私のエジプトから私のイスラエルへ 

The Crossing of the Red Sea (Exodus 14:26-30) William de Brailes, Public domain, via Wikimedia Commons

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私のエジプトから私のイスラエルへ

詩編 114

永原アンディ


1 イスラエルがエジプトからヤコブの家が言葉の違う民の中から出たとき2 ユダは主の聖所となりイスラエルは主の治めるところとなった。3 海は見て、逃げ去りヨルダン川は後ずさりした。4 山々は雄羊のように丘は小羊のように跳ね踊った。5 どうしたのか、海よ、逃げ去るとは。ヨルダン川よ、後ずさりするとは。6 山々よ、雄羊のように丘よ、小羊のように跳ね踊るとは。7 地よ、主である方の前で身もだえせよ。ヤコブの神の前で。8 それは岩を池に硬い岩を泉に変える方。 

イスラエル民族にとって神様がどのような方であるか?その認識に最も強い影響を与えているのが旧約聖書、出エジプト記に記されている、出エジプトの出来事です。

しかしそれは単に奴隷とされていた地での苦しみから解放されて理想的な環境に移されたというような単純な出来事ではありませんでした。

実際には数日の距離しか離れていなかった約束の地に到達するまでに40年もかかりました。

しかも興味深いことに、神様はイスラエルに約束の地に入る時に、エジプトを出る時とよく似た経験を与えました。それはヨシュア記3章に書かれているついにヨルダン川を渡って約束の地に入るときの出来事です。

4月後半の春の刈り入れの時期、ヨルダン川はヘルモン山の雪解け水が流れ込む水量が最も多い季節で、人が歩いて渡れるようなものではありません。 

エジプトを出る時、目の前の水を分け、40年のあいだ神様に従って民を導き続けたモーセはもういません。神様はどのような方法で民を導いたのか?後半で少し触れますが、是非ヨシュア記も読んでみてください。

さて、民は約束の地に入ってからも、先住の民との戦いに明け暮れ、さらに定着してからも、とても理想的な生活が送れたとは言えず、むしろ国家としては一度完全に滅ぼされてしまった民族です。

それでも、神様がエジプトから解放してくださった、約束の地にも入れていただけたということが民族としての心の支えであり続けたのはなぜだったのだろうか?このことを考えることによって、私たちの歩みが何に支えられているのかということがよく理解できます。

A. 私のエジプト/イスラエル
1. 私のエジプト

 みなさんは意識していないかもしれませんが、実は皆さんもそれぞれが出エジプトを経験しているのです。ある人にとっては、実際に奴隷のような状態から救い出された人もいます。例えばヤクザの組織から神様に導き出されて牧師となった方もおられます。

しかし、多くの人にとってのエジプトは精神的なものであったのでしょう。ただ、共通して言えることは、このままではいけないと思いながらも、そこから抜け出せないところであったということです。

今詩篇と同時に読み進めているローマの信徒への手紙7章でパウロはそれを「罪の奴隷」と呼びました。

15 私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。
16 もし、望まないことをしているとすれば、律法を善いものとして認めているわけです。
17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
18 私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです

 私たちはそこから逃げ出すためにモーセではなくイエスに従って旅立ったのです。 さて皆さんは、エジプト脱出後、どのような状況にいるのでしょうか?出エジプト記を読むと、自分のイエスに従う人生の歩みが、イスラエルの民の出エジプト後の歩みにとても重なることが多いことに気付きます。

イスラエルの民は旅の中で困難に直面するたびに、モーセに文句を言い、エジプトで奴隷でいたほうがよっぽどマシだったと嘆いたのです。実際に、約束の地に向かう旅は困難を極めました。それなのに、イスラエルの民は出エジプトを神様の恵みによる解放と見ることをやめなかったのはなぜでしょう。それは、神様が共にいてくれるということを、どんなに過酷な中にあっても忘れなかったからでしょう。そして、神様は実際に彼らを約束の地に導き入れて下さったのです。

2. 私のイスラエル

民は40年をかけて約束の地に入ることができました。しかしそこは苦しみも悲しみもないパラダイスではありませんでした。そこからも困難は続きました。 おそらく客観的にはエジプト時代とそう変わらない苦しみだったでしょう。しかし自分達はあのエジプトから私たち解放された神の民だと言う自覚はそれでも失われませんでした。

確かに私たちにとっても、イエスと共に歩んでいる今の方が、生活が苦しい、健康でない、人間関係がうまくいっていないということがあるのです。イエスが約束したのは、ハッピーライフではなくリアルライフです。それは自分が本来あるべき生き方、神なしに自分を神として生きる生き方ではなく、主である神、イエスと共に生きる生き方なのです。それは本当の意味で「地に足のついた生活」です。多くの人は生活の安定のために頼りにはならものに頼り失望を経験します。人間関係やお金や教育や健康管理です。

それは不要なものではありません。しかしそれは本当の基礎ではありません。大きな困難にあってそれらは無力で役に立たないのです。イエスはこのリアルライフを生きている人々のいるところを「神の国」と説明されました。直訳的に言えば「神様の支配の及ぶ範囲の人々」と言えます。


