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主に何をお返ししようか?
詩篇 116
永原アンディ
詩編に収められている詩の多くの詩と同様に、この詩の核には詩人自身の死を間近に感じるような、例えば重い病気のような経験があると考えられます。
しかし同時にそれが神殿礼拝で公に歌われるようになった時、民族共通の患難であるエジプトでの苦難、後の時代の隣国による占領下の苦難を想起するために歌われました。現代の教会のある教派では産後の無事を感謝するために歌われたりもします。 今朝はこの詩から「命」について考えます。そのことは同時に「死」について考えることに他なりません。まず11節まで読みます。
A. イエスの死を通して与えられた真の命
私は主を愛する。 主は嘆き祈る私の声を聞き 私に耳を傾けてくださる。 私は生きるかぎり呼び求めよう。死の綱が絡みつき 陰府の脅威が私に迫り 私は苦しみと嘆きに突き当たった。私は主の名を呼ぶ 「どうか主よ、私の命を救ってください」と。(1-4)
主は恵みに満ちた正しき方 我らの神は憐れみ深い。主は未熟な者を守ってくださる 私が弱り果てると、救ってくださる。私の魂よ、休息の場に帰れ。 主はお前に報いてくださった。あなたは私の命を死から 目を涙から 足をつまずきから助け出してくださった。主の前を私は歩む 生ける者の地で。私は信じる 「とても苦しい」とあえぐときも。 「人は皆噓つきだ」と口走るときも。 (5-11)
1. 私たちの意識する命も死も氷山の一角にすぎない
詩人は主の名を呼んで「どうか私の命を救ってください」と嘆き祈りながら、死が間近に迫る大きな危機を耐えましたそして、そこから救い出されたことを主に感謝しています。詩人は、この出来事を通して、主が恵みに満ちた正しき方、憐れみ深い方、未熟な者を守ってくださる方 私が弱り果てても救ってくださる方であることを確信しました。そして、「あなたは私の命を死から 目を涙から 足をつまずきから助け出してくださった。主の前を私は歩む 生ける者の地で。」(8,9)と喜び感謝しています。
しかし命が、この地上で生きていることを指すのなら、この喜びに終わりが来ることは、誰も避けることができません。人々が戦争の中で、悲惨な事故で、苦しい闘病の末にこの世の生を終えることをどう考えれば良いのでしょうか。
ヒントは7節にあります。 「私の魂よ、休息の場に帰れ。主はお前に報いてくださった」 詩人は自分の魂に向かってこう呼びかけます。私たちの本質は肉体にあるのではなく魂にあることを詩人は教えてくれます。魂があるべきところになければ、たとえ健康で普通に生活をしているようでも、私たちは満足することができません。地位を得ても、財産を蓄えても、結婚をしても魂は完全に満たされることはありません。
創造主である神様が私たちに与えた命とは、この世で生きることに終わらないものです。その意味で「永遠の命」と呼ばれますが、永遠とは無限の時間ではありません。神様の領域にあって、私たちの感覚、時間も空間も超えたものと考えた方がいいでしょう。 この領域を「神の国」と呼びますが、魂はそこにこそ居場所があるのです。
命が肉体の維持以上の意味を持つということは、裏返していうなら死もまた肉体の滅び以上に深刻なものだということです。 私たちが神様に与えられた命はこの地上で数十年間生命を保つ間だけ享受できるものではありません。命と死は肉体のみに関わることではなく、私たちの全存在に関わることなのです。
2. もっと恐ろしい永遠の死・もっと素晴らしい永遠の命
ヨブ記は、生命を失うよりも恐ろしい永遠の死に直面しそれと格闘し、自分の魂をあるべきところに置くことのできた人の物語です。
財産を失い、子供を失い、健康を失い、その苦しみと孤独に、妻からは「神を呪って死になさい」と言われたほどの苦しみの中に置かれたヨブですが、次のことを忘れませんでした。19章25-27節です。
私は知っている。私を贖う方は生きておられ
後の日に塵の上に立たれる。私の皮膚がこのように剝ぎ取られた後
私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。この私が仰ぎ見る。ほかならぬ私のこの目で見る。私のはらわたは私の内で焦がれる。
皆さんはその魂が主と共にあるので、感情は揺り動かされることはあっても、ヨブと同様に主が共にいてくださるということ以外の全てが無くなったとしても希望を失うことはありません。何を失っても、このキリストの体の一部であることは決して変わらないのです。その一部であるということは、常に必要は神様から、その体の他の部分つまり人々を通して与えられるということです。
しかしこの「贖い主」の存在を知らなかったとしたら、その体に連なっていなかったら、打ち倒されて弱りきった時のあなたの必要は誰が満たしてくれるのでしょうか?先々週の日曜日、私たちはイエスの復活を祝いました。イエスが死から復活されたことが私たちが生きていく上で信頼できる究極の希望です。人として生きた神、主イエスは、その十字架の死の3日後によみがえられ、弟子たちはその証人となり、キリスト教信仰の核心として伝えられてきました。
