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ז (ザイン) あなたの仰せが私を生かす
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 7/22
詩編119:49-56
永原アンディ
律法への賛歌と呼ばれる詩編119編のシリーズ7回目は、7つ目の段落、各行の初めにヘブライ語のアルファベット7番目の字、”ザイン”が各節の初めに置かれた49-56節を取り上げます。文字の名前はヘブライ語で武器を意味する語(זין zayin)と同じです。
1. 苦しみの中の慰め (49, 50, 52)
49 あなたの僕への言葉 を思い起こしてください。
あなたはそれを待ち望むようにされたのです。
50 あなたの仰せ が私を生かす。
これこそが、この苦しみの中の慰めです。
52 主よ、あなたのいにしえよりの裁き を思い起こし
私は慰められました。
もしイエスが目の前におられて、今のあなたの状況をご覧になったら、どのような言葉をかけてくださるか想像できますか?この目では見えず、この耳では聞こえないイエスの語りかけですが、イエスが私たちの心に語りかけて下さることを私たちは知っています。
けれどもわたしたちは大きな苦しみの中で、心の耳が閉ざされたような状態になりやすい者です。詩人も、神様が自分にかける言葉を忘れてしまっているように感じているようです。 そこで、詩人は「あなたが私に、あなたの言葉を聞くように言われたのに、なぜ語りかけてくださらないのですか」と懸命に神様に向かって呼びかけています。 詩人は神様の言葉が人を生かすということを知っていました。神様の言葉に飢えていたのです。
イエスは悪魔の試みにあった時に、申命記8:3を引用して「『人はパンだけで生きるものではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある。」と言って悪魔の誘惑を退けました。もちろん生命を維持するためにパンは必要です。しかし、体の栄養が足りているだけでは、人が生きているとは言えないのです。 特に苦しみの中にあっては、衣食住が足りていても魂は衰弱していきます。
イスラエルの民は、いつの時代も周りを強国に囲まれていたので、民族としての苦難も多く経験してきました。しかし、それらの経験を通して神様の導き、憐れみを体験してきたので、彼らは神様は決して民を見放すことはなく導いていてくださるという信仰を持ち続けてきました。
私自身が70年近く生きてきた中で、神様の助けなしにここまで来ることはできなかったとよく思います。新しい試練が目の前に立ちはだかっても、以前にどのようにしてそのようなところから、立ち上がり進んで来られたかを思い起こして、前進することが容易になって来たのは、恵みの経験が積み重なって来たからだと思います。皆さんも、詩人が、そして多くのキリスト者が受けて来た慰めを神様から受けることができます。それは、耳を澄ませて聞き、聞き従おうという皆さんの意思にかかっています。
51節と53節にはそれとは正反対の生き方が描かれています。読んでみましょう。
2. 対照的なふたつの道 (51, 53)
51 傲慢な者らは私をひどく嘲笑いましたが
私はあなたの律法 から離れませんでした。
53 悪しき者どものゆえに
燃える怒りが私を捕らえました。
彼らはあなたの律法 を捨て去る者です。
傲慢な者、悪しき者と表現されている人々がどのような悪を働くかは様々です。目に見えるそのような人々の行動は心の思い・意志の結果が目に見える形で現れたものです。しかし問題の本質はそこではないのです。何度かお話しして来たように、クリスチャンの中には誤解している人も多いのですが、神様の関心は人の行為ではありません。そうではなくその人の心の向きなのです。
神様が一人の人「イエス」として来られた時代、イスラエルの社会は、このことを誤解して、心より行動に目を向け、人のありさまについて、あれは罪、これは罪でない、こう行動すれば罪とは認められないと判断するような状態でした。イエスはそのような宗教指導者たちの態度を批判し、律法主義と言って非難しました。
私がイエスに従う決心をした頃、多くの教会で飲酒や喫煙は罪であってクリスチャンとして避けるべきであると教えられていました。私は「イエスは水をワインに変えた方なのになあ」と思ったものでした。タバコに関して言えば、イエスの時代には存在しなかったもので、それらの習慣が罪である訳がありません。今ではそのようなことを教える教会はずっと少なくなりましたが、代わりに、やはり聖書の書かれた時代にはなかった概念である、同性愛やトランスジェンダー(体の性と心の性が一致しないこと)などが罪だという声が一部の教会で広がっています。罪は内心の向きだとお話ししましたが、性自認、性的指向は、”持って生まれた感覚”であって、神様に背を向けるという意志、心の向きではありませんから、罪であるはずがないのです。
