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新しい心と新しい生き方
ローマ 12:1-8
池田真理
今日からローマ書12章に入ります。早速読んでいきましょう。まず1-2節です。
A. 新しい生き方 (1-2)
1 こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
1. 生活の全てが礼拝
この2節は、聖書の中でも有名な箇所の一つで、新しく信仰を持った人や、新しい学校や職場に入った人などに贈られることの多い箇所だと思います。「自分自身を神様に捧げなさい」「何が神の御心なのか、何が善か、よく見極めなさい」と勧められています。しかも、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」とあり、この世の汚いことや危ないことからは離れて、クリスチャンとして清く正しい生活をしなさいと勧められているようにも聞こえます。それは、この2節が本当に意味していることの正反対です。
この2節の本当の意味を知るためのキーワードは、1節の真ん中の文章だと思います。「自分の体を、生けるいけにえとして献げなさい」とあります。私たちは、今ここで、この体を持って、この世で様々な人と関わりながら、自分自身の課題を抱えながら、生きています。「自分の体を献げなさい」というのは、そのような人との関わりを捨て、自分自身の課題を無視して、何か特別な働きに加わりなさいという意味ではなく、今まさにそれぞれが与えられている人との関わりの中で、また自分の限界の中で、神様を求めなさいという意味です。
そして、「これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です」と言われています。「理に適った礼拝」と日本語で訳されている言葉は、以前は「なすべき礼拝」と訳されていて、英語(NIV)では「真実でふさわしい礼拝」と訳されており、翻訳が難しい言葉のようですが、つまりは「それをすることが当然で自然なこと」という意味だと思います。前後をつなげて読むと、私たちが神様を信じて生きるなら、私たちが体を持ってすることの全て、つまり私たちの生活と人生の全てが、神様に対する礼拝であるべきだ、ということです。先週も聞きましたが、礼拝は日曜日の朝に教会で行うだけのものではなく、私たちの日常生活の全てで行うものなのです。
ですから、これは、私たちが日々、古い生き方を捨て、新しい生き方をするようにという招きです。自分の都合や利益、他の人の期待に応えることよりも、ただ神様の思いが実現することを求める生き方への転換です。それは、古い自分に死に、神様が与えてくださった新しい自分、または本来の自分を取り戻していく地道なプロセスです。だからパウロは、私たちは「生けるいけにえ」だと表現しました。
2. 心が新しくされることによって
ただ、このことは、自分の願いを押し殺して、「〜すべき」という強迫観念に支配されてしまうこととは違い、神様を信頼して、自分の思いを喜んで手放していくことです。
2節に「心を新たにして自分を変えていただきなさい」とある通りです。日本語の翻訳の限界で、心を新たにするのは自分自身のように訳されていますが、英語ではそうでないように、私たちの心を新たにして、私たちを変えてくださるのは神様です。
先週、私たちはイースターをお祝いしました。イエス様の十字架と復活は、罪人を赦し、死ぬべき者を生かす神様の憐れみを証明する出来事です。その憐れみが自分に注がれ、自分は神様に愛されていると知ることによって、私たちの心は変えられ始めました。
でも、それは人生で一度きりのことではなく、私たちは何度も繰り返し、神様の憐れみを知る経験が必要です。神様の憐れみは、私たちが様々な苦しみや悲しみの中で、神様は本当に私たちに関心を持っていて、良い計画をお持ちなのか分からなくなってしまう時にこそ、分かります。そこで私たちと共に悲しみ、苦しんでおられるイエス様に出会えるからです。
私たちは、そのようにして神様に心を新しくされ、自分が願った通りの人生を歩めなくても、思いがけない苦しみの中にも、神様の愛と良い計画を見つけていくことができます。そして、自分の正しさよりも神様の正しさを知り、神様が喜ばれることを自分の喜びとしていくことができます。私たちは神様ではなく、神様のように完全な者には決してなれませんが、神様は私たちを日々新しくしてくださいます。
そして、この新しい心と新しい生き方は、私たちの人間関係も新しく作りかえます。3-8節を読んでいきましょう。
B. 新しい人間関係 (3-8)
3 私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。分を超えて思い上がることなく、神が各自に分け与えてくださった信仰の秤に従って、慎み深く思うべきです。4 一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、5 私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人ひとりが互いに部分なのです。6 私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に、教える人は教えに、8 勧める人は勧めに専念しなさい。分け与える人は惜しみなく分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
