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1階:礼拝
メッセージシリーズ ユアチャーチは3階建の家 (1/3) (ローマ人への手紙12:1, ルカ10:38-42)
永原アンディ
今年は、ユアチャーチが始まって30周年です。表面的にはさまざまな変化がありましたが、私たちの教会についての価値観の核心は全く変わっていません。それがユアチャーチカヴェナントにも反映されています。また礼拝の形や活動にも反映されています。
10年前の20周年の時にもユアチャーチの価値観の核心について何人かのリーダーが礼拝でお話ししました。10年前にはいなかった人も多いと思いますので、今日からの3回、ユアチャーチの価値観の核心についてお話ししようと思います。
A. ユアチャーチは3階建の家
1. 1階のない家はない
ユアチャーチを3階建の家だと想像してみてください。1階建で2階や3階がないのは当たり前ですが、2階建で1階のない家はありません。3階建で1階と2階のない家もありません。3階は2階と1階に支えられていて、2階は1階に支えられ、3階をささえています。
では、ユアチャーチにとって、2階と3階を支える1階とはどのようなものなのでしょうか?それは礼拝です。 この1階について今日はお話しします。
2. ユアチャーチカヴェナント
ユアチャーチのメンバーシップは日本の一般的な教会とはかなり違います。ユアチャーチにメンバーになりたい人は、毎年の初めに三つの約束ををします。 それらは、神様と教会の人々への約束であり、世界に向かっての宣言です。
第一の約束は「神様を愛します」です。第二は「互いに愛し合います」、そして第三は「世界を愛します」です。もう気付かれたと思いますが、この約束はユアチャーチの価値観の核心である三つの事柄の優先順位を反映しています。
実はユアチャーチの価値観の核心は教会の名前にも反映されています。『ユアチャーチ』という名前は短いですが、聞いた人が「え?」となって聞きかえすことが多いです。けれども、決してそうやって記憶にフックさせるという戦略的な理由でつけられた名前ではありません。 「私たちは”あなたの”教会です」と言うとき、それは「私たちはあなたのために存在します」という意味です。それはカヴェナントで言えば「あなたを愛します」ということです。人の思いは、何でも自分のために存在すべきだというように自分中心になりがちです。しかし神様は聖書を通して、その考えこそ不幸の根源であり罪であると教えてくださいました。
しかしそのような「愛」が私たちには可能なのでしょうか?この「愛する」という大きな困難を可能にする道筋をつけてくださったのが、先週、復活をお祝いしたイエスです。イエスは、私たちが愛せないのは、神様に背を向けているからだと教えてくださいました。そして彼は、私たちがそのことに気づいて、もう一度神様とつながれるように十字架にかかり、死んで葬られ、復活されたのです。
ユアチャーチのカヴェナントと3階建の構造に従えば、第一のあなたは「神様」です。神様を愛することなしに、互いに愛し合うことはできません。また、神様を知るもの同士が愛し合わないで、どうして世界の人々を愛することができるでしょうか?
そこで今朝は、イエスに従って歩む者にとって最も大切なことについて話したいのです。
B. 1階:礼拝
1. 礼拝再発見(ローマ人への手紙12:1)
こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。
少しここで翻訳について触れておきます。英語の聖書ではほとんどの訳が霊的礼拝となっているのですが、私たちが使っている日本語訳では“理に適った礼拝”となっていてずいぶん違うように思えるかもしれません。 しかし元のギリシャ語はどちらにも訳せる言葉なのです。現代の私たちにとっては霊的なことと合理的は相容れないという偏見を持っていますが、実は霊的であることこそ理に適っているのです。
さて、この節から始まっているローマの信徒への手紙もまた、今日私たちが確認した教会の3階建て構造で描かれています。今日は全体を読む時間がありませんが、どうぞ今週自分で読んで確かめてみてください。
パウロは神様を心から礼拝することを勧めることから書き始めました。礼拝は「自分を神様に生けるいけにえととしてささげる」ことだとパウロは言っています。つまり、そこで私たちは神様に向かって「私はあなたのものです。あなたを愛しています」と告白することです。そのとき神様は、喜んで、私たちの告白を受け入れ、愛していると語りかけてくださいます。
私がイエスを信じたのは1976年のことですが、1985年の夏まで、礼拝は日曜日の朝に守らなければならない信じる者の儀式だとしか思っていませんでした。イエスを信じましたが、彼が親しい、誰よりも近くにいてくださる方だとは思えず、観念的な神様だとしか思えませんでした。その間に、牧師になろうと決心し、神学校を卒業して実際に牧師になってもそうだったのです。当時私が所属していた教会の日曜日は、とても忙しく、毎週ほとんど礼拝の後にミーティングがあり、安息日なのに一週間で一番疲れる日でした。多くの人に来てもらいたいと考え、思いつくままに色々なことを試みていました。 教会にくる人を増やすことが牧師の仕事だと思っていたからです。
しかし、新しい人はほとんどやってこず、一度来ても来なくなる人がほとんどでした。私は疲れ果てていました。
そこで1985年の夏、アメリカの”イケてる”教会をいくつか訪問してヒントをもらうというツアーに参加したのです。しかし”イケてる”教会と自分の教会の現実は違いすぎて、何かを得るどころかほとんど絶望的な気持ちになっていました。