行いやその人の在り方の正邪の判断は、その時代、地域の文化に影響を受けるので普遍的なものにはなり得ません。聖書がいうところの罪とは、そのようなものではなく普遍的な「神様に背を向けようとする私たち全てが共通して持つ性質」なのです。
内心の自己中心的な独善的な性質が行動にも現れて人々や社会を脅かすのか、それともそのような性質を持ちながらも、人間関係の中で神様の栄光を表すのか、私たちはそのどちらかを選び取ることができるのです。言い換えればそれは、神様の言葉に聞き従うという道と、それを心に留めることなく自分の欲望に従って生きるという道です。
それでは最後に残りの部分を読んで、どうしたら、その心の向きを正しく保つことができるのをお話しします。
3. 「あなたの掟は私の歌」 (54-56)
54 この仮の宿では
あなたの掟 が私の歌でした。
55 主よ、夜に御名を思い起こし
あなたの律法 を守りました。
56 あなたの諭し に従う
これこそが私に与えられたことでした。
このところ必ず礼拝の大切さにふれる話になるのですが、この詩編が繰り返しているのですから、私の意図ではなく、神様が私たちにそれを聞くべきだと思っておられるのだと言うことをご理解ください。やはり心の向きを正しく保つための鍵は、「礼拝を全ての物事に増して大切にすること」なのです。
聖書は私たちのこの地上での生活をよく「旅」と表現します。別の言い方をすれば「仮の宿」です。たとえ立派な住宅を所有していたとしても仮の宿なのです。なんらかの理由で仮住まいを経験されてことのある人は、その心細さをよくご存知だと思います。
私たちのこの地上での生活はそのようなものなのです。そしてそのことはイエス自身も感じられていたことでした。イエスの「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 (マタイ8:20, ルカ 9:58)という言葉が記録されています。 この世の歩みの中で覚える焦燥感や虚しさは錯覚ではありません。置かれている状況に対する理にかなった感覚です。大切なことは、それを何か別のことを考えたりしたりすることで誤魔化してはいけないということです。仕事や学び、趣味に打ち込んでも、その焦燥感や虚しさをなくすことはできません。しかしそれにもかかわらず、私たちが前に進んでいくことができるように神様がしてくださったのです。
皆さんは心細い夜道を歌を歌いながら歩いた経験はないでしょうか? 神様の律法・諭しは私たちの心に触れて、私たちの口から溢れ出す歌となります。 どうぞ今朝も、これから献げる礼拝と賛美によって、自分の心の方向をしっかりと定めてください。
(祈り)主よ、どうぞ一人一人の心に今朝、語りかけてください。また、この一週間の歩みの中でも語りかけてください。あなたからの呼びかけに気づけますように、私たちの心を整えてください。私たちがこの地上での歩みを、あなたと進む旅であることを覚え、はかないもの、虚しいものに心を奪われることなく歩み通すことができるように必要な力を与えてください。
癒しを求める者に癒しを、慰めが必要な者には慰めをお与えください。
私たちの心にあなたの愛を満たして、私たちの口ずさむ歌としてください。
主イエス・キリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
苦難の中にあってそれに耐え、希望を失わずに人生を歩み続けることができるのはイエスが絶えず私たちの心に語りかけていて下さるからです。 その声を聞こうとするのか、無視するのかで人生の歩みは正反対の方向を目指すことになります。神様の声を頼りにその方向に近づいていくとき、神様の語りかけが私たちの心に宿り、私たちの口から出る歌となります。それが私たちの礼拝です。
話し合いのために
- 苦難の中で、神様からの慰めを受けた経験をシェアしてください
- 今、神様に伝えたい気持ちに一番近いワーシップソングは?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
大人の悩みに答えて下さる神様は、子供の悩みにも答えてくださいます。この詩を易しい言葉におきかえて読んであげてください。イエスが目の前にいてくださったら、どんな声をかけて下さるか想像させてみましょう。「大丈夫」「私が一緒にいる」、また自分はイエス様にどんなことを言うかも聞いてみましょう。イエスは見えないけれど、本当にそばにいて下さることを伝えてください。