このことが、2000年の間、途絶えることなく伝えられてきたということは、多くの人々の、中には受け入れ辛く理不尽な死を見ながらも、信頼できる希望の印としての価値は失われることがなかったということです。 使徒パウロがコリント人への第一の手紙15:54,55に引用しているイザヤ書の25章の7-9節を紹介します。
主はこの山ですべての民の顔を覆うベールとすべての国民にかぶせられている覆いを破り死を永遠に吞み込んでくださる。主なる神はすべての顔から涙を拭いその民の恥をすべての地から消し去ってくださる。確かに、主は語られた。その日には、人は言う。見よ、この方こそ私たちの神。私たちはこの方を待ち望んでいた。この方は私たちを救ってくださる。この方こそ私たちが待ち望んでいた主。その救いに喜び躍ろう。
私たちが希望を置くべきは、この命を与えてくださった私たちの主イエス・キリストです。 この方を離れずに歩み続けるために、私たちが心がけるべきことが後半に歌われています。読んでゆきましょう。
B. 報いてくださったことすべてに応えて、主に何をお返ししようか (12-19)
12 主に何をお返ししようか 報いてくださったことすべてに応えて。
13 私は救いの杯を挙げ 主の名を呼ぼう。
14 主への誓いを果たそう 主の民すべての前で。
15 主に忠実な人たちの死は 主の目に重い。
16 主よ、私はあなたの僕 私はあなたの僕 あなたの仕え女の子 あなたは枷を解いてくださった。
17 私はあなたに感謝のいけにえを献げ 主の名を呼ぼう。
18 主への誓いを果たそう 主の民すべての前で
19 主の家の庭で エルサレムよ、あなたのただ中で。 ハレルヤ。
お返しは、感謝に基づく振る舞いです。しかし神様はどこかの政府のように、「援助してやったのに感謝の言葉がない!」と文句を言ったりする小さい方ではありません。神様は私たちに何か見返りを求めて恵んで下さるのではないのです。 ただ繋がっていてほしいのです。それはご自身の御満足のためではありません。離れていることが自体が「魂の死」であり、私たちに悲惨をもたらすからです。ですから「 報いてくださったことすべてに応えて、主に何をお返ししようか」というのは、私たちの自発的な願いです。
詩人は感謝のいけにえを献げようと勧めますが、私たちはここで犠牲の肉をローストして良い香りで満たす必要はありません。なすべきことは、読んでみて明らかなように、心からの礼拝を生き方の中心とするということです。 先週、ローマの信徒への手紙12章で学んだことそのものです。覚えていますか?
こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。
日曜日にここで集まって献げる礼拝は、礼拝する民の生き方の週の歩みの出発点として大切ですが、日々、礼拝に生きていなければ意味がありません。 神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして生きる、イエスに聞きながら、イエスと共に歩むということです。そして、イエスを知らずに、死の重さに身動きの取れなくなっている人に、この喜びを知ってもらうことなのです。
(祈り) 神様、あなたが私たちは永遠の死から、命へと救い出してくださったことを心からありがとうございます。私たちの肉体は弱く、心も挫けやすい者ですが、どうか私たちを支えてください。その魂があなたを離れることなく、日々あなたに希望を置き、あなたに従って歩むことができるよう導いてください。どうか、体の痛みを覚える者を癒し、経済的な困難のうちにある者の必要を満たし、心に重荷のある者にあなたの慰めを与えてください。 また、わたしたちを、そのことのために用いてください。 あなたの与えてくださった永遠の命によって生かされている恵みを感謝して、主イエスキリストの名前によって祈ります。
メッセージのポイント
私たちは命を惜しみ、死を恐れますが、私たちの意識する肉体の命や死は、実は命/死の本質の目に見えるほんの一部に過ぎません。イエスはその死と復活を通して、私たちにその全体像を示し、死から命へ移る道を開いてくださいました。
話し合いのために
- 真の命とはどのようなものですか?
- 私たちにとっての感謝のいけにえとは?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
生きているとはどういうことか、命とは何か、大人が教えるのではなく、子どもたちがどのような理解を持っているのかを聞いてみましょう。その上で、命とは単に、心臓が動いていることではなく、魂(子供達には「心」と言い換えてもいいと思います)が神様と共にあることで、それは肉体の死を超えたものであること、また本当の死はただ肉体の死をいみするものではなく、生きていようが死んでいようが、イエス様と共にいない心の状態であることを伝えてください。