最後に訪問した教会は私の基準から言えば”イケてる”教会ではありませんでした。自分たちの建物は持っておらず、高校の体育館を借りて礼拝をしている、アメリカのサイズでは小さい部類に入る教会だったのです。
しかし会場に入った途端に、ここで何かが起こると感じ、鳥肌が立ちました。 お断りしておきますが、私は全く霊的な人間ではなく、「霊感が強い」みたいな人は苦手です。にもかかわらず、その私がそう感じたので自分でも驚きました。
そこではまだ何も始まっておらず、しばらくして今でも私たちが歌う歌を作った一人の女性が、何の前置きもなしにギター一本で静かに歌い始めたとき、今まで談笑していた会場の雰囲気が一変しました。神様に向かってシンプルな歌を何曲も続けて皆で神様に向かって歌いました。 神様はそこにいる一人一人に語りかけてくださっているように思えました。それぞれが思いのままに神様への愛を表現していました。立ち上がり手を上げて歌う人、跪く人、涙を流す人、私はこれがパウロの書いた「霊的で理に適った礼拝」だと確信しました。
それは神様との親密な双方向のコミュニュケーションでした。そして牧師としての私の責任は、参加者を増やすことではなく、このような「霊的で理に適った礼拝」を提供することだと気づきました。私は今のユアチャーチの礼拝のプロトタイプを発見したのです。
2. 神様との親しい関係なしに何も始まらない(ルカ10:38-42)
さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアと言う姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。 しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)
このエピソードから私たちは、礼拝と奉仕との関係を知ることができます。 マルタの陥った過ちは私たち教会が陥りやすい過ちなのです。私がかつていた教会には、たくさんの奉仕がありました。礼拝のお花を飾ること、掃除をすること、礼拝でオルガンを演奏すること、教会学校で教えること、礼拝後のランチを作ることなどなど、つまりマルタが気にかけていたようなことです。そして、長く礼拝には来ているのにマルタ的なことをしない人が非難されることもありました。逆に、なぜ自分には重要な奉仕をさせてもらえないのか?といった声も聞かれました。
しかしこの話を読めば、イエスが私たちに望んでいることが何かは明白です。 イエスと親しく過ごすときとしての礼拝が何よりも大切なのです。イエスのために仕えたいと思ったら、イエスに近づいてよく聞くことが不可欠です。イエスのためと勝手に思い込み、そうしない人を非難してイエスに諭されたマルタのようにではなく、まず最初にすべきことは主の前に来て礼拝することなのです。
イエスの前に進み出ることは、いつでもどこででもできます。だから私たちは日曜日の礼拝だけが礼拝とは考えていません。一人でも、二人でも、家族と、友人たちとでも可能です。そして礼拝こそ私たちがするべき第一の奉仕なのです。だから礼拝はサーヴィスとも言われるのです。しかしこのサーヴィスは一方通行ではありません。私たちが歌うことを通して奉仕すると同時に、神様が語りかけてくださるという私たちへの奉仕でもある双方向の奉仕なのです。
わたしは、わたしたちがユアチャーチであり続けるためには、「礼拝」がコアバリュー中のコアバリューであり続けなければならないと思っています。1985年の夏がユアチャーチの礼拝の出発点でした。しかし、教会としてのユアチャーチが生まれたのはその8年後です。来週はその間の試行錯誤とユアチャーチを始めるきっかけとなった、ユアチャーチの『2階』のコンセプトについてお話しします。
(祈り)神様、私たちを礼拝する者として呼び出し、あなたに向かって、互いに、また人々に向かって、「私たちはあなたの教会です」と言う者として用いてくださることをありがとうございます。30年の間、変わることのない価値観の核心を与えてくださりありがとうございます。これからも私たちが、何よりも、誰よりも礼拝することを大切にしていくことができるように導いてください。
あなたに心からの礼拝を捧げますから、どうかあなたも私たち一人一人に語りかけてください。
感謝して、期待してイエスキリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
私たちの価値観の核心中の核心が礼拝です。神様は私たちが生活のプライオリティーの第一のこととして、「礼拝する」ことを求めておられます。神様を信じれば誰でも、神様のために自分を活かして働きたいと願います。それは大変尊い願いです。しかし生活の中心に「礼拝」がなければよい働きをすることは出来ません。「礼拝」という神様との親密な時を定期的に守り続けることによって、神様をよく知ると同時に自分自身をよく知ることが出来ます。それがあって初めて、互いに愛し合うこと、人々を愛することが可能になるのです。
話し合いのために
- なぜユアチャーチは礼拝を最優先にするのでしょうか?
- 理にかなった礼拝とはどのような礼拝ですか?
子どもたち(保護者)のために
マリアとマルタのお話を読んで、なぜ、イエスの近くでイエスの話に聞き入っていたマリアではなくイエスのために働いていたマルタが咎められたのか考えさせてください。そして主のそばにいて主に向かって話したり、主からの声を聞くことが礼拝なのだということを伝え、それは教会で、家族とでも、一人でも、いつでもできることなのだと教えてあげてください。