人間の権力者に対する態度

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人間の権力者に対する態度

ローマ13:1-7, 1ペテロ2:11-17

池田真理


 今日はローマ書13:1-7を読んでいきますが、この箇所は、今日のタイトル通り、権力者に対して私たちはどのような態度を取るべきか、という具体的な問題に対して語っている箇所です。昔から議論を巻き起こしてきた問題の箇所なのですが、その理由は読むとすぐ分かります。全体を通して読んでみます。

1 人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。2 従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。3 実際、支配者が恐ろしいのは、人が善を行うときではなく悪を行うときです。権力を恐れずにいたいと願うなら、善を行いなさい。そうすれば、権力からほめられるでしょう。4 権力は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権力はいたずらに剣を帯びているわけではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるからです。5 だから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。6 あなたがたが税金を納めているのもそのためです。権力は神に仕える者であり、この務めに専心しているのです。7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。

A. パウロの真意 (ローマ13:1-7)
1. 権力者は善悪を裁く役割を与えられている (3-5)

  最初に3−5節に注目すると、権力者は善悪を正しく裁き、善良な人には報いを、悪人には罰を与える者だとあります。これは現実からかけ離れています。人類史上、善悪を正しく裁いた優れた権力者というのは、一体どれほどいるでしょうか。それよりも、善良な人を苦しめ、自らの利益のために悪を行なった権力者の方が圧倒的に多いと思います。ヒトラーが主導したユダヤ人のホロコーストは明らかな悪であり、プーチンが主導しているウクライナへの侵攻も明らかな悪です。彼らが権力者だから、偉い人だからという理由だけで、彼らの行為が正当化されていいはずがありません。
 では、この手紙を書いたパウロは、比較的善良な権力者しか知らなかったのでしょうか?だから、権力者をこんなふうに楽観的に美化することができたのでしょうか?そうでもないと思います。パウロは旧約聖書に精通していましたが、旧約聖書には歴代の王たちの数々の悪行が記されています。また、パウロ自身、ユダヤ人と異邦人両方の権力者たちから排斥され、投獄された経験もありました。そして、この手紙の受け手であるローマのユダヤ人たちは、この手紙を受け取るつい数年前に、ローマ皇帝によってローマから追放され、自分たちの家や仕事を強制的に失う経験をしており、パウロもそのことをもちろん知っていました。権力者たちが過ちを犯すことも、彼らの横暴さによって多くの人が苦しめられることも、パウロは知識としても経験としてもよく分かっていたはずなのです。
 それでは、3−5節でパウロが言おうとしたことは何かというと、権力者とはこうあるべきだ、という定義だと思います。つまり、権力者は善悪を正しく裁かなければならない、ということです。そして、権力者に従う私たちも、悪を避け、善を行う努力を続けなければいけないと言っています。

 でも、それならなぜもっと直接的にそう言わないのか疑問が残りますし、それ以上に、1-2節の問題は解決しません。1-2節をもう一度読みます。

2. 神様が人間の権力者を立てられた (1-2, 6-7)

1 人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。2 従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。

 この箇所を理解するための鍵は、旧約聖書でイスラエルの民が自分たちの民族の王を望んだ時の逸話にあると思います。サムエル記上8章にある話です。彼らは、自分たちの本当の王様は神様ご自身しかいないことを忘れていました。これは私たちも同じです。イスラエルの民も私たちも、目に見えない神様よりも、目に見える人間に期待します。サムエルは人々に人間の王がもたらす苦しみを警告しましたが、それは私たちに対する警告でもあります。サムエルはこう言っています。

「あなたがたは王の奴隷となる。その日、あなたがたは自ら選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになろう。しかし、主はその日、あなたがたに答えてはくださらない。」(サムエル記上8:17-18)

 この話から分かるのは、神様が特定の人間に権力を与えたのは、人間が神様を忘れた結果だということです。本来、私たちを支配できるのは神様だけであり、特定の人間が権力を持って他の人間を支配するということ自体、神様の意志に反します。善悪を常に正しく裁くことができるのは神様だけであり、人間がその役割を担おうとすれば必ず不幸なことが起こると、神様は最初から分かっていました。それでも神様がそれを許したのは、おそらく、神様を忘れた人間が造る社会は、不完全でも統率者がいなければ機能しないからです。でもそれはあくまで、神様が目に見える形でこの世界を支配するようになる終末の時までの、一時的な妥協です。
 このような意味で、パウロは「神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだ」と言っているのだと思います。理想にはほど遠い、間違いを犯す不完全な権力者でも、神様は彼らに、善悪を裁いて人間の社会を機能させる一定の役割を与えているということです。
 だから、6-7節では税金の話になっています。権力者が人間である以上、その統治が不完全で不公平であることは自明のことで、それを理由に納税の義務を放棄することは許されないということです。

3. 結論

 ただ、それでもやはり、この箇所全体でパウロが言いたかったことは、権力者には従うべきだという方に傾いていると思います。どんな権力者でも、多少の悪を行うのは仕方ないから、基本的には権力者には逆らうべきではないと言いたかったように思えます。