B. イスラエル:おかれるべきところ
1. 導き続ける神様の権威

お話してきたように私たちはエジプトを出て教会というイスラエルの一員となりました。しかし教会が建物や場所ではなく、生きて働くコミュニティーなのですから、最終目的地に到着しているというわけではありません。「神の国」はイエスの到来と共に始まり、すでにわたしたちのうちに表されているのですが完成しているわけではありません。完成を目指して道の途上にあるのです。

世界の状況を見てください。私たちのうちにある「神の国」は、この悲惨の中に突入し、平和の戦いを挑んでいるのです。時として、険しい山道、未舗装の曲がりくねった道で私たちの心は打ちのめされますが、希望は「それでもこの道がイエスと共に歩んでいる道である」 ということです。

聖霊はわたしたちを導いていてくださいます。神様は、あの海や川を分けて道を与えて下さったように、私たちは守られて前進することができます。

2. 道の途上を歩む私たちの信仰

水量が多く、絶対に人が渡れないはずのヨルダン川を彼らはどのようにして渡ったのでしょうか? モーセの後継者ヨシュアは、まず祭司たちに命じて、神様が共にいてくださることの象徴である「契約の箱」を担いで水に入るように命じました。しかし契約の箱が水を押しとどめたのではありませんでした。彼らが水に入ってゆくと水が枯れたのですが、その理由は彼らの立った地点から、30Kmも上流の町のところで堰き止められたというのです。

さらに神様はヨシュアを通して不思議な命令をなさいました。渡る時、契約の箱の2000アンマ(約9km)以内を通ってはいけないというのです。そして、その理由も教えられました。「あなた方の進むべき道を知るためだ。あなた方はその道を、今までに一度も通ったことがないからだ」

これらのエピソードは、神様が私たちをどのように導いていてくださるのかを知るのに良いヒントを与えていてくれます。神様の導きは確かにあっても、水が堰き止められた奇跡が、その時には誰にもわからないような上流で起きたように、私たちにとって、神様の導きが一つ一つのことが手に取るように私たちがわかるように起こるわけではありません。神様は手を取り足をとるようにして導かれるのではないのです。民がここに至るまでは「主は彼らの先を歩まれ、昼も夜も歩めるよう、昼は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らを照らされた。」のです(出エジプト記 13:21)が、ここでは、民に自身で道を見出し歩み出すことを命じたのです。

神様は、イエスという道を知らなかった私たちにその道を教えてくださいました。しかし今、イエスと共に歩む私たちに対してはご自身を見せて「ついてきなさい」と言われるのではありません。「私は共にいるから、私の思いを受け取って、向かうべきそれぞれの道を見出しながら行きなさい」という勧めて下さっているのです。このことはそれぞれの個人生活だけでなく、私たちのユアチャーチとしての歩みにも言えることでしょう。この2年数ヶ月の、コロナ下の歩みの中で物事は思ったようなペースで進みませんでした。しかしこの時を通して神様はいろいろな備えをしてくださいました。

エンドウマメも長く休止していましたが、今週から新しいコンセプトで、しかも毎週の働きとしてスタートします。礼拝も2回になり、今まで来たことのない人も多く来始めていただけると思います。また礼拝の同時配信やオンラインのミニチャーチという新しいコミュニュケーションも手に入れることができました。様々な理由で日曜の朝に町田まで来られない人でもユアチャーチの家族でいられるようになったのです。

新型コロナウイルスもまだまだ油断できませんが、私たちもまた神様の見えない奇蹟によって、経験したことのない道を守られて歩み、今、新しい章に入ろうとしています。

(祈り) 神様、私たちを導いていてくださっていることをありがとうございます。この2年以上、私たちは経験したことのない困難の中で、あなたに支えられてここまで歩んでくることができました。

さらにこれからあなたが用意していてくださる新しい歩みを期待しています。どうぞ私たちがあなたの思いをしっかりと受け取り前進してゆくことができるように助けてください。

コロナだけでなく、隣国の侵略により二重に苦しんでいる人々のために祈ります。どうか1日も早く紛争が終わりますように当事者たちの心にあなたが働きかけてください。飢え渇く者のために、苦しむ人々のために、悲しむ者のために、それぞれができることを教え、行わせてください。

またこの教会の家族の中で悩みや悲しみのうちにある者をあなたが慰めてください。そして私たちがあなたの手となり足となって互いに支え合うことができますように。

主イエス・キリストの名前によって祈ります。


メッセージのポイント

イスラエルの民にとって、出エジプトは神様との関係を考えるのに最も中心的な出来事です。しかしそれは単に奴隷とされていた地での苦しみから解放されて理想的な環境に移されたというような単純な出来事ではありませんでした。私たちもそれぞれのエジプトから解放されましたが、今置かれているところは不完全で、だれもまだ示された場所に到達してはいないのですが、そこに向かって歩み続けているのです。

話し合いのために
  1. あなたにとってのエジプトとは? 
  2. あなたにとってのイスラエルとは? 
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

出エジプトのエピソードを話してあげましょう。そして、自分にとってのエジプトが何であったか、なぜイエスを信じるのか、子供に理解できる言葉で伝えてください。