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戦争と平和
イザヤ9章, ヨハネ14:27, ルカ12:49-53, ヨハネ16:33
池田 真理
明日は77回目の終戦記念日です。先週もお話ししましたが、今年2月に始まったウクライナでの戦争によって、私たちはいつもの8月以上に戦争と平和について考えさせられていると思います。そこで、今日はいつものローマ書のシリーズを離れて、特別に戦争と平和に焦点を当ててお話ししたいと思います。まず最初に、イザヤ書9章を読みます。
A. 平和の君、イエス様(イザヤ9章)
1 闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。2 あなたはその国民を増やし、その喜びを大きくされた。彼らはあなたの前に喜んだ。収穫を喜ぶように、戦利品を分けて喜び踊るように。3 彼らの負う軛、その肩の杖、虐げる者の鞭を、あなたがミデヤンの日のように、打ち砕いてくださった。4 地を踏み鳴らした兵士の靴と血にまみれた服は、すべて焼かれ、火の餌食となった。5 一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。主権がその肩にあり、その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。6 その主権は増し、平和には終わりがない。ダビデの王座とその王国は、公正と正義によって立てられ、支えられる。今よりとこしえに。万軍の主の熱情がこれを成し遂げる。(イザヤ9:1-6)
お気付きの方も多いかと思いますが、これはクリスマスによく読まれる箇所です。暗い世界に光をもたらし、戦いを終わらせ、正義と平和をもたらす王が生まれると預言しています。イエス様は確かにこの預言通り、「平和の君」として、正義と平和が永久に続く王国を作るために、二千年前にこの世界に生まれてこられました。
それならなぜ、私たちの今の世界には平和が実現していないのでしょうか?それが今日の大きなテーマです。まず最初に言えるのは、イエス様がもたらした平和というのは、私たちが期待する平和とは少し違うということです。イエス様の言葉を二つ紹介します。まずヨハネによる福音書14:27です。
B. イエス様がくださった平和
1. 私たちの期待とは違う?(ヨハネ14:27、ルカ12:49-53)
私たちの期待とは違う?(ヨハネ14:27、ルカ12:49-53)「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)
この言葉は、イエス様が自分の逮捕と死について弟子たちに教える中で言われた言葉です。イエス様がくださる平和とは、イエス様の死と苦しみと引き換えにくださる平和です。それは、武力によって敵に勝って手に入れる平和とは全く違うものでした。
イエス様は別の箇所で、さらに私たちを困惑させることを言っています。ルカによる福音書12:49-53です。
「49 私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50 しかし、私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう。51 あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52 今から後、一家五人は、三人が二人と、二人が三人と対立して分かれることになる。53 父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(ルカ12:49-53)
イエス様は、自分は地上に平和をもたらすためではなく、火を投ずるため、分裂をもたらすために来た、と言われています。これは一体どういうことなのかというと、イエス様がくださった平和というのは、神様の愛と正義と深く関わっているので、それに反することにははっきり対立していかなければいけないという意味です。
それでは、イエス様がくださった平和とは何でしょうか?それは第一に、罪の赦しです。
2. 罪の赦し
私たち人間が犯す過ちはすべて、神様以外のものを神様にする罪に原因があります。頼りにならないものを頼りにして生きている間違いです。それによって、私たちは他人を傷つけて関係を壊したり、何を手に入れても満足できず、虚しさから自由になれなかったりします。
イエス様は、十字架で死なれることによって、私たちのその根本的な心のあり方が間違っていることを教えてくれました。そして、同時に、神様は人間には決して与えられない愛で私たち一人ひとりのことを愛してくださっていることを教えてくださいました。私たちに必要なのは、その神様を信頼すると心に決めることです。それによって、私たちは罪から解放されて、神様と共に永遠に生きることができます。つまり、イエス様が私たちにくださった平和とは、第一に、私たちと神様の間の平和で、それは神様に愛され、神様を愛して生きる、新しい生き方です。
3. 心と体の傷の癒やし
そして、イエス様がくださった平和は、それだけではありません。それは、イエス様が弟子たちと共に旅をした日々の記録から分かります。イエス様は病人を癒やし、罪人とされた人々と友人になり、女性や子供にも平等に接し、貧しい人々を愛されました。それは、病気や障害や性別や年齢、家族構成や社会的身分や職業などによる偏見や差別は間違いであると教え、どんな人でも神様に愛された子供であるということを、時には超自然的な力を使って、行動で示したということです。
これが、イエス様がくださった第二の平和です。第一の平和は神様と人の間の平和でしたが、第二は、人と人の間の平和です。人と人の間にある不正義や不平等を取り除き、互いに尊重し、助け合い、愛し合える関係です。
私たちはこの平和の実現のために戦っています。それが、イエス様がこの世界に投じた「火」であり、人間の罪との戦い、神様の愛を実現するための戦いです。この戦いは、イエス様が再びこの世界に戻ってこられ、この世界が終末を迎える時まで終わることはありません。その時に初めて、人間の罪は完全に取り除かれ、神様の愛が完全な形でこの世界を支配します。それまでの間、私たちは決して絶望することなく、希望を持って戦い続けなければいけません。イエス様の平和は、それを受け取った私たちの手に、委ねられているのです。
でも、ここで問題なのは、これだけでは、今の世界で起こっている実際の不正義に対して、具体的にどのように戦えばいいのか分からないということです。現代の社会は複雑な事情が絡み合い、何を正義とし、何を不正義とするのかの判断すら、迷うことばかりです。私たちはどのように国際平和を実現していくことができるのでしょうか?
