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מ(メム) 蜜より甘い完全食品
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 13/22
詩編119:97-104
永原アンディ
律法への賛歌と呼ばれる詩編119編のシリーズ、13回目です。13回目の今日は、13番目の段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット13番目の字、“מ(メム)”が各節の初めに置かれた97-104節を取り上げます。
メムはギリシャ語のΜμミュー、英語のMに相当する文字です。 この字は水(ヘブライ語: מים mayim)に由来すると考えられています。 出エジプトの体験を持つ民にとって、東アジアに住む私たちには想像のつかないほど水を得ることは重要なことでした。 水は人が生きるために不可欠なもので、そのことから神様はご自身が人にとって命の水の泉であると預言者エレミヤを通して語っています。 しかし、水はそれ自体に栄養があるわけではありません。 水だけをとっていたのではやはり肉体を維持することができません。 呼吸によって酸素を、食事によって栄養素をとらなければなりません。 私たちの魂にも栄養が必要です。
水の話から始めましたが、今日お話ししたいのは、魂にとっての食べ物のことなのです。みなさんはこのことについてイエスがどうおっしゃたことを覚えていますか?
すると、試みる者が近づいて来てイエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある。」
イエスは申命記8:3を引用して言われました。 つまり旧約の時代でも、律法の本質は宗教的な戒律なのではなく、むしろ神様からの呼びかけ、語りかけだと考えられていたわけです。 今このシリーズを通して私たちが学んでいることは福音と律法は対立するものではなく、むしろ人間の解釈で生まれた律法主義が律法に反するものなのだということです。 それは私たちが福音を聞いているつもりでも福音からかけ離れてしまう恐れがあるということでもあります。 私たちはどのようにして、詩人のように神様の言葉にとどまり続けることができるでしょうか?
1. 神様の戒めは私たちを敵より賢くする (97, 98)
97 どれほどあなたの律法を愛していることでしょう。
日夜、それに思いを巡らします。
98 あなたの戒めは私を敵よりも賢くします。
とこしえにそれは私のものです。
律法に従うではなく、律法を愛すると詩人は言います。 愛は自発的な態度です。罰を恐れて守らなければならないようなものではありません。
いつの時代も周りを強国に囲まれていたイスラエルにとって、語りかけてくださる神様の存在はかけがえのないものでした。 国土を失い、世界中に散らされ、ひどい迫害を受け、今でも偏見は消えませんが、その言葉に守られ生かされてきました。 それは私たちにとってはイエスとその言葉です。 周囲のほとんどの人々に理解されず、受け入れてもらえなくても、イエスの言葉は私たちを立ち上がらせ、歩み続けさせる力です。
クリスチャンとは、キリスト教会のメンバーのことでしょうか? 聖書を神の言葉と信じる人のことでしょうか? それも間違いではないでしょう。
でももっと本質的な定義は「イエス・キリストの言葉に生かされて人生を歩む人」です。それだけで大丈夫なのです。 才能に問題があっても、健康に問題があっても、経済的な問題があっても、それがどのような問題であっても、イエスが私たちに語りかけてくださる言葉を聞きつつ歩むなら、私たちは無敵です。
2. 神様の定めは私たちを師より悟りある者とする (99, 100)
99 あらゆる師にもまさり 私は悟りある者となりました。
あなたの定めに思いを巡らしているからです。
100 私には老人にまさる分別があります。
あなたの諭しに従ってきたからです。
宗教改革でなされた反省のひとつは、個人と神様との間に、教会や教職者が中間的な権威となってしまい、個人と神様との直接的なつながりを妨げるようになってしまったという点でした。 誰かから学ぶことは大切です。しかし、どんなに偉大な教師であっても、神様の権威を帯びて人の上に立つことはできません。 人間の組織としての教会は、そのような権威を作ってしまいがちです。
もちろん人から聞くことを軽んじてはいけません。なぜなら、神様との交流に際して一切の他者の存在を否定すれば、神様の言葉を受け取っているつもりで、自分の思いをその中に混入させてしまいやすいからです。
この傾向はキリスト教だけではなくどのような宗教にもあることですが「神秘主義」と呼ばれる態度です。 もし神秘主義が正しければ、教会は不要なものになります。 けれども、イエスはあの私たちと同様な人間的な弱さを持ったペトロに教会を始めなさいと命じました。
それでは教会やその教職者が、私たちと神様の間に割り込む権威のようなものにならず、その一方で私たちが自分勝手な「神秘主義」に陥らないためにはどうしたら良いのでしょうか? 宗教改革というとドイツのルターが有名ですが、同じようにスイス・ジュネーブで宗教改革を担ったジャン・カルヴァンという人がいます。 彼の改革から始まった教会は、今の改革派教会とか長老教会と呼ばれる教派です。 その在り方から一番学ぶべきことは、「私たちが改革し続ける教会でなければならない」という考え方だと私は思っています。
