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ל (ラメド) 永遠の命の秘密
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 12/22
詩編119:89-96
永原アンディ
律法への賛歌と呼ばれる詩編119編のシリーズ、12回目。ようやく今回から119編の後半に入りました。12回目の今日は、12番目の段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット12番目の字、“ל (ラメド・ Lamedh)”が各節の初めに置かれた89-96節を取り上げます。
これはギリシャ語のλラムダ、英語のLに相当する文字です。この字は家畜を誘導する羊飼いの杖(ヘブライ語:מלמד malmad)を描いた文字に由来すると考えられています。
このところ命について、この詩編から考えさせられることが多いですが、今日の箇所は、イエスご自身の言葉として福音書に多く記録されている「永遠の命」について理解する助けとなるでしょう。
どの福音書も、イエスが「永遠の命」について語られた箇所を記録していますが、特にヨハネが、イエスのこの言葉に強く印象をもったようで、その半分以上は今私たちが学んでいる、ヨハネによる福音書に記録されています。 All of the
今日は「永遠の命」というキーワードを心に留めて、今日の部分を読み進めていきましょう。
1. 天国は空の上ある場所か (89,90)
89 主よ、とこしえに
あなたの言葉は天に堅くとどまっています。
90 あなたのまことは代々に及び
あなたが据えられた地は揺らぐことはありません。
早速、永遠を意味する言葉が出てきます。神様の言葉が永遠だということ。そしてそれは天にあると読めます。一方で、地ではいつまでも、神様の誠実は変わらない。地は存続するというのです。天国はともかく、この世界はガタガタな状態なのではないか?また、詩人の直面している事態も、90節の言葉とは正反対なのではないか?という疑問が私たちの心に浮かぶのではないでしょうか?
しかしそれは私たちの偏見からくる誤解なのです。天とはこの地とは対照的な“場所”ではありません。もしそのように考えるなら、天に固くとどまっている神様の言葉に、この地で生きている限り私たちはアクセスできないことになります。また天国が永遠というのはなんとなくわかるような気がしますが、「神様の誠実によってこの地も滅びない」というなら、私たちの「地」についての感覚も見直す必要がありそうです。
私たちは、詩人の時代の人々に比べて、圧倒的に多くの、目に見えるこの世界についての知識を持っています。しかし実はそれが神様の言葉を理解する妨げになってしまっているのかもしれません。天国というと、この世界にはない「場所」と思ってしまいがちです。永遠というと「天国」に移ってからの終わりのない「時間」と感じてしまいます。その結果、ある人々は、底に水晶や宝石が輝く小川のほとりにある、地上では決して住んだことのない豪華なマンションとか非常に物欲的な想像をめぐらします。忠実な犬はいけるが、気ままな猫はダメとか、まあそれくらい想像するのは自由ですが、人間の想像はとどまるところを知りません。
放っておけばいいのに誰が「行けないのか?」が気になり始めるのです。そして自分とは異質な人を罪人と決めつけて、天国に行けない=地獄行きと言い、天国についてより百倍の熱意で残酷な想像をして、自分のようにならないと酷い目に遭うと脅かします。これはイエスの時代の律法主義そのものですが、現代の教会には、そのように教える人もいます。それはあらゆる宗教の持つ傾向であり限界です。
しかし天国、神の国の意味は地理的なものではありません。「神様の支配」と考えてみてください。この詩にあるように、「神様の支配」は物理的な空間や時間に制約を受けません。私たちが認識している空間も時間も、「神様の支配」の中にあります。私たちは、空間、時間の制約の中に生きていて、その外側については想像するしかありませんが、どうしても身についた、空間的、時間的思考とらわれてしまいがちです。
それに比べると詩人は自由です。目に見える限られた世界での苦境も、神様の支配のうちにあることを信じています。まことしやかに、天国や地獄を語る説教の方が面白いとは思いますが、ごめんなさい、私が言えることは「わからないけれど、神様は決して悪いようにはなさいません。」でしかないのです。
次に91,92節を読みます。
2. 神様の権威のもとにあるこの世界 (91,92)
91 万物はあなたの僕。
あなたの裁き に従って今日も堅く立っています。
92 もしも、あなたの律法 が私の喜びでなかったなら
この苦しみの中で私は滅びたことでしょう。
この部分は90節に続いて、この目に見える世界も確かに永遠の神の国に含まれていることを確認させてくれます。詩人は、人間だけではなく、動物も植物も地球もその他の天体も宇宙も、全ては神様の支配、秩序の中にあると理解しています。もしそうでなければ、こんな苦しみは耐えられなかっただろうと告白しているのです。
同じ神様の被造物である他の人間や、その人間の組織によって苦しめられていても、神様と繋がっていることを喜んでいる人を、神様から引き離すことのできるものはありません。
全ての被造物が神様の秩序に従って堅く立っているのに、ご自身の姿に似せて作られた人間だけが、その秩序に反抗し世界を壊しつつあるのは皮肉なことです。お互いに相手を殺されても仕方のない存在だとみなし、自分と同様に神の似姿に作られた人々をより多く、より効率的に殺す道具を作り続け、売り続け、増やし続け、持ち続けています。対象は人間だけではありません。自然環境も壊し続けてきました。その原動力を聖書は「罪」と呼びます。
それは他者を顧みず自分の欲望を満たそうとする人間の性質です。その意味で罪人でない者は一人もいません。ところが、多くの宗教家は自分の信じる教えにそぐわないことを罪だと教えます。キリスト教であれば、自分の聖書の解釈を物差しに、あれは罪、これは罪と決めつける人々がいます。それは、イエスに非難された宗教家たちと同じことをしているのです。イエスの時代には、その人の階級や職業や経済力や知識によって、指導者たちのに「罪人」とみなされた人々がいました。そしてイエスは、指導者たちが決めつけた「罪人」の友となりました。
ヨハネ以外の福音書では、まず誰かがイエスに、何をしたら「永遠の命」を得ることができるかと問い、イエスは「神様の掟を守ること」だとその人に伝えます。しかしイエスはさらに続けて、どんなに宗教的な修行を積んでも、道徳的に正しく生きても、自分の力で永遠の命を手に入れることができる者はいないことを教えます。そして、その上で「私に従ってきなさい」と勧めます。
3. 私は神様の諭しを決して忘れません (93,94)
93 とこしえにあなたの諭し を忘れません。
それによって私を生かしてくださったのですから。
94 私はあなたのもの。私を救ってください。
あなたの諭し を尋ね求めてきました。
イエスに質問した人たちの根本的な誤解は、何か良いことをすることによって永遠の命が得られる、という考えです。永遠の命は何か良いことをしてもらえるご褒美ではありません。
詩人は、自分を生かしているのは、自分の力でも、偶然でもなく、神様の諭しを聞き続けることだと理解しています。実はそのこと自体が永遠の命なのです。しかしそれは決して容易なことではありません。そのように確信はしていても、置かれている状況は94節の切実な願いでわかるように苦しいものなのです。
まだイエスの来られる前の世界で、神様はこの詩人のような人々をどのように励ましていたのでしょうか?
