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最後の晩餐への招待
マルコ14:22-25, ヨハネ13:3-8, 12-15 (マタイ26:26-30, ルカ22:14-20, 1コリント11:23-26)
永原アンディ
受難週の第一日目、シュロの日曜日です。毎年、この週の過ごし方についてお話しすることが多いのですが、今日はイエスが十字架に付けられた前日の出来事についてお話しします。聖書に書かれている今週の一つ一つの出来事を順を追って毎日読みたい方は、教会のウェブサイトで2021年の棕櫚の日曜日のメッセージをご覧ください。今日取り上げるエピソードは、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵で有名な「最後の晩餐」です。
実は、この時代に生きていなかったみなさんもこの食事に招待されていたのです。なぜなら、最後の晩餐は最初の聖餐式だったからです。イエスはこの食事を聖餐式として世の終わりまで続けなさいと弟子たちに命じました。そして私たちは、ちょうど今朝もこの聖餐に与るのです。
A. 最後の晩餐は最初の聖餐式 (マルコ14:22-25)
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これは私の体である。」また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与えられた。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(マルコ14:22-25)
マルコはこのように簡潔に描写していますが、ルカはイエスが「苦しみを受ける前に、あなた方と共に、この過越の食事したいと、私は切に願っていた」と言ってこの晩餐会の初めたことを記録しています。なぜイエスが最後の晩餐・最初の聖餐式を弟子たちと共にすることを切望したのかを考えてゆきましょう。
1. 十字架と復活への心の準備をさせるため
十字架の出来事が過越と呼ばれたユダヤ教の祭りの時にあった、という事から考えてゆきましょう。過越はユダヤ人にとって重要な祭りの一つです。民族全体が奴隷のような状態に置かれていたエジプトから救い出されたことを神様に感謝する祭りです。出エジプト記12章にその出来事が記録されています。
神様が民をエジプトから導き出す時、頑なにユダヤ人を解放しようとしないエジプトに多くの災いが起こりました。それでもユダヤ人を解放しようとしないエジプトに恐ろしい最後の災いが起こります。その時、神様はユダヤの民に、傷のない1才の雄羊を屠り、その肉を食べると同時にその血を家の扉の枠に塗ることを命じられました。塗られた子羊の血のしるしによって、エジプトを襲った災いは、そのしるしのあるユダヤ人の家を過ぎ越していきました。それが過越の名前の由来です。
神様はこの出来事をやがてなされるキリストの血による完全な犠牲の前触れとして表されました。十字架の出来事は、すべての人のための過越の最終形、完成形として表されたのです。それは動物の犠牲ではなく、神様ご自身の苦しみとして表されました。神様御自身が人として歩まれ,すべての人の犠牲となって命を与えられました。エジプトのユダヤ人は家の門の柱や鴨居に子羊の血を塗ることによって難を逃れました。私たちは、十字架の上でなされたイエスの尊い犠牲によって守られる者なのです。
過越はユダヤ人の信仰の原点ですが、十字架はイエスを信じる信仰の原点です。私たちは新しい命の原点を確認するために、聖餐を守りつづけるのです。そのことを弟子たちにしっかりと伝えるために、イエスはこの最後の晩餐/最初の聖餐式を十字架の出来事の前になさったのです。
2. イエスが聖餐で教えたかったこと
a. 赦されていること、救われていることへの確信
イエスが聖餐に込められた願いの一つは「赦されていること、救われていることを確信させる」ことです。私たちに十字架という惨い事件の本当の意味を知ってほしいと望まれたのです。つまりそれは、私たちがイエスの流された血、裂かれた体が自分の罪の赦しのためであったと信じるということです。
一人一人の罪の赦しの根拠はここにあります。神様の家族、子供たちとして生かされている根拠はここにあるのです。
私たちは、イエスの教えを道徳的に守ることで赦されているのではありません。癒しをして下さるとか、経済的に祝福してくださる方だと信じるから神の子供とされているわけでもありません。ただイエスが神様だと信じることでは足りないのです。私たちが信じるべきことは、イエス御自身が私たちの罪の赦しのために血を流され、肉を裂かれ、命さえ失うことを惜しまれなかったということです。
私たちは、自分のために流された血、裂かれた体をおぼえて聖餐に預かります。それは私たちが生涯、自分の原点である十字架の意味を心に留め、まだそれに気付いていない人々に伝えるためです。
b. 教会とは何かということ
イエスが伝えたかった第二のことは、<教会>という十字架後のご自身の在り方についてです。十字架の出来事のあともイエスは教会として、信じる者たちと共におられます。教会が『キリストの体』といわれる所以です。
私たちは聖餐に与るとき、自分がキリストの体<教会>の一部として生かされていること、イエス・キリストの目に見える体の一部であることを自覚するのです。それは、共同体の中で守られていること(聖い交わり)、この社会の中でイエスに従う者が力をあわせてイエスの働きを行い続けるということの根拠です。
c. 信じる者の生き方の原点
イエスの聖餐にこめられた第三の願いは、私たちが今どのような者として生かされているかを知ってほしいということです。それは、まだ主の戦いが続いているこの世の歩みの中で、労苦をいとわないという生き方の決意です。その決意を、聖餐に与るごとに新たにしてほしいとイエスは願っています。私たちはあの出来事で、新しい命を与えられただけではなく、キリストと共に十字架につけられ苦しむ者でもあるのです。イエスはこう言われました。
「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。(マタイ11:28‐30)
私たちにとって、重荷を下ろして休むことがゴールではありません。そうではなく、担うべき正しい荷物を負って歩むことができるようになることがゴールです。聖餐に与るとき、私たちは、あの十字架で流された主の血が私たちの内に注がれ、満たされていることを知ります。そして、私たちの内に働くイエスの霊・聖霊の存在を確信させ、私達を神様のために労苦をいとわない者に変えるのです。