 これはパウロだけでなく、後で読むペテロの言葉からも読み取れる傾向です。おそらく、これが、初期の教会がローマ帝国に対してとっていた基本的な態度だったのだと考えられます。その理由は大きく2つあると思います。一つは、当時キリスト教徒はユダヤ教から派生した新興宗教集団だと思われていて、社会に危険をもたらす反社会的集団だと誤解されないために、積極的にローマ帝国に対して従順さをアピールする必要があったこと。もう一つは、これは私の推測にすぎませんが、ローマ帝国の悪がまだ許容範囲内であったこと、です。どちらも、悪く言えば打算的な戦略ですが、良く言えば柔軟で寛容な態度とも言えます。

 いずれにしても、この箇所は、紀元1世紀半ばの、生まれたばかりの教会と当時のその地域の支配者であったローマ帝国の関係に限定された教えです。当時の教会は当時のローマ帝国に基本的には従う方が良かったのかもしれませんが、これは教会と国家の関係に関する普遍的な教えではありません。今日の箇所から私たちが読み取るべきなのは、むしろ、権力者に過度に期待せずに冷静に分析する態度や、同じ信仰を持っているかよりも善悪を正しく行っているかを重視する姿勢です。

 それでは、この箇所ととても似ている、ペテロの言葉を読んで、もう少しヒントをもらいたいと思います。1ペテロ2:11-17です。

B. この世で寄留者として生きる (1ペテロ2:11-17)

(1ペテロ2章) 11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。12 また、異教徒の間で立派に振る舞いなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。13 すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。それが、統治者としての王であろうと、14 あるいは、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるために、王が派遣した総督であろうと、服従しなさい。15 善を行って、愚かな人々の無知な発言を封じることが、神の御心だからです。16 自由人として行動しなさい。しかし、その自由を、悪を行う口実とせず、神の僕として行動しなさい。17 すべての人を敬い、きょうだいを愛し、神を畏れ、王を敬いなさい。

 ここに、私たちが権力者たちを冷静に分析するための秘訣が教えられています。それは、私たちがこの世では寄留者(一時的な滞在者)であるということです。
 私たちは、イエス様を信じ、自分が神様の子供であると知りました。私たちは神様に属し、私たちの本国は神様の国であり、私たちは今この世界に神様によって派遣されて一時的に滞在しているに過ぎません。神様が私たちを派遣されている目的は、私たちを通してこの世界に神様の国が表されるため、私たちを通して神様の愛と正義が実現されていくためです。これは、たとえ私たちの体がなくなっても、時代が変わっても、この世の他のものが全て過ぎ去っても、神様の愛は永遠に残るということを知っている私たちにしかできない役割です。
 だから私たちは、権力者たちが神様の愛に沿って社会を統治しているかどうか、見極める責任を持っています。それは、権力者が軍事力や政治権力を使ってキリスト教国の勢力圏を広げているかどうかなんてことではありません。クリスチャンの政治家の数を増やすことでもありません。重要なのは、権力者たちが、キリストがなさったように、弱者と共に歩んでいるかどうかです。彼らが人々の痛みを知ろうとしているか、差別を取り除こうとしているか、少数者の意見を聞こうとしているか。完璧な人は誰もいませんが、少なくとも基本的な姿勢を評価することはできます。まして、戦争や虐殺を主導する権力者が、神様の愛に従っているはずがないことは言うまでもありません。
 
 もうすぐ参議院議員選挙があります。私は立憲民主党に投票してきましたが、当分政権を取れることはないでしょうし、万が一取れたとしても現状では非常に頼りない印象を受けています。それでも、自民公明よりは神様の国の価値観に沿っていると思いますし、他の野党に比べれば現実的な主張をしていると思うので、今回も私は立民に投票すると思います。皆さんはどのようにお考えでしょうか?

(お祈り)神様、私たちの世界には私たちの罪によって多くの苦しみと悲しみがあります。どうか私たち一人ひとりが、あなたの愛を知り、正義を行うことができるように、助けてください。また、社会の中であなたの愛が実現されていくために、政治家を導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

人間の権力者は、人間の善悪を裁く役割を神様に与えられています。それは、不完全な人間の社会を機能させるために神様が妥協した結果であって、本来、善悪を裁いて社会を正しく導くことができるのは神様しかいません。私たちは、自分の本国は神の国であり、真の王は神様だけであることを忘れず、神様はご自分の正義と愛をこの世に実現させるために私たちを僕としてこの世に派遣しておられることを忘れてはいけません。そして、その務めを果たすために、私たちは人間の権力者に対して過度に期待しすぎることも無関心でいることもできません。

話し合いのために
  1. 悪政と善政を判断する基準とは?
  2. 悪政を行う権力者に対して、どのように行動すべきですか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

このローマ書の箇所はこのまま読むと大きな誤解を生むので、ローマ書の代わりにサムエル記上8章を読んでください。絵本などでもいいと思います。ポイントは、神様は最初から人間が人間を支配することに反対だったのに、人間が自分たちの中から支配者を立ててほしいと望んだということです。学校でも、学級委員を決めたり、いろんな委員会の委員長を決めたりすると思います。そういう「長」たちは、他の人より優れているとか偉いとかいうことはなく、ただ単にみんなの意見をまとめるためにいます。でも、「長」になった人はつい自分が偉くなったように感じますし、周りの人も「長」になった人のことを特別扱いします。みんなは、どちらの立場であっても、みんな神様の前には同じ価値があって、良いことと悪いことを見分ける責任をみんなで担っているということを忘れないでください。そんな身近なことから、社会問題や国際問題に対しても、神様の視点を持って関心を持てるように励ましてください。