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赦すということ
詩編61編1-9節
石丸泰信(日本キリスト教団教師・女子学院聖書科教師)
ユア・チャーチの礼拝にお招きいただいて、ありがとうございます。今年の8月は平和をテーマに聖書のメッセージを聞いていると伺いました。
わたしたちは、皆、平和を必要としています。そのためにこの世界の様々な出来事に対して愛を持って目を向けることが大切と思います。けれども、同時に、この世界に生きる自分自身、わたしたち自身にも、思いを向ける。このことに時間を掛けることも、必要なのだと思います。
主イエスは、「平和を実現する人々は、幸いである」と言われました。主イエスは、わたしたちをpeace・Makerとお呼びになります。
平和というのは、どこからか足音をたててやって来るものではありません。平和は、わたしたちが作るもの。わたしたちの手に任せられているものです。だから、平和の作り手であるわたしたち自身にも、思いを向けたい。そのために、今日は、詩編の61編の聖書の言葉を一緒に読みたいと思います。
61:1 【指揮者によって。伴奏付き。ダビデの詩。】
2 神よ、わたしの叫びを聞き/わたしの祈りに耳を傾けてください。
3 心が挫けるとき/地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に/わたしを導いてください。
4 あなたは常にわたしの避けどころ/敵に対する力強い塔となってくださいます。
5 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り/あなたの翼を避けどころとして隠れます。〔セラ
6 神よ、あなたは必ずわたしの誓願を聞き取り/御名を畏れる人に/継ぐべきものをお与えになります。
7 王の日々になお日々を加え/その年月を代々に永らえさせてください。
8 王が神の前にあってとこしえの王座につき/慈しみとまことに守られますように。
9 わたしは永遠にあなたの御名をほめ歌い/日ごとに満願の献げ物をささげます。
詩編は祈りの言葉です。この今日の61編の祈りには、学ぶべきことが沢山あります。けれども、詩編というものは古くて、よくわからないことも多いものです。
今日の1節の所で「指揮者によって。伴奏付き。ダビデの詩」とありますけれども、この「ダビデの詩」をどうやって読むか。
ダビデの歌ったダビデの歌、ダビデの詩。David’s song. そういう風に読むか、ダビデのために歌った誰かが歌ったダビデの歌、ダビデの詩。Song for David.
そういうことは、もうわからなくなっています。
一見、読んでみると、ダビデ自身が、神に向けて歌った信頼の歌として読むことも出来ます。1神よ、わたしの叫びを聞き/わたしの祈りに耳を傾けてください。この「わたし」というのがダビデ。
けれども、7節には7王の日々になお日々を加え/その年月を代々に永らえさせてください。そういう言葉もあります。
ダビデ自身が王様なのです。自分で自分のことを「王の日々になお日々を加え」てください。それは変なので、Song for David そういう歌だろう、と思われたりもしていました。
けれども、わたしは、この詩編61編。これは素直に全部ダビデの歌として読んで良いのだと思っています。
そうすると、重要なのはダビデが、いつどこで、どうして、この歌を歌ったのか。自分が王であるにも関わらず、どうして「王の日々に、なお、日々を加え」てくださいと祈ったのか。
ダビデの人生には、様々なことがありました。かつては羊飼いでアリ、そして、ペリシテ人・ゴリアテを倒すという成果があったり、王になった後、バト・シェバの事件を起こしたり、様々なことがありましたけれども。
ダビデが王になる前のことです。彼自身、この詩編の中にありましたけれども、「地の果てからあなたを呼びます」という経験をダビデはしています。
いつかと言えば、それはサムエル記上の18章に書いてあるのですけれども、ダビデの前の王。先代の王、サウルの怒りを買って、徹底的にダビデがいじめ抜かれるという経験をしたときのことです。
先代の王サウルから、槍で突き刺されそうになることが2回ありました。
勝てない戦争であるのに、先頭に立たされるということが数回ありました。
家臣や友人たち、身近な人たち全員から…全員に対してサウル王がダビデの殺害命令を出して、ダビデは追われて1人逃げる。そして洞窟の中で暮らすということがありました。
そして、そこで祈った祈りが、この祈りなのです。王のために、「王の日々になお日々を加え/その年月を代々に永らえさせてください」。
