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正義のないところに愛はない
詩編111
永原アンディ
今回と次回取り上げる詩には、原文ではそれぞれの行頭の単語の最初の文字がヘブル語のアルファベットの順番に並べられているという特徴があります。 ヘブル語の文字は22あるので、一行目の「ハレルヤ」を除いて22行からなっています。 その形式は英語や日本語には反映されませんが、内容は神様の私たちへの思いを知る上で大切な内容が記されています。
A. 神様の求める正しさとは (1-4)
1. この教会は正しい人の集まり?(1, 2)
1. ハレルヤ。
私は心を尽くして主に感謝を献げる
正しい人々の集い、会衆の中で。
2. 主の業は偉大
それを喜びとするすべての人が求めるもの。
礼拝が、過去に神様が与えてくださった恵みと、今、共にいてくださることへの感謝と賛美、そして将来も同様の恵みを与えてくださるという信頼と期待を表現することであることは、詩人の時代も今も変わりありません。
ここで心に留めたいのは、それが「正しい人の集い」と表現されていることです。
神様が正しいことはよくわかります。しかし私たちは自身の正しさに自信がありません。 それは当然のことで、そこに自信を持つなら、間違いを犯し続けることになります。 神様は、私たちを正しくないままで、しかし正しい者としてこの礼拝の場に招いてくださっています。
イエスの出来事によって、私たちは正しくないままで正しい者とされたのです。正しい者とは、自分は正しい判断をできないことがある者と自覚しながら、できるだけ神様の意思を聞き、行いたいと思う者のことです。
2. 私たちにとっての出エジプト (3, 4)
3. その働きは威厳と輝き
その正義はいつまでも続く。
4. 主は奇しき業を記念するよう定めた。
主は恵みに満ち、憐れみ深い。
3節の「正義」は、「恵み」とも訳すことのできる語で、以前使っていた共同訳聖書では「恵みの御業」とされていました。 イスラエル民族にとっての「恵みの御業」は何と言っても出エジプトの出来事でした。4節の「奇しき業」もそのことを指しています。 虐げられていたエジプトでの奴隷生活から解放されることは、イスラエルの民にとって恵みであり正義でした。
ただし、ここで1,2節のところでお話ししたことを思い出さなければなりません。イスラエルもまた特別に正しい人々であったわけではありません。正しいとされた人々でした。 それは出エジプト後の歴史の中の多くの神様に対する背信でよくわかります。そして私たちにも同じ危険があります。
さて、イエスとの出会い、イエスと共に歩み始めた事こそが私たちの出エジプトです。自分ではどうすることもできない状態から解放され、自分のエゴにも、他人のエゴにも悩まされずに、愛してくださる神に聞きながら人生を歩むことができるという恵みです。この恵みを失わず歩み続けることのできる秘訣を詩の後半から学ぶことができます。読んでいきましょう。
B. 全ては主を畏れることから始まる (5-10)
1. 主を畏れるということ (5-8)
5. ご自分を畏れる人々に糧を与え
とこしえに契約を心に留める。
6. 御業の力をその民に知らせ
国々の受け継いだ地を彼らに与えた。
7. 御手の業はまことと公正
その諭しはすべて真実。
8. これらは代々とこしえに支えられ
まことと正しさをもって行われる。
ここに「主を畏れる者」とあります。それが、正しい者と認められた人が本当に正しく生きるためのあり方です。私たちが自分勝手に生き、さらに状況を悪くしてしまわないために私たちができること、それが「主を畏れる」ことです。
主を畏れるということについては何度かお話ししてきました。単に怖がるということとの違いを漢字はよく表しています。私たちは、神様が私たちの行動に怒って罰する方ではないことを知っています。
ここに書かれている契約とは、出エジプト記34章6,7節に記されている、モーセがシナイ山で与えられた契約のことです。
主は彼の前を通り過ぎて、宣言された。「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神。怒るに遅く、慈しみとまことに富み 幾千代にわたって慈しみを守り過ちと背きと罪とを赦す方。しかし、罰せずにおくことは決してなく父の罪を子や孫にさらに、三代、四代までも問う方。」
これを読むと、背きと罪を赦す神様なのか?その人を罰するだけではなくその子も孫もひ孫も玄孫も罰する神様なのかどっちなんだ?と思ってしまう表現なので説明しておく必要があるでしょう。神様は、背いても赦しを願い生き方の向きを変える人を罰さないということです。もし背き続けるなら、結果として不幸な道を歩み続けることになりますよ、という警告です。二代目、三代目も親の罪によって不幸から脱せないわけではなく、自らの意志で親とは違う主を畏れる道を選べば祝福を受けられるのです。
2. 主への畏れが人への愛として現れる (9-10)
9. 主はその民を贖い
契約をとこしえに定めた。
その名は聖であり、畏るべきもの。
10. 主を畏れることは知恵の初め
これを行う人は皆、優れた思慮を得る。
主の賛美はいつまでも続く。
イエスは神の国を実現するためにこられました。神の国とは人が死んだのちにその魂が招き入れられるところだけを指すのではありません。 神様の意思が現れているところです。イエスが「愛し合いなさい」と言われたのは、今私たちが、生きている世界にあっても、その実現を目指すことを求められるからです。
神が創られ愛される全ての被造物が平和に共存できるなんて、今の世界の状況を見ればとても信じられませんが、それで私たちが諦めてしまえば、今苦しんでいる人々はそのまま苦しみ続けることになります。苦しむ者が正しく扱われなけれならない。それが正義です。しかしそれが、誰かの勝手な正義であれば、また別の誰かが苦しむことになります。 ここに主の正義が表されるために、私たちは主を畏れ、主に聞いて、人々を愛するのです。 私たちが諦めてしまわない限り、私たちは神様の恵みをたくさん受け取って、いつまでも主を賛美せずにはいられない生涯を送ることができるでしょう。
(祈り) 神様、あなたの正しさを知りながら、その通りには歩めず、自分の正義を振りかざしてしまいがちなわたしたちを赦し、忍耐強くさとし、私たちが平安のうちに歩むことができるように導いていてくださることを感謝します。 私たちが、あなたが憤り悲しまれる不義を、あなたの力と知恵をいただいて、解決してゆくことができるように導いて下さい。 永遠にあなたに感謝し、あなたを賛美し、礼拝する者として下さい。感謝して、期待して、主イエス・キリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
正義の基準はどこにあるのでしょう?多くの人にとって、それは自分です。このことがさまざまなレベルで争いを産んできました。この詩が提案しているのは神様の正義です。神様の正義を知ろうとすること、知って行おうとすることが主を畏れることであり、愛することです。
話し合いのために
1. 正義とは何ですか?
2. 主を畏れるとはどういうことですか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
子供たちが正義という言葉をどのように理解しているかを聞いてみましょう。子供たちがテレビや漫画で触れる「正義の味方」から初めてください。正しさの基準が結局、自分にあることに気づいたら、それは罪に気付いたことになります。そこで、神様の正しさを知り、それを行うためにどうしたら良いか考えさせて下さい。