B. 洗足 (ヨハネ13:3-8, 12-15)
さて、なぜか共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカによる福音書は沈黙しているのですが、この食事の中でイエスは今まで誰もしたことのなかったことをしたことをヨハネによる福音書だけが伝えています。先週、池田牧師が話してくれたように、ヨハネの独特な視点は、私たちがイエスの福音をより正確に理解することをとてもよく助けてくれます。さてここまで、私たちにとっての聖餐の意味を考えてきましたが、ヨハネが記録しているイエスの行動は、私たちにとって聖餐の意味が単なる知識や記憶にとどまらず、私たちの実践となることをイエスが期待されていたことを示しています。
それがどのようなことだったのか読んでみましょう。
1. 主が弟子の足を洗う (ヨハネ13:3-8)
イエスは、父がすべてをご自分の手に委ねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭いを取って腰に巻かれた。それから、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭いで拭き始められた。シモン・ペトロのところに来られると、ペトロは、「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」とお答えになった。(ヨハネ13:3-11)
足を洗うのは、奴隷や召使が主人にするべきことであって、その反対では決してありません。だからイエスが晩餐の席から突然立ち上がり、上着を脱いで、手拭いを腰に巻くというまさに召使のような格好で弟子たちの足を洗い始めたると、彼らは何が起こっているのか理解できずに、なすがままにされていました。
自分の番となるまでには少し余裕があったペトロは、皆の疑問を代表してイエスに尋ねることができました。イエスはそれが弟子たちには理解できないほど突飛なことであること認め、それでも「後でわかるようになる」とペトロに答えましたが、ペトロは常識にとらわれて拒絶したのです。
ペトロは私たちの弱点を代表してくれています。彼は以前、イエスの受難の予告を否定して叱られたことがありました。その時、イエスは彼の常識を叱られたのです。イエスは私たちの大人ぶった常識によって誰かが虐げられ続けることを嫌われ、悲しまれ、怒る方であったことを、先週私たちは学びました。イエスは例えば性別によって、性自認によって、性指向によって、身分によってなされる差別を我慢しなさいと言われるでしょうか?銃によって人が死に続けることや、戦争がなくならないことを、尊い”自由”の代償として我慢しなさいと言われるでしょうか?イエスはみなさんが考える以上にラディカルな方だと私は思います。
そこで、ペトロに対するイエスの返事に注目してください。「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」つまり「主であり師であるイエスが僕の態度をとることを認められないなら、あなたは私の弟子ではない」ということです。ペトロの「私の足など、決して洗わないでください」という言葉は、謙遜しているように聞こえますが、実はイエスの在り方は認められないという否定です。またそれは、自分がイエスのように生きる、人の僕として生きることへの否定なのです。これが私たちに問われていることです。あの晩餐に私たちが招かれていたというのは、つまりイエスの生き方をするということに招かれているということなのです。
2. 弟子が互いの足を洗う (ヨハネ13:12-15)
さて、イエスは弟子たちの足を拭いて食卓に戻られました。そして、今度は言葉で彼らにこう教えました。
こうしてイエスは弟子たちの足を洗うと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。(12-15)
よくあるリーダーシップセミナーの講師なら、きっと自分でやってみせた後に、はいそれではみなさんも互いに足を洗い合ってみましょうという展開だったと思います。でも、イエスは口で教えるに止めました。もしそういう展開になっていたら足を洗うことも洗礼や聖餐のようなサクラメント(秘蹟)とされていたかもしれません。私はそうならなくて良かったと思います。イエスは宗教的なシンボルや宗教儀式が中身のないものとなり、かえって真理を隠すことになりがちであることを知っておられ、そのようなことにとらわれることを警戒されていました。
洗足が聖餐と決定的に異なるのは、それが実践だからです。それに対して聖餐は礼拝です。イエスの思いを忘れないために行う礼拝の一部としての象徴的な儀式です。しかし洗足は、足を洗うということに象徴される行動原理で日常を生きることなのです。豊かな者がポーズとして実際に、貧しい者の足を洗ってあげることではなく、豊かな者が実際に貧しいものに分け与えて貧しくなることが洗足の本質です。そしてそのことは聖餐に与る者に求められる生き方そのものなのです。
(祈り)神様、このシュロの日曜日の朝、あなたがエルサレムに入られたように私たちの心にお迎えします。私たちが自分勝手な思い込みで自分好みのあなたの偶像を作らず、あなたご自身を王として迎えることができるように、私たちの心を整えてください。今週は、いつもにも増してあなたの十字架の出来事を深く思いながら過ごさせてください。あなたにふさわしく歩むことができるように、あなたの霊で私たちの魂を満たしてください。
イエス・キリストの名前によって祈ります。
メッセージのポイント
イエスが十字架に付けられるまえの最後の晩餐で、私の記念としてこのように行いなさいと命じられて、今私たちが行なっている聖餐式が始まりました。またその晩餐の中で、イエスは、私たちが自分の立場や地位に関わらず、人の僕として生きることを求められました。それがイエスに従う者に相応しい生き方です。
話し合いのために
- ペトロはなぜイエスの申し出を断ろうとしたのでしょう?
- 私たちにとって足を洗い合うとはどのようなことを意味しますか?
子どもたち(保護者)のために
今回は、ヨハネ13:3-8, 12-15の方を取り上げて、この出来事の方を紹介してください。読んでも良いし、お話ししてあげてもいいと思います。そして自分がそこにいてイエスが足を洗ってくださることを想像させてください。また、なぜペトロが断ろうとしたのか、イエスがペトロの断りに対して言った「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」の意味を伝えてください。