徹底的にいじめ抜かれて、自分が洞窟に住んで「わたしの祈りに耳を傾けてください。わたしの心はくじけます。地の果てにわたしはいます」。そういうときに、「なお、王の日々に、日々を加え、その年月を永らえさせてください」と祈ったのが、この詩編です。
わたしにも苦しんだ経験があります。もう10年以上前のことですけれど、当時は、こんな言葉はなかったですけれども、今で言えば、パワハラとかモラハラ。ある人から、ずいぶん長い間、苦しめられました。
人に苦しめられるとき、その中で最も苦しいことの一つは、自分がやってもいないことを、責められることだと思います。「おまえがやったんだ。謝れ」と風に言われたとしても、やっていないので、謝ることが出来ない。「違います」という風に言っても伝わらない。
ようやく治まって、しばらくすると、そのパワハラをしてきた人の事。噂話を聞きました。
そして、仕事が上手くいっているという噂を聞くと、チクショウという風に思うんです。
反対に、仕事が上手くいっていないという話を聞くと、ざまあ見ろ、とも、良かったって思うんです。
そういう風に、不当にいじめ抜かれた後、そういう噂話を聞いて、
上手くいっていないと聞くと、良かったと思う。
何かで成功したらしいと聞くと、残念に思う。
まあ、ヤバいですよね。病気だと思います。病気です。
あの嫌な人が成功すると、自分の失敗のように思う。
あの嫌な人が失敗すると、自分が勝ったように思う。
あの人の不幸は、わたしの幸せで、相手が幸せだと、なんだか、自分が不幸になったように思う。
おそらく、これを聞いている人たちは、「変だ」という風に思うと思います。変なんです。
わたしたちの幸せというものは、そういう儚いものの上にあるものではないはずです。
それなのに、相手が憎いと、相手が赦せないと、相手次第で自分自身が振り回されてしまう。
これは病気です。
でも、この類いの病いは治ります。もちろん、ずっと背負っていかないといけない病もあると思います。今、そういう病と闘っている方もあると思います。でも、この病いは治ります。
どうやったら治るのか、と言えば、この祈りです。
「あの人が、とこしえに永らえますように」。
「王が神の前にあってとこしえの王座に着き、慈しみとまことに守られますように」。
「あの嫌いな人が、神の前にあってとこしえに幸いの中に生き、慈しみとまことに守られますように。」
聖書の詩編の中には、嘆きの歌、悲しみの歌も多くあります。しかし、この61編は、そこで終わらない。嫌いな、その相手の祝福を願う。そこまで突き抜けていく歌。
聖書の言葉で、「相手を赦す」というときの「赦す」という言葉は、アフィエーミと言います。ギリシア語です。このアフィエーミという言葉を日本語では「赦す」と翻訳しますけれども、元々の意味は、「手放す」という意味の言葉です。
わたしたちが、相手が憎くて赦せないとき、相手を縛り付けているようなイメージをするかと思います。
絶対に赦さないぞ!と言って、鎖でぐるぐる巻きにするような。絶対に赦さないからな!
それを手放してしまうのが、アフィエーミという言葉です。それが聖書のいう赦しということです。
どうして、赦せない相手が、幸せな顔をしていると、つまらない思いになるのか、チクショウと思うのか。それは、せっかくわたしが、こうやって縛り付けているのに、横でニコニコされているので、腹が立つのだと思います。だからこそ、悔しい。
けれども、ちょっと、こういう話があります。
わたしの友人の、ある女性は、もう結婚をして、小さな子どもが居て、とても幸せそうなのですけれども、その小さな子ども。まだ、一度も、自分の母親に会わせたことはないそうです。母親には会っていない。
どうして?と聞くと、赦せないからだっていう風に言います。
自分は高校生の頃、母親にああいう風に言われた。こういう風に言われた。もう絶対に赦せない。裏切られた気持ちになった。子どもなんて会わせたくない。
その人とは、仕事の話とか、その子どもの話とか、いろいろするんですけれども、楽しくするんですけれども、母親の話をすると、いつも、その高校生の時の話になってしまう。あのとき、裏切られた。
なぜか分かりますか。
赦さないって言って、相手を縛り付けているようで、縛り付けられているのは自分だからです。
だから、母親の関係のことに関してだけ、ずーとその時のまま。もう高校生からずっと、こう成長していっているはずなのに、その母親に関してだけ、高校生の時のまま、縛り付けられて、進まないんです。時間も止まってしまっている。
主イエスは、新約聖書の中で、こう祈りなさいと言って、主の祈りを教えられました。
「我らが罪を赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。そう祈りなさいと言われました。
