主に喜ばれる教会を目指して

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主に喜ばれる教会を目指して

ペトロの手紙一 2:3-5, サムエル記上15:22, 箴言21:3, ヘブ ル人への手紙12:28

永原アンディ


 コロナの危機はもうすぐ3年目を迎えようとしています。ご存知のように私たちの献げる礼拝も、何度も中止したり、時間を短縮したり、回数を減らしたりしてきました。このような状況の中で教会を維持していくことが困難になってしまった教会も少なくありません。私たちは幸いにも守られて、感染する者もなくここまで歩んでくることができたことを神様に感謝しましょう。この先もまだ油断はできませんが、ワクチンも行き渡り、薬も開発されつつあるので、去年よりは積極的に委ねられている働き、イエスを紹介することを進めていけるのではないかと期待しています。
 イエスを紹介すると言っても、私たちは目に見える商品の販売員ではありません。目に見えないイエスがどのような方か口で説明しても説得力はありません。みなさん、どうやってイエスを紹介するのですか?それは、私たち自身を見て納得してもらうしかないのです。なぜなら、教会つまり私たちがイエスを頭とするキリストの体そのものだからです。ですから私たちがすべきことは、宣伝上手になることではありません。キリストの体らしく生きることなのです。それは、神様に喜ばれる教会になるということです。このことについてこの今年最初の礼拝で考えてみましょう。テキストは短く紹介しますが、ぜひ今週それぞれの箇所を含む章全体を読んでみてください。

1. 神様は何を喜ばれるのか?

神様は私たちの歩みを喜ばれるとしたら、それはどのような歩みなのか、聖書の言葉から探ってゆきましょう。最初に取り上げるテキストはサムエル記上15:22です。

サムエルは言った。「主が喜ばれるのは焼き尽くすいけにえや会食のいけにえだろうか。それは主の声に聞き従うことと同じだろうか。見よ、心して聞くことは雄羊の脂肪にまさる

サウル王が、いけにえをささげることにこだわり、神様の命令に聞き従わなかったことで、神様からの信頼を失い王位から退けられるきっかけとなった出来事についてサムエルがサウロに告げた言葉です。主の声に聞き従うことがいけにえに勝るとはどういうことでしょうか?それは私たちが神のためにしていると思って何かをしても、それが神の意志とはそぐわないことがあるということです。残念ながら私たちは、神のためと言いながら、実は自分の考えを優先してしまう傾向を持っています。この傾向は、長く従う者として歩んでいれば無くなっていくものではなく、むしろキリスト者としての歩みが長ければ長いほど、自分の経験に頼ってしまいがちで、神様がなさろうとする新しいことについてゆけなくなってしまうということがおこりがちなのです。ユアチャーチは来年30周年を迎えます。始めた時、それまでの教会とはずいぶん違うものだったので、周囲から疑問の声をずいぶんいただきました。たとえば、礼拝の形が超単純とか、礼拝の中で献金を集めないとか、予算を立てないとか、祈祷会も聖書研究会もやらないとか、周りの牧師達は長く続かないと思っていたはずです。でも、私はそのような教会が必要だと神様に求められていると信じたので、このようにやってきました。しかし、新しいことも30年近くやって来れば、また一つの伝統になってしまいます。私たちがさらに前進するためには、今まで以上に神様に聞く態度が必要です。
なぜ伝統は神様から聞くことを邪魔してしまうのでしょうか?それは、伝統が自分達に心地よいものだからです。箴言21:3はこう言っています。

正義と公正を行うことを主はいけにえよりも喜ぶ。

自分達のルーティンに満足してしまっている私たちに神様が語りかけるのは「正義と公正を行うこと」だと言っています。自分達に心地よい伝統は「正義と公正」ではなく、「自分の正しさ」をおこなうことであり、それは公正をもたらさないのです。ユアチャーチがもっと様々な人々に、特に弱い立場に置かれた人、差別されている少数者、地域の人々に開かれた教会になるために、ここ数年様々な試みをしてきました。この2年間はコロナ禍にあって前進が困難でしたが、今年はもっと前に、主に喜ばれる教会として進んでゆきたいと思うのです

2. 教会とは何か?