C. 私たちにゆだねられた平和
1. 聖書は現代の戦争について教えてくれない
最初に、このメッセージを準備する中で私にとって最大の気付きをお伝えします。それは、聖書は現代の国際平和や戦争については直接答えてくれないということです。私は、戦争は絶対悪であるということが、聖書のどこかに書いてあるはずだと思っていたのですが、どこにもありませんでした。
そして、改めて勉強する中で、教会の歴史の中で、戦争を否定する神学が出てきたのは20世紀に入ってからだと知りました。それまでは、戦争も兵役も正義のためならばやむをえないと教えられていました。(アウクスブルク信仰告白第十六条やウェストミンスター信仰告白第二十三章を参照。)その流れが20世紀に変わったのは、新しい兵器が次々と開発され、一度に出る死傷者の数が桁違いになり、その悲惨さに世界中が恐怖したからです。そして、二度の世界大戦を経て、戦争は絶対悪であるということが国際的にも認知されました。(1945年の国連憲章)それは、ただ聖書を読んでいただけでは、あるいは教会の伝統的な教えを無批判に繰り返していただけでは、辿り着かない結論です。実際に目の前で起こっていること、そこで起こっている人々の苦しみに耳を傾けることが、正義と不正義を判断するために不可欠です。私たちも、歴史から学び、戦争は絶対に起こしてはいけない悪なのだと、あきらめずに言い続けなければいけないと思います。
でも、現実の問題として、戦争はもう起こってしまっています。戦争は絶対にダメだと言っているだけでは、独裁的な侵略者を止めることはできないということは、今回のロシアのウクライナ侵攻でも明らかになりました。そこで、私たちは、平和主義はこの世界では通用しないという現実に直面しています。
2. 平和主義は人間の罪を甘く見ている?
私は、軍事力というのはそもそも戦争を想定したものなので、自衛も含め、完全に捨てることができたらいいのに、と思ってきました。そして、実際、世界の終わりにイエス様がこの世界に戻って来られたら、全ての国から武力は排除されるでしょう。私たちはそれが神様の望まれる世界の姿なのだと信じて、少しでもそこに近づく努力を続けるべきだと思います。
でも、このメッセージを準備する中で、神学校時代の本を読み返してショックを受けました。そこには、全ての武力は放棄されるべきだとする絶対的平和主義は、人間の罪の深さを理解できていないと批判されていました。人間が自分たちの知恵や良心によって、完全な正義と平和を実現するのは不可能であり、それができると考えるのは人間への過信であり幻想であると断言されていました。だから、戦争には絶対反対しながらも、他国に侵略されないための抑止力としての軍備と、侵略された場合の最低限の防衛力は必要だいう結論に至っていました。人間の罪が残っているこの世界の中では、警察や政府という機能が必要であるのと同じように、最低限の軍備も必要だということです。皆さんはどう思われますか?