わたしたちも赦します。だから、赦してください、と祈りなさい、そういう風に祈ってご覧なさい、と言いました。
わたしたちも赦します、という風に祈ってご覧なさい。
聖書が赦せというのは、相手が可哀想だから、もう赦してあげなさい。そういうことではありません。
赦すのは、神を知る者にとって、大きな徳、高徳を積むことになるから、赦しなさい。
そういうことを言っているわけでもないんです。
そうではなくて、どうして赦しなさい、と言うのかというと、あなたが助かるためだ。あなたが救われるためだ、と。
その時、相手に縛り付けられているあなたが、解放されるため。
だから、赦してみなさい。
相手を赦さない限り、ずーと自分自身が鎖で縛りつけられてしまっている。その時のままになってしまっているからこそ、聖書は言うんです。
手放してご覧なさい。その鎖を放してご覧なさい。
そして、祈ってご覧なさい。あのこと、このこと、手放すことが出来ますように。
あなたが手放すことができるように、と祈ってご覧なさい。
どうしたら、その鎖を手放せるのか。相手を縛っているようで、自分自身が縛られている鎖を、どうしたら手放せるのか。神に任せたときです。
神さま、もうわたしは、ずっと握っていた、この鎖を手放しますので、神さま、あの人のことはよろしくお願いします。神さまが、あの人のことを祝福するのなら、それで構いませんし、神さま、あなたが、あの人のことを呪うのであれば、それで良いです。お任せいたします。そういう風に祈ることが出来たとき、わたしたちは、その時、そのところから解放されることが出来るのだと思います。
赦せないという人があるかも知れません。あの人のこと、この人のこと、嫌いだな、赦せないなと思う人が、今、頭に浮かぶかも知れません。
あるいは、赦せないのは、自分自身だ。かつての自分自身だ、という人もあるかも知れません。
どうして、あのとき、わたしは、あんなことをしてしまったのだろう。今も、それに縛り付けられていて、動けなくなっている方もあるかも知れません。
けれども、赦すということができます。神さまに委ねてしまうことができます。
赦せない人、赦せないこと、そこからわたしたちが手を放して、神さまに任せることができたとき、この今日のダビデの祈りを、自分自身の祈りとすることができるのだと思います。
あの嫌いな人が、しかし、あなたの御前で生きながらえますように。
大嫌いな自分自身の過去、しかし、それを、また、あなたの御前で、祝福を願うことが出来ますように。
赦すということは、神さまに委ねることです。この「神に委ねること」が、つまり、「神を信じること」です。
「わたしは神を信じています」という言い方があります。そのとき、多くの場合、神が居るか居ないか、の話であって、この人は、神がいるって信じているのだな、と受け取られてしまいますが、それに留まりません。
「神さまを信じる」ということは、それを越えて、神に信頼して委ねます。あるいは、信頼して任せています、ということです。
信じる事なき、祈りは嘆きの祈り、悲しみの祈りで終わるかも知れない。けれども、聖書の祈りは、突き抜けていきます。
あの人のこと、神さま、あなたに任せます。わたしの将来のこと、神さま、あなたに委ねます。
そして、その祈り、その信頼は、愛することから始まります。
愛するって何か。時間を掛けることです。
子どもを愛している人は、子どもに時間を掛けます。家族を愛している人も、家族への時間、多く持っているでしょう。
反対に、嫌いな人、愛していない人には時間は掛けません。顔も見たくない。
自分の嫌いな過去、思い出したくもありません。
けれども、そういう中で、神さま、あの人のこと…と言って、祈ってみる。すこし、時間を掛けてみる。
思い出したくない自分の過去。赦してください、わたしも赦しますと祈ってみる。
なかなか出来ません。時間が掛かります。けれども、わたしたちは、それをすることが出来ます。
たとい、それができなくとも、そういう祈りを試みたとき、この世界は、ゆるせない世界ではなく、互いにゆるし合うことの出来る世界でもある。新しく、この世界を見始めることが出来るのではないかと思います。
メッセージのポイント
主イエスは「それでも赦すこと」の大切さを繰り返し教えてくれました。嫌なことをしてきた憎い相手をどうして赦すのか。相手が可哀想だから、赦すことはキリスト者の徳だからという理由ではありません。わたしの救いのためです。赦しだけが憎しみという縛り付けから解放してくれます。だから、主イエスは「赦しなさい」といわれます。その言葉を信じて任せられたとき、詩編61編のダビデの祈りと思いを同じにすることができます。そこからしか始まらない平和があり、そこからこそ始まっていく新しい世界があります。