それは元あった姿からどんどん離れていくという意味ではありません。 そうではなく、私たちは注意しないとどんどん変質してしまう傾向があるので、むしろ原点を忘れず、本来あるべき姿に向かう努力をし続けようということなのです。
この数年、コロナウイルスによって教会の様子はずいぶん変わりましたが、教会の本質が変わってしまったのではありません。 使徒信条でもニカイア信条でも告白されている「教会を信じます」とはどのような意味で言われているのでしょうか? それは、私たちが互いに愛し合う教会であるためにどのようであるべきか?という問いです。
イエスを頭として互いにつながり合う体であるなら、優劣も貴賤も年齢も性別も性的指向も性自認も関係なく、互いにイエスを見上げて歩むことにおいて励まし合い、助け合う大きな家族です。 だから私たちを牧師を聖職者などとはもちろん先生とも呼ばない教会なのです。
3. 神様の言葉: 蜜より甘い完全食品 (100-104)
101 あなたの言葉を守るために
どのような悪の道にも足を踏み入れません。
102 あなたの裁きから離れません。
私に教えてくださるのはあなただからです。
103 あなたの仰せは口の中でなんと甘いのでしょう。
私の口には蜜にもまさります。
104 あなたの諭しから私は分別を得ます。
それゆえ、偽りの道はいずれも憎みます。
律法を戒律として理解すると、その本質を見失うことになります。 詩人の「どのような悪の道にも足を踏み入れません」「あなたの裁きから離れません」という言葉は、神様の与えたルールを守って罰せられないように生きることを勧めているように思われがちですが、詩人が語っているのは、日々の神様との豊かな交流の中でのやり取りです。 詩人に「守りたい」と言わせるのは、彼の神様に対する恐怖ではなく、愛と信頼なのです。
イエスが生まれる600年位前の預言者エゼキエルが預言者として神様に立てられるときにこのような幻を見せられました読んでみましょう。
1 主は私に言われた。「人の子よ、あなたが見つけたものを食べなさい。この巻物を食べ、行って、イスラエルの家に語りなさい。」2 私が口を開けると、主は私にその巻物を食べさせ、3 言われた。「人の子よ、私が与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たしなさい。」私がそれを食べると、口の中で蜜のように甘かった。
蜜は聖書、特に旧約聖書の中に多く出てくる食品です。 民がエジプトを脱出して長い時間がかかって到達したカナンは「乳と蜜の流れる地」と表現されました。バプテスマのヨハネはバッタと蜜を食べる人と紹介されています。 そのほかにも蜜に関するエピソードは他の食べ物に優って多く記録されています。 蜜は聖書の物語の舞台となった地域では貴重な糖分であったばかりか多くのミネラルを含む栄養食でした。 それは、私たちの心の健康を保ち、成長させる神様の言葉に最も相応しい比喩だと思います。 孔子は「良薬は口に苦し」と言いました。 そのことわざは多くの場合、的を射ていますが、神様の言葉はそれには当てはまらないようです。
もうよくお分かりだと思いますが、神様の言葉とは聖書のことだけを指すわけではなく、心に語りかけられたり、誰かを通して語りかけられたりするものです。
そしてどのような形であれ、それを受け取ることは難しくないばかりか、心地よいものなのです。 苦いけれど、我慢して飲み込むようなものではありません。期待して待つとき、心に染み込んでくるものです。
それを体験するいちばんの機会は礼拝です。この後、神様に向かって心からの礼拝を捧げていく中で体験できることです。 どうぞ今朝も蜜のように甘い完全食品「神様の言葉」を礼拝の中で受け取り、生きる力としてください。
(祈り)
神様、あなたがいつでも語りかけていてくださることをありがとうございます。 私たちの人生の中に、あなたがいてくださることをありがとうございます。 私たちの魂はあなたの言葉によって、慰められ、癒され、強められ、喜びに満たされます。 満たされ、溢れ出し、互いを癒やし生かすことから始まり、この世界に広がっていくことを信じます。 そのためにどうぞまず私たち一人一人をあなたの言葉で満たし、喜びで満たしてください。
あなたに感謝し、期待して、イエスキリストの名前によって祈ります。
メッセージのポイント
律法の本質は神様の語りかけであって、宗教的戒律ではありません。神様の語りかけは聖書を通して、メッセージを通して、誰かの言葉を通して、あるいは直接、私たちの心に届きます。この語りかけに応答してゆくという生き方が人を強く賢くします。神様の語りかけを聞くために必要なことは、ただ聞こうとする意思だけです。
話し合いのために
- 律法主義とはどのようなものですか?
- 律法と福音との関係をどう説明しますか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)
一緒に読んでから、敵よりも賢くなる、先生方や年長者よりも悟りある者になれる?可能性について話し合ってみましょう。それが勉強やスポーツを頑張る、言いつけを守るといったことからではなく、神様への信頼、イエス様との近さにあること、だから親・保護者は礼拝すること、祈ること、聖書を読むこと、イエスの働きを担っていることを知ってもらってください。