の貧しい者への祝福は、今どうなっているのでしょうか?そのことを次の部分を読んで考えてゆきましょう。
B. 持つ者は低くされ、貧しい者は引き上げられる(39-41)
しかし、虐げと災いと苦悩により 彼らは数を減らし、衰えた。
貴族らに蔑みを浴びせ 道もない不毛の地に迷い込ませた方は
貧しい人を苦しみから高く上げ 氏族を羊の群れのようにした。
この部分はヨブ記の22章が引用されています。繋がりがわかりにくい部分ですが、40節と39節の順番を変えて読むわかりやすくなります。
つまり、貧しい人々を顧みない富んだ者、位の高い者が神様に責められて、その立場を失い衰える一方で、貧しい者たちが引き上げられる。神様の正義が行われることが謳われています。
詩人はバビロン捕囚で、連れ去られたが貴族階級で、残されたのが貧しい者たちであったことを思い起こしているのですが、その時に貧しい者たちが富んだわけではありませんでした。
そして、今の社会でも飢えや貧困、格差はさらに広がりつつあるように見えます。
神様の思いは私たちの社会にまだ十分反映されてはいないようです。飢える者、貧しい者への神様の働きは、今進行中なのです。
イエス・キリストが世に来られたのはこのことを解決するためでもありました。しかしそれはご自分でなさるのではなく、彼を信じる者の生き方として少しずつ実現してゆくものなのです。
前回私たちは、私たちが様々な苦難を通してイエスに出会い解放されたことをこの詩篇の前半から学びました。そして解放されただけでなく、この教会というイエスの体の一部とされたとお話ししました。
それは、私たちがイエスの働きを今になっているということです。イエスは次のような言葉で人を招かれます。
「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイ11:28−30)
イエスを信じたはずなのに魂に平安がないとしたら、その理由はここに書いてあります。あなたは重荷を下ろしただけでなく、イエスの軛を負っていらっしゃるでしょうか?
もしそうでなければ、私の負うべきイエスの軛は何か、自分のためにも、人々のためにも、祈って考えて引き受けてください。
C. 知恵ある人は皆、これらのことを心に留め主の慈しみを悟る(42,43)
正しい人はこれを見て喜び すべての不正はその口を閉ざす。
知恵ある人は皆、これらのことを心に留め主の慈しみを悟るがよい。
聖書の言う正しい人とは、神様の意思に従う者です。
神様の意思に反することを嫌い、神様の愛する者を愛し、助ける人です。
だからその人々は、神様が横暴な人間を退け、貧しい者、弱い者、小さい者を引き上げることを見て喜ぶのです。
イエスは山の上で人々に印象深い言葉でこう教えられました
「心の貧しい人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである その人たちは慰められる。へりくだった人々は、幸いである その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである その人たちは神を見る。平和を造る人々は、幸いである その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害された人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである。私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:3−12
わたしたちも正しい者として、知恵をいただいた者として、そして幸いな者として、今日の詩編の言葉を悟り、それぞれが遣わされているところで、安らかに主と共に、なすべき働きを続けてゆきましょう。
(祈り)神様、あなたの恵みにより私たちを様々な苦難から解放し、生きる目的を与えられ、あなたと共に人生を歩むことのできる幸いをありがとうございます。
どうぞ私たちが、あなたの目を、あなたの心をもち、あなたが備えられた人々に仕えることができるように、私たち自身を整えてください。
あなたの愛を、あなたの憐れみを私たちの心いっぱいに満たして、私たちを用いてください。
メッセージのポイント
神様はどのような者と共にいてくださるのでしょうか?貧しい者、飢え渇いている者、小さい者、虐げられている者です。それは経済・社会的な事だけを指すのではありません。むしろ生きる態度のことを指しています。そして、そこにはそのような人々を蔑ろにしない人々も含まれます。正義を軽んじる者、人の苦しみを顧みない者ではなく、イエスとともに、イエスのように、貧しいものとして、小さい者として、互いに愛し合い歩んでゆきましょう。
話し合いのために
1)正しい人とはどのような人ですか?
2)主の慈しみを悟るとはどういうことでしょうか?
子供たちのために(保護者のために)
この箇所は数節ごとにテーマがあります。19-22節は「自然界の呻きと希望」、23-25節は「イエスを信じる者の呻きと希望」、26-27節は「聖霊の呻き」、28-30節は「神様の希望の計神様はどのような人たちを憐れみ力を貸してくださるのか話しあってみてください。子供が小さい者の一つであること、しかしその小さい者を用いて人を助けたり、慰めたりすることを教えてください。