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ט(テト) あなたは善い方、善いことをなさる方
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 9/22
詩編119:65-72
永原アンディ
律法への賛歌と呼ばれる詩編119編のシリーズ9回目は、9つ目の段落、各行の初めにヘブライ語のアルファベット9番目の字、“ט(テト・Teth)”が各節の初めに置かれた65-72節を取り上げます。
この文字の起源は明らかでないのですが、学者の中には紡錘(糸を紡ぐ道具)を描いた文字に由来すると推測する人もいます。
いつものように読み進めていきましょう。
1. 主は善い方 (65-68)
65 主よ、あなたは御言葉 のとおりに
僕によくしてくださいました。
66 優れた分別と知識を私に教えてください。
私はあなたの戒め を信じています。
67 苦しみに遭う前、私は迷っていました。
しかし今は、あなたの仰せ を守っています。
68 あなたは善い方、善いことをなさる方。
あなたの掟 を教えてください。
詩人は「主は私によくして下さる良い方」と言っていますが、今日はまず、この「主」という言葉について考えることから始めたいと思います。
私たちはイエスを主と呼びます。神様がイエスとしてこられる以前の旧約聖書の時代でも、人々は神様を主と呼びました。
旧約聖書の時代の人々は、神様がモーセに告げた(出3:14)ヤーウェ(「私は在る・I AM」という意味)という呼び名をみだりに口にすべきではないと考え、主人という意味のアドナイと言い換えて用いました。そしてのちにギリシャ語に訳された旧約聖書では、新約聖書で、主イエスというときに使われる「主(キュリオス)」が用いられました。
これは日本人の、日本語での呼び方についてなのですが、妻という立場の皆さんにお聞きしたいのですが、皆さんは皆さんの夫を「主人」と呼びますか?今や内実は伴わないとしても、妻が夫を「主人」とよぶことはまだ少なくありません。また、若い人でも妻を「嫁」と呼ぶ人がいますが、どちらも元々は男性の側の家に所属するものになるということでした。
聖書の表現も書かれた時代や文化の制約を受けることを免れませんが、聖書の伝える事柄の核心は、ただイエスとしてご自身を表された神様のみが究極の“主”であるということです。 新約聖書の時代はローマ帝国の皇帝が神格化されるほど強い権力を持っていましたが、新約聖書はイエスを“主の主”と呼んで“主”はただお一人であることを主張しています(1テモテ6:15 黙17:14、 19:16)。
神様が主であり、私たちは僕であるという聖書の主張に、「私は誰に対しても、神に対しても自由な存在であるはずだ」と反発を覚える人は少なくないでしょう。 しかし誰からも、何からも自由であるということは幻想でしかありません。 人から自由を奪うのは、他人やその人自身の欲望だからです。 そして聖書はそれこそが偶像礼拝の正体であることを見抜いています。
そして神様は支配する者ではありません。そのことは、ご自身が一人の人イエスとしてこの世界に来られて、私たちにはっきりと知らされたのです。 イエスは人々の中でどのように振る舞われたでしょうか?「主」なのに、仕える者としての生涯をつらぬきました。 私たちが本当に自由になるために必要なことは、神様を避けることではなく、イエスを「私の主」と信じることです。
ヨハネによる福音書は、イエスの「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」(8:32)を伝えています。 同じ福音書に記されているイエスの別の言葉。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。 (14:6) と合わせて考えるなら、真理とはイエスご自身とその言葉を指すことが明らかです。 日本の国会図書館のカウンターの上にはこのイエスの言葉から「真理がわれらを自由にする」と日本語とギリシア語で彫られています。
詩人はイエスが来られる前の時代にあっても、神様の言葉、律法の本質は、人を束縛するものではなく人を解放するものであることを知っていました。 戒めの言葉は愛の言葉であったのです。ですから66節にあるように、神様の言葉を学ぶことは束縛されることではなく、自分を解放する優れた分別と知識を得ることなのです。
ところが詩人は67節で意外な告白をしています。「苦しみに遭う前、私は迷っていました。しかし今は、あなたの仰せを守っています。」 神様の言葉を守ることを大切だとは考えられなくなっていたけれど、何らかの苦しみを通して、神様の言葉の大切さを再発見したということでしょう。
ここでわかることは、私たちの神様とその言葉に対する信頼は脆いもので、物事がうまく運んでいるときには特に、私たちは、神様ではなく、自分が主であるかのように思えて本当の主を忘れてしまいやすい者だといういうことです。 しかしそのような状態は決して長くは続きません。頼るべき主が必要だからです。
そして神様ではないものに頼り、その「偶像」が解決してはくれない問題に直面して、詩人はようやく神様に立ち返ることができたと喜んでいます。そして今度こそしっかり神様に聞きながら生きていこうと決心しているのです。
神様は、せっかく解放されたのに自分から不自由な状態に戻ってしまうような私たちに何度でも立ち返るチャンスを与えてくださる善い方です。
次の部分を読んでゆきましょう。
2. 無神経で無感覚な心 (69, 70)
69 傲慢な者らは偽りで私を汚しましたが
