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ו (ワウ) 「私はあなたの言葉に信頼します」
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 6/22
詩編119:41-48
永原アンディ
律法への賛歌と呼ばれる詩編119編のシリーズ6回目は、六つ目の段落、各行の初めにヘブライ語のアルファベット6番目の字、”ワウ”が各節の初めに置かれた41-48節を取り上げます。この文字は、異説もありますが、その形が ”וו”(鉤、hook) に由来すると考えられています。
この段落は、前半:詩人の神様への願いと、後半:神様を信頼する者の気持ちのの二つの部分で構成されています。まず前半の43節までを読みましょう。
A. 神様の言葉を信頼する (41-43)
41 主よ、慈しみと救いが
仰せの とおり、私に訪れますように。
42 私を辱める者に一言、言い返します
「私は御言葉 に信頼する」と。
43 真実の言葉を私の口から奪わないでください。
私はあなたの裁き を待ち望んでいます。
1. 憐れみと救いをうけとること (41,42)
前回の段落では、一節ごとに神様への願いが記されていましたが、この段落では二つの願いが記されています。詩人はまず、「 主よ、慈しみと救いが仰せのとおり、私に訪れますように。」と求めます。みなさんは、神様の皆さんに対する慈しみ、救いを実感していらっしゃいますか? ここでは、詩人を辱める者が、詩人に向かって侮辱する言葉を一方的に浴びせていたようですね。
そんなふうに責め立てられれば、心が萎えてしまうことはみなさんもよくご存知だと思います。それで詩人は神様にこう求めたのです。この詩が個人的な出来事について歌われているのか、あるいは民族の経験について歌われているのかどうかはそれほど重要なことではありません。私たちにとっても、これは個人的な出来事にも、また教会としての経験することにも当てはめて考えることができるからです。物事が自分の望む方向に進まない時、思い描いていたことがかなわないと分かった時、私たちの神様への信頼は簡単に感じられなくなってしまいます。神様は私をお見捨てになったのだろうか? けれども詩人はそれが事実ではないことを知っています。ただ自分がそれを感じることができないでいることを理性では分かっているのです。
私たちも同様です。「私は神様の言葉に信頼する」 どうか心からそう言えるように、あなたの慈しみと救いを実感させてください。そのように叫び求めることを遠慮する必要は全くありません。そのように思えない心境なのに、無理して「私は神様の言葉に信頼している」と言わなくてもいいのです。それより、詩人と同じように神様に求めましょう。お話の後の歌う時間はそのための時でもあるのです。このことは、ぜひ真剣に求めていただきたいことです。礼拝は儀式ではありません。みなさんの魂が神様の前に出て、神様と顔と顔を合わせるようにして語り合うのでなければ意味がありません。神様の言葉に信頼して歩みたいと願っても、礼拝することを、自分の人生の全ての営みの中で最も大切な時としなければ、それはかないません。
2. 偽りではなく、真実の道を歩むこと (43)
続く43節では、 真実の言葉を私の口から奪わないでください。私はあなたの裁きを待ち望んでいます。 ともう一つの願いが記されています。この願いが他の多くの願いと異なるのはそれが自分に対してではなく、人々に対しての願いだからです。「神様に信頼して生きる」ということは、ただ自分が健やかに、幸せに生きることではなく、あなたが誰かに語りかけることによって、人々がみなさんを通して神様の憐れみと救いを受け取ることになるのです。それは、私たちのカヴェナントの三つ目、世界を愛するという生き方です。世界に働きかけるために、私たちの口には真実の言葉が必要なのです。そのことを続けてゆくうちに、もしかするとそれは自分がこの地上に生きている間には実現しないことかもしれませんが、神様が裁きを表してくださることを期待し続けていきたいのです。
アメリカの公民権運動で、奴隷として連れてこられた人々の子孫は、奪われてきた人権を大きく回復しました。今でも差別は根強く続いています。しかしだからと言って、公民権運動を過小評価する人はいません。それは、人々が待ち望んでいた願いに対する、神様が地上に表された裁きの大きな例でした。
この世界の様々な問題に、イエスがどのような思いを持って見ておられるのか想像してみましょう。私たち自身の生活について、イエスは保証してくださっています。私たちは決して、たった一人で誰の助けもなく問題に飲み込まれてしまうことはありません。主イエスがおられ、ここにイエスの体が存在するからです。だから私たちは主の言葉に信頼を置いて、真実の言葉を発し続けることができるのです。
ユアチャーチのウェブサイトに書かれている言葉を紹介します。
「私たちはオープンで肯定的な教会です。 私たちは、礼拝に参加すること、メンバーになること、リーダーシップの一員となることについて、性自認、性表現、性指向、年齢、人種、民族性、信仰の背景、身体的および精神的能力、婚歴、政治・社会・経済的地位などを理由に拒まず、あらゆる人々を歓迎します。あなたが誰であろうと、人生のスピリチュアルな旅のどこにいても、あなたを歓迎いたします。」 ここに上げられているような理由で、権利を制限されたり、差別されたり、迫害される人がいるなら、イエスはその人の側にいると思います。ですから、そのイエスと共にいるために真実の言葉を用い、真実の道を歩みたいのです。
私たちの一人一人は同じことを語る必要はありません。自分がどのようなことに取り組むかは、みな違います。池田牧師の中心的な関心事と私の中心的な関心事も違います。また、近隣には、入国管理事務所で非人道的な扱いを受けている人々の支援をされている牧師もいれば、経済的に困難な家庭の子どもたちのために、こども食堂に取り組んでいる教会もあります。
B. 自由を与える律法? (44-48)
44 あなたの律法 を常に守ります 代々とこしえまでも。
45 私は自由に歩みます。
あなたの諭し を尋ね求めているからです。
46 あなたの定め を王たちの前でも話します。
何ら恥じることはありません。
47 私はあなたの戒め を愛し、喜びとします。
48 私はあなたの戒め を愛し
それに向かって両手を上げ
あなたの掟 に思いを巡らします。