ところで、皆さんは教会とは何ですか?と聞かれたらどう答えますか?正解は一つではありません。細かく言えば教会の数だけ教会観があると言ってもいいでしょう。ユアチャーチのリーダー達が考える答えを紹介します。ペトロの手紙一 2:3-5を読みます。

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わったはずです。主のもとに来なさい。主は、人々からは捨てられましたが、神によって選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるようにしなさい。聖なる祭司となって、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げるためです。

このペトロの説明に従えば、教会とは、主イエスを土台として、彼の恵みを味わった「生きる石」である私たちが、組み合わされ造り上げられる霊的な家です。それはまた一人一人が祭司として神の喜ばれる霊のいけにえ、つまりイエスと人の間に立つ者として、イエスの愛、正義、公正の意思を紹介し行う者の集まりだということです。生ける石の色や形や大きさは様々です。同じ形のブロックを積むほど簡単なことではありません。しかし、同じではないからこそ組み合わされれば強固なのです。しかし、自分とは違う人の在り方を尊重し、喜び、認めることなしには、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえをささげる教会にはなれません。でも、そのようになることを神様は求めておられるし、その意志を喜んでくださると思うのです。

3. 私たちはどこに向かうのか?

ユアチャーチのウェッブサイトの池田牧師の紹介欄に最近書き加えられていることをご存知でしょうか?「現在は生活保護法に基づくシェルターで非常勤職員としても働いており、DVや虐待の被害者、生活困窮者の相談業務を行っています。(DV被害者支援に関連して、NPO法人レジリエンス「こころのケア講座」ファシリテーター養成講座修了。NPO法人女性ネットSaya-Saya「びーらぶプログラム」インストラクター養成講座修了。)教会の活動と社会福祉の活動をつなげて、教会とは関わりないところで生きている苦しんでいる人にイエス様の愛を伝えていくことが池田牧師の夢です」と書かれています。牧師に与えられたオリジナルヴィジョンは教会のヴィジョンです。皆さんは25年以上、私が最初に神様に頂いたヴィジョンを実現するために共に歩んでくださいました。それは皆さんを通して与えられる洞察によって軌道修正されながら、今のユアチャーチとして実現しています。しかし私たちはこれに満足して止まっているわけには行きません。それではサムエルに叱責されたサウロのような教会になってしまいます。リーダーである池田牧師に与えられたヴィジョンを目に見える形にしてゆくのが私たちのこれからのミッションです。

ヘブル人への手紙12:28にはこうあります。

このように、私たちは揺るがされない御国を受けているのですから、感謝しましょう。感謝しつつ、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていきましょう。

救いとは天国行きのキップではないと何度もお話ししてきました。救いとは天国へ向かうプロセスを神様に喜ばれながら歩んでゆくことができるという特権です。このヴィジョンを共有して歩んでゆこうと思う方は今年もカヴェナントメンバーになってください。コロナの影響を考えて、今年は紙で提出する方法だけでなく、FBのフェローシップルームに載せたカヴェナントを見てメールで提出していただいてもいいのでどちらかの方法で登録してください。

(祈り)主よ、私たちを招き、あなたの家族としてくださった恵みをありがとうございます。私たちは、あなたの愛と正義と公正を愛する者ですから、私たち自身があなたの霊に満たされて、あなたの愛と正義と公正を表す者とさせて下さい。私たちが、あなたを必要とする人々が信頼し安心していられるあなたの家族としてください。数の多い者、似た境遇の者以上に、異なる境遇の者、少数者に配慮が行き届く家族としてください。あなたが私たちに語りかけてくださり、あなたがユアチャーチを通してなさろうとされることを共に担うことができるように私たちを導いてください。私たちの主イエス・キリストの名前によって祈ります。


メッセージのポイント

コロナによる2年間の異常事態によって、教会の本質が大きな家族のようなコミュニティーであることがもっとはっきりとしてきました。ユアチャーチはそれ以前から「つながり」を大切にしてきたので、この時を乗り越えてくることができました。2022年も神様に喜ばれるような歩みを進めてゆきましょう。


話し合いのために

1) 自分はどのような賜物で神様の働きに参加できると思いますか?

2) 教会とは何ですかと問われたらどう答えますか?


子供たちのために(保護者の皆さんのために)

ユアチャーチが自分達家族を含む大きな家族のような存在であること。この家族の主がイエスであること。子供達一人一人もその中の大切なメンバーであることを伝えてください。