私は心を尽くし、あなたの諭し に従います。
70 彼らの心は脂肪に覆われ、鈍くなっています。
私は、あなたの律法 を喜びとします
この部分には私たちを苦しめる者と自分の態度が比較して書かれています。相手は傲慢で、偽りを言い人を貶める者です。 NIVの訳には反映されていないのですが、多くの英語訳、日本語訳では、脂肪に覆われ心が鈍くなっていると表現されています。 NIVの「無神経で無感覚」という訳し方だと、彼らは人に対する言動もひどく無神経で、その上逆に何と言われても全然心に響かないという”強靭なハート”の持ち主なのです。 彼らに対して取るべきあなたの態度は、それぞれの節の後半に書かれています。
私は心を尽くし、あなたの諭しに従います。私は、あなたの律法を喜びとします。
これは、彼らに合わせてやり合う必要はない、相手にしてはいけないということです。 どんなに礼を尽くしても、合理的に説得しようとしても、義を説いても時間の無駄で、さらに反撃されるだけです。取り合わないことが一番有効なのです。
また彼らは、あからさまな攻撃ではなく、一見巧妙に、あなたの益になりそうに思える甘言で陥れようとすることもあるでしょう。「この株は5年持っていれば必ず20%は値上がりします」みたいなセールストークがありますが、本当に20%の値上がりが確実なら、セールスマンは人に勧めずに自分で買うはずです。
ところが私たちの欲望は判断力を鈍らせます。特に、自分の心が67節のように神様と共に歩む道から迷い出ているときには、より簡単に騙されてしまいます。 みなさんは、人を騙してでも利益を得たいなどとは思わないでしょうから、人も皆同じだろうと油断してしまいます。 しかし、残念ながらここに記されているような、自分の利益のためなら人の苦しみ、命でさえ顧みない、無神経で無感覚な人や組織は存在します。
そのような人々には関わらず、善いもので心を満たすために神様の言葉に従い、神様の言葉を喜びとするのです。 神様の言葉を聞いて行うという生活です。それが脂肪で覆われた心の持ち主に対して隙を与えない歩み方です。
最後の2節を読みましょう。
3. 苦しみに遭ったのは良かった? (71-72)
71 苦しみに遭ったのは私には良いことでした。
あなたの掟 を学ぶためでした。
72 あなたの口から出る律法 は私には良いもの。
幾千の金や銀にまさります。
苦しむことを通して神様を知る、離れていたけれど立ち返る。 皆さんが神様を信じて生きていこうと決心したとき、あるいは離れてしまっていたけれど、もう一度神様と共に歩んで行こうと思ったとき、何らかの苦しみ、悩みがきっかけとなったのではありませんか? 神様なしで生きていかれると思っているならわざわざ神様を求めようとは思わないでしょう。
そのような意味で、苦難が自分にとって転機となるのですが、しかし、そこから連想して、苦難は全て反省して正しい道に立ち返させるための神様の試練だと考える必要はありません。 ましてや、誰も人に向かって「あなたの今の苦しみは、良いことに気付くために神様の与えた試練だ」などと言べきではありません。
「苦しみに遭ったのは私には良いことでした」と言えるのは、それを何とか乗り越えられ、それが自分にとって良かったと思える本人だけです。 神様の言葉が金や銀よりもまさって善いものだということは、人から教えてもらうことではありません。 自分が神様と共に歩む中で、自分で見つけて、実感するしかないことなのです。 苦しんでいたり、悩んでいる人に神様の愛を伝えることはできます。 でもそれは言葉による説得ではありません。皆さんの喜びや平安を見てもらうことです。 そのために必要なことは、相手を説得するための聖書の勉強ではありません。自分がいただいた喜びが確かなものであることを実感できる日々の歩みです。
週の初めの日にこの場所に集い、礼拝を捧げるのは聖霊に満たされて週の歩みを始めるためです。 しかし心の燃料を補給できるのは、ここだけではありません。 皆さんは、一週間ごとにガソリンが空っぽになってここに来ているわけではないはずです。 自宅のコンセントでも充電できる電気自動車のように、神様との魂の充電タイムを持つなら、主は善い方ですからその度に心を聖霊で満たして下さいます。 今週も主の霊に満たされて歩み続けましょう。
神様。私たちの心はあなたの言葉、あなたの霊を求めてうえかわいています。 どうぞ、あなたの約束通り、あなたの善いもので私たちの心を満たして下さい。 私たちの捧げる礼拝の中で、私たちの願いに応えて、あなたの霊で満たして下さい。 私たちの内からあなたの善いものがあふれだして、あなたの善いものを必要としている人々に伝わりますように。 どうかあなたの道から迷いだすことがありませんように、私たちを導いて下さい。 感謝してイエスキリストの名前によって祈ります。
メッセージのポイント
「イエスは私の唯一の主です」 イエスは私たちのこの告白を喜んで受け入れ、私たちの導き手となって共に歩んでくださいます。イエスを主と信じることは、あらゆる束縛から解放されて自由となることです。それでも私たちは、その自由を実感できなくなり、イエスと共に歩む道を迷い出してしまうこともあります。しかしそのような道にあっても、立ち帰りたいという思いを与え、引き戻して下さいます。
話し合いのために
- あなたにとってイエスが主であるとはどういう意味ですか?
- どのようなことで神様を求めようと思いましたか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
この詩を一緒に読み、子どもたちに自分が神様を信じようと思ったきっかけを話してあげてください。