1. キリスト者の自由 (44-46, 1コリント 9:19)
45節に「私は自由に歩む」と出てきます。その直前の節の「あなたの律法を常に守ります 代々とこしえまでも」と矛盾するように感じませんでしたか?本当に律法を守るということと、自分が自由に生きることは矛盾しないばかりか、同じことなのだということをこの部分から学びたいと思います。
私たちもその一部であるプロテスタント教会の出発点は約500年前に起きた「宗教改革」です。1517年、当時カトリック教会の司祭であり、大学教授でもあったマルティン・ルターにより宗教改革は始まりました。その改革3年目に、ルターは「キリスト者の自由」という本を著しました。大著ではありませんが、宗教改革の意味を伝える「宗教改革三大文書」の一つです。
その冒頭には「キリスト者は、あらゆるもの、最も自由な主であって、何ものにも隷属していない。キリスト者は、あらゆるもの、最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している」という一見矛盾した二つの文が並んでいます。ルターの念頭には、コリント人への第一の手紙の中でパウロが言っていた
「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです。」 という言葉があったと思われます。
一般的に用いられる自由と聖書の教える自由には決定的に違うことがあります。一般的感覚では、自由とは何かからの自由でしょう。けれども、聖書の教える自由は神様に向かう自由なのです。何かからの自由は、そこから自由になった途端に別の何かが、さらに別の何かが出てきて際限なく新たな不自由に直面して、いつまでも決して本当に自由にはなれません。
しかし、神様に向かう自由は ”何かからの” 自由とは異なります。私たちの自由が、神様に”向かう”自由である以上、私たちはいつも途上にあります。その歩みの中では、時にはまとわりついてくるような不自由を振り払いながら進むこともあります。時には、先にお話しした「真実の言葉を口にすること」をやめてしまう方が、楽に生きることができるのではないかと思えます。46節にあるように、私たちは彼らと対等な自由な者として、王(権力者)にも、ちょうど旧約聖書の預言者たちのように、必要なら物申すことを神様から期待されています。そして私たちは、預言者たちが王を諌めた時にどのような労苦を身に負ったかも知っています。それほどに、”自由な”僕として人々に仕えることは簡単ではありません。その力はどこからくるのでしょうか?その答えが残る二つの節に記されています。もう一度読んでみましょう。
2. 心から捧げる礼拝 (47,48)
私はあなたの戒め を愛し、喜びとします。 私はあなたの戒め を愛し それに向かって両手を上げ あなたの掟 に思いを巡らします。
ここに描かれているのは、私たちの捧げる礼拝の本質です。それは、このお話の後で、皆で神様に向かい歌う時のことであり、また私たちがそれぞれに置かれているところにあって、一人で、また誰かと共に捧げるものでもあります。
旧約の民にとって、神様の言葉、戒め、諭しは律法の書に記された言葉でした。しかしそれは誤解され「律法主義」として、人を苦しめるものとして用いられてきました。イエスは神様の言葉を「律法主義」から取り戻し、もう一度、改めて人が神様との繋がりを回復できるように、ご自身が神様の言葉として来られたのです。
ヨハネによる福音書の1章のいくつかの節を読んでみます。
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。
11 言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。
14 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
16 私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。
こうして律法は、「律法主義」という誤用を正され、「良い知らせ(福音)」として、私たちに伝えられたのです。ですから、今を生きる私たちにとって、イエス・キリストを知り、イエスに従って歩むことこそ一番大切な「律法」に従う方法です。そのために礼拝を通して、イエスをもっとよく知り、もっと親しくなってください。
(祈り)神様、イエスとしてきてくださり、あなたに従う者としてくださったことをありがとうございます。どうか、私たちにもあなたの憐れみと救いがリアルなものとして実感することができるように、あなたの聖霊で私たちを満たしてください。私たちを通して、あなたの真実の言葉がこの世界の苦しみの中に、悲しみの中に届きますように、一人一人を用いてください。また私たちがユアチャーチとして多くの人々に神様の言葉をとどけるものとして用いてください。どうか私たちの捧げる礼拝の中で、ご自身を表してください、語りかけてください。感謝して、期待して、主イエスキリストの名前によって祈ります。
メッセージのポイント
ルターは「キリスト者の自由」で、私たちが神様以外の誰にも服さない自由な者であるからこそ、自ら喜んですべての人に仕える僕となられたイエスのように愛することができることを教えてくれています。それこそが神様の言葉を信頼して歩む道、真の意味での”律法主義”です。神様の言葉は、それに自分の解釈を施して人を裁くものではなく、自分が信頼して人々に自由に仕えるものです。だから礼拝を捧げることは、この壊れやすい私たちの神様の言葉への信頼を堅く整えるために大切な営みなのです。
話し合いのために
- 憐れみと救いをどのように実感していますか?
- なぜイエスに従うことが自由なことなのですか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
子供たちにとって、神様の言葉に信頼するとはどのようなことなのでしょうか?それは子供たちには理屈ではわからないことです。両親の歩みが、礼拝と祈りによって支えられていることを見る以外に実感することはできないことです。
子供たちに、この箇所から伝えたいことは、良いことは親や先生など、誰かに言われてすることではなく、神様に教えられて、強いられてではなく、自発的にすることだということです。イエス様は怖くて、厳しい先生ではなく、優しく話をよく聞いてくださる方であることを伝えましょう。イエス様の物語(福音書)を読むこと、祈る習慣を持つことをが大切です。