例えば、神様はイスラエルの大きな変革期の霊的指導者であったサムエルに、彼の少年時代に「主の言葉が臨む」という経験をさせ、生涯にわたってそのような形で彼にご自身を表されました。(サムエル記上3章)イエスが生まれる前にも、神様を信頼しその意思に従って生きようとする人に神様は「言葉・戒め・諭し・掟」を伝えていてくださったのです。
イエスは「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。」( ヨハネ 5:24)と言われました。 また 「よくよく言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」 (6:47) 「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。」(6:54)と言われました。イエスを知っている私たちにとっては、彼を神・主と信じて共に生きるということで「永遠の命」をすでに得ているということです。
「私の肉を食べ、私の血を飲む者」という言葉は、弟子たちにとっても衝撃的な受け入れ難い言葉で、これを聞いて多くの人々が彼を離れ去ったことが記されています。ちょうど今日、この礼拝の後に行う「聖餐式」で、私たちも「イエスの肉を食べ、血を飲」みます。 もちろんそれは、ただイエスが神だと信じるのではなく、イエスの道を、イエスと共に、イエスのように歩むという決心を言い表す、ということの象徴です。これは、私たちは「永遠の命を持っている」という表現でもよいのですが、「永遠の命の中に生かされている」ということでもあるのです。
それでは残りの2節を読みましょう。
4. 永遠の命を生きる (95,96)
95 悪しき者どもは私を滅ぼそうと待ち構えています。
私はあなたの定め を理解します。
96 どれほど完全なものにも、私には終わりが見えます。
あなたの戒め はすべてに及びます。
詩人は自分が神様の永遠のうちに、しかしそこに含まれる「この世界」という限りあるところに生きているということを自覚しています。悪者たちが詩人を殺そうとしていますが、以前お話ししたように、彼らは「体は殺せても“命”を殺すことのできない者たち」です。詩人は彼らが自分に対しては脅威であっても、必ず終わりが来ることを知っています。
目に見えるすべてのものに終わりは来るけれど、神様を愛する人に与えられている「永遠の命」は決して奪われることはないのです。肉体が朽ちたあと、私たちの魂がどうなるのか?それは想像するしかありません。誰にもその秘密は明かされてはいません。けれどもやはりこうは言えるのです。「神様は決して悪いようにはしなさいません。」皆さんが、すでに永遠の命を生きているからです。自身の肉体も、財産も、苦しみも、悲しみも取り去られる時が来ます。しかし、永遠の命は決して取り去られません。イエスが、永遠の命とは何かと簡潔に述べている箇所があります。その言葉を読んで今日のお話を閉じたいと思います。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 」 – イエス・キリスト (ヨハネ 17:3)
(祈り)
神様、あなたの言葉が及ばない場所も時もなく永遠であることを感謝します。私を苦しめる物事もあなたの手に余ることは一つもありません。
私たちの理解を超えて、愛し、憐んでいてくださることをありがとうございます。 一人一人に最善を与えてくださる恵みを忘れません。 どうぞ、あなたと共に歩み続けさせてください。苦しみの中にある者に、あなたの慰めが深くありますように。あなたの言葉によって、癒し、立ち上がらせ、歩み出させてください。
イエスキリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
イエスキリストを神・主と信じ、彼に従って歩むことは、決してなくなることのない永遠の神様の命の内に生かされているということです。「天国」「神の国」という聖書の表現は来世に備えられている特定の場所のようなものではありません。イエスと共に歩む人にすでに与えられていて、肉体の死によって取り去られることのない永遠の神様との関係です。 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 」 – イエス・キリスト (ヨハネ 17:3)
話し合いのために
- 天国はどこにあると思いますか?
- 「永遠の命」とは何ですか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
子供達にとっては抽象的で把握しにくい事柄です。肉体の死に関してでさえ、なかなか実感を伴って理解することは困難です。それでも、物が壊れること、植物が枯れること、ペットがいなくなってしまうこと、有名な人が亡くなってニュースになることなどを通して、この世界のすべてに限りがあることはわかるでしょう。肉体には終わりはある、しかし魂は滅びない、イエスと共に、そしてイエスと共にいる人々とも共にいることができる希望を伝えてください。