3. 今日の具体的な課題(ウクライナ・憲法九条)
そこで、少しウクライナでの戦争について考えてみたいと思います。今、多くの人の関心は、この戦争をどうやって終わらせることができるのか、ということだと思います。現状は、ロシアとウクライナの双方が、なんとか自国に有利な形で停戦協議を行うために戦い続けている状態だと思います。そして、西側諸国はそのためにウクライナに武器供与を続け、反対にロシアに対しては様々な経済制裁を加えて国際社会で孤立させ、弱らせようとしています。ロシアが悪くてウクライナは悪くないのだから、それが現状では当然なのかもしれません。
でも、この戦争によって双方で多くの兵士とウクライナの多くの市民が犠牲になり、街が破壊され、国内外に難民があふれていることを考えると、私はウクライナが無条件の即時停戦も検討するべきではないのかとも思います。悪いのはロシアで、ウクライナ国民の多くが徹底抗戦を望んでいたとしても、ウクライナ政府には国民を守る義務があります。戦争を望まない市民にも総動員令をかけて強制的に協力させるのには違和感を感じます。国家の存続が国民の命よりも優先される事態は、戦時中の日本にも重なります。戦争とはそういうもので、非難されるべきはロシアであることには変わりありませんが、不正義ばかりの戦争の中で少しでも不正義を減らすことのできる実現可能な選択肢が何か、私たちは世界の人々と共に考え続けるべきだと思います。
また、このことにも関連して、日本の憲法九条のことについても触れておきたいと思います。私は、憲法九条の戦争放棄の原則は日本が世界に誇るべきもので、自民党の改憲案にはその他の改正も含めて反対です。憲法九条は、日本が国家として一切の戦力を持たないことと使わないこと、国家として他国と戦う権利を持たないことを定めていますが、これはまさに、世界の終わりに神様が実現する世界の姿を先取りするものだと思います。実際には、この条項は日本の自衛権まで否定していないという拡大解釈によって、自衛隊の発足が認められて今に至るわけですが、それはそんな問題ではないと思います。平和主義の限界のところでお話ししたように、人間の罪が残っているこの世界においては、必要だと思うからです。ただ、自衛隊の戦力が本当に最低限の自衛目的に留まっているのかどうかはよく分かりません。もっと勉強しなければいけないと思っています。また、国際貢献という観点から集団的自衛権を認めるべきだとも言われますが、国際貢献ならば、軍事協力以外に、戦時であっても人道的支援ができますし、平時であれば経済、文化、保健福祉などの多くの平和的分野で貢献できるはずです。私は、日本だけでなく、世界の多くの国が集団的自衛権や軍事同盟などは持たずに、この平和的な道を選ぶようになることを願います。
4. 自らの罪と戦い、隣人を愛し、敵を愛する(ヨハネ16:33)
最後に、平和を考える上で私たちが忘れてはいけないことを付け加えておきたいと思います。それは、隣人を愛し、敵を愛しなさいというイエス様の教えです。この二つは実は同じ種類の愛を語っていると思います。「隣人を愛しなさい」の真の意味は、良いサマリア人のたとえにあったように、全ての人の隣人になりなさいという意味で、敵意や偏見を乗り越えることを指しています。「敵を愛しなさい」もそれと同じですが、さらに、自分を苦しめる相手を許して受け入れなさいという意味があります。それは、個人のレベルでも国家のレベルでも、非常に難しいことですが、不正義の中に正義を構築し、愛のないところに愛をもたらすためにはどうしても必要なことです。それができるようになる方法は、とても地道な方法しかないと思います。一人ひとりが、イエス様が下さった罪の赦しという平和を自分の心に受け止め、自らの内に残っている罪と戦うことです。
最後に、もう一箇所、イエス様の言葉を読みます。
「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
どんな状況においても、絶望や無気力、無関心に支配されず、イエス様を信頼して、自分でよく考えて判断し、いつか必ず実現する神様の愛と正義と平和を信じて歩んでいきましょう。
(お祈り)主よ、どうか私たちが、あなたのくださる平和をこの世界でもっと実現していくことができるように、まず私たち一人ひとりの心をあなたの愛で満たしてください。絶望的な状況においても、不安を多く感じる状況でも、あなたを信頼して歩むことを教えてください。そして、苦しんでいる人と共に苦しむことができるように、また、その苦しみが和らぐためにできることはないのか模索し続けられるように、助けてください。自分の身近な人たちの間でも、遠い国の出来事の中にも、あなたの悲しまれることを共に悲しみ、あなたに委ねられている平和を実現できるように、導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
メッセージのポイント
イエス様は確かに「平和の君」としてこの世界に来られ、私たちに平和を与えてくださいました。でも、その平和は一人ひとりの心から始まるもので、世界の平和の実現は私たちの手に委ねられています。それは人間の罪との戦いで、人間の罪が完全に取り除かれる終末の時までは、正義も平和も完全な形で実現することは不可能です。私たちはそのことに失望せず、具体的な状況の中で最善が何かをよく考えることが大切です。イエス様を信頼しているなら、どんな状況でも、絶望や無気力や無関心に支配されないで、隣人を愛し敵を愛するということを実践していけます。
話し合いのために
- イエス様の教えに照らして、「正しい戦争」はあると思いますか?ウクライナの防衛は?
- 一人ひとりの「心の平和」と「世界の平和」はどうつながると思いますか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
連日、子どもたちもウクライナでの戦争のニュースを聞いていると思います。でも、同じことが、ひいおじいちゃん・ひいおばあちゃんの時代に日本でもあったことを、本や動画、アニメなどで一緒に考えてみてください。「戦争は絶対にいけない」ということは、実は聖書では明確に語られていません。イエス様も直接は語っていません。その時代には世界大戦も大量破壊兵器もなかったからです。でも、人が殺し合うことも奪い合うことも、「隣人を愛する」「敵を愛する」というイエス様の教えに反していることは言うまでもありません。戦争のない世界にするためにはどうすればいいのか、大人も悩んでいますが、大人も子どもも一人ひとりが考えて行動していくことが大切です。