1. 互いの違いに優劣をつけずに認め合う
パウロは、1−2節で、新しい生き方をするように神様によって造りかえられなさいと勧めた後で、ここでは「一人ひとり思い上がらないようにしなさい」と勧めています。神様は、私たちそれぞれに違う生き方を与えられます。それなのに、私たちは互いの生き方に優劣をつけたがります。それは、人間のどうしようもない性質で、教会の中も例外ではありません。
ここでパウロは「賜物」(英語では「ギフト」)という言葉を使って、教会の中の様々な働きをリストアップしています。預言の賜物、奉仕の賜物、教える賜物、励ます賜物、分け与える賜物、指導する賜物、慈善を行う賜物。こういうリストを読むと、私たちは自然と、自分にはどの賜物があるのか、あの人にはこの賜物があるけど、自分にはない、などと考えてしまいます。でも、それでは本末転倒です。パウロが言いたかったのは、それぞれに違う賜物が与えられているということであって、私たちが互いに比較して一喜一憂するべきではないということです。
それから、これは私は勉強不足で、これから考えていかなければいけないと思っていて、皆さんにも考えていただきたいのですが、賜物とは、自分で自覚できたり、他人が「あの人にはこの賜物がある」と言えたりするものなのでしょうか?賜物は神様からの贈り物であって、人が持って生まれた才能とか、努力して手に入れた能力とは違うと思います。自分で得意だと思っていることが、実は神様の働きの邪魔をしていたなんてことはよくあります。また、人間は目立つ働きに注目しがちで、私たちが賜物を判断することには限界があるんじゃないかと思います。
だから私は、賜物について考える時、次のパウロの言葉を思い出します。「力は弱さの中で完全に現れる。私は、弱い時にこそ強い。」(2コリント12:9-10)
2. 一つの体、キリストの体のために
そして、何よりも、私たちがそれぞれ違う賜物を受けているのは、ここでパウロが言っているように、私たちが一つの体に属し、その体が機能するように互いに補い合うためです。その体とは「キリストの体」であり、世界中のクリスチャンと、世界中の教会が、一つのキリストの体に属しています。そして、今は目に見えないキリストに代わって、キリストの愛をこの世界で目に見えるようにする働きを任されています。
パウロは、キリストの体について、このように言っています。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。…神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。…一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、一人ひとりはその部分です。(1コリント12:21-27)
今週、私はヘンリ・ナウエンの「いま、ここに生きる」を読み返していました。何度も読んでいる本なのに、初めて読んでいるかのように心に響きました。そのうちの一節が、今日のメッセージをまとめてくれているように思ったので、紹介して終わりにします。
「私たちの人生には多くの悲しみや苦しみがあります。けれども、それを誰かと共に経験できるなら、何という祝福でしょうか。それが憐れみという賜物です。」
(お祈り)神様、私たちは自分の狭い視野にとらわれて、目の前の苦しみに心を奪われて、あなたの愛を簡単に見失ってしまいます。どうか、あなたの霊によって私たちの心を変えて、あなたに心からの感謝と礼拝を捧げることができるように導いてください。あなたの喜びを自分の喜びとし、あなたの苦しみを共に苦しむことができるようにしてください。また、私たちには他の人の苦しみや悲しみを取り除くことはできないかもしれませんが、共に苦しみ、共に悲しむことができますように。私たちの主、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
メッセージのポイント
イエス様を信じて生きることは、日々、心を新たにされ、生き方を新しく変えられていくことです。自分が願った通りの人生を歩むことよりも、思いがけない苦しみの中でも神様の良い計画と愛を見つけていく歩みです。そして、神様は一人ひとりにそれぞれ異なる恵みと賜物を与えておられ、私たちがその違いに優劣をつけることなく、ただ互いに補い合い、支え合うことを願われています。
話し合いのために
- 神様を礼拝するとは?
- 「賜物」とは、自分でそれをすることが得意だと感じることでしょうか?人が「それがあなたの賜物だ」と言えることでしょうか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
12:1-2を読んで、「礼拝」とは何か、改めて一緒に考えてみてください。礼拝は、特別な場所(教会など)で特別な時間(日曜の朝など)にだけするものではなく、私たちの生活と人生の全てをかけて行うものです。それは、私たちの心が新しくされ、神様の喜びを自分の喜びとして、生き方を変えられていくことです。