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2階:イエスに従う者たちの交わり
メッセージシリーズ ユアチャーチは3階建の家 (2/3) (使徒言行録2:44-47, エフェソ 2:21,22, ヨハネ13:34,35, マタイ18:18-20)
永原アンディ
先週は、ユアチャーチを三階建の家になぞらえ、その1階は<礼拝>、ユアチャーチのユアと呼ぶべき第一の方は神様ですとお話ししました。今日は2階についてお話しします。2階における<あなた>とは、今ここに集う<自分以外の>全ての人です。
A. シャル・ウィ・ダンス?
1. ユアチャーチの始まり(使徒言行録2:44-47)
1993年夏、私たち夫婦は日本から逃げ出そうとしていました!
長い話をできるだけ短くお話しします。先週の続きですが、1985年に発見した「霊的な礼拝」が自分たちのライフワークになると確信した私は、それを家族にも共に体験してほしいと願い、翌年、妻とまだ小さかった子供たちとともにもう一度アメリカのその教会を訪ね、喜びと希望に溢れて日本に帰ってきました。しかし、そのような礼拝は受け入れられることはありませんでした。新しいワインは新しい革袋に入れなければならないという原則が、教会の在り方にも当てはまるということに気付いていなかったのです。発見した礼拝のあり方を紹介するために8年間尽力しましたが、私たちは再び疲れ果ててしまったのです。そして体験した礼拝が受け入れられている環境で暮らそうと考え、再びカリフォルニアに職探しに行ったのです。しかし結局、そこに道は開かれず、日本に帰るしかありませんでした。
そこで、せめて少しリラックスして帰ろうと思い寄り道したハワイで、たまたま出席した教会の礼拝で語られたお話しで、神様が私たちに日本で新しい教会を始めることを求めていると思ったのです。礼拝の後、立ち寄ったショッピングモールでその教会のもう一人の牧師に声をかけられて、その朝私の心に起こったことを話しました。それ以来、この教会はユアチャーチの成長をずっと応援してくれました。それがホープチャペルです。
ユアチャーチを始めるきっかけとなったメッセージを語ったのがラルフで、その午後、ショッピングモールで声をかけてくれたのがアロンです。この出会いがなければ今のユアチャーチはなかったと思います。
ホープチャペルの特長はメンバー同士がとても親密であること、それでいて閉鎖的ではなく、私たちのような“一見さん”にも関心を持って接してくれることでした。メンバーが親密であることと、メンバーではない人や初めて来た人にとっても居心地のいいことは両立しにくいことです。けれども私たちは使徒言行録で、教会がそのようなコミュニティであったことを知っています。
信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである。(使徒言行録2:44-47)
礼拝は最重要です。しかし、礼拝だけしているのでは神様が私たちに期待している<教会>ではありません。1993年秋、私たちはキリストの体にふさわしいコミュニティ、<教会>を目指して出発したのです。
2. なぜ“互いに”が欠かせないのか? (エフェソ 2:21,22)
シャル・ウィ・ダンス?という映画をご存知ですか?始めに日本で作られ(1996)、ハリウッドでもリチャード・ギアとジェニファー・ロペスの主演でリメイク(2004)されています。主人公の中年男性が社交ダンスの教室に通い出します。最初はダンスパートナーの足を踏んづけて叱られてばかりでしたが、ついにコンテストに出るようになります。
ユアチャーチは礼拝を開始して2年目の後半にこのビルを借りました。最初は今のフェローシップホールの部分だけを借りていました。その頃、ゲストスピーカーとして来てくれたのが、1970年代後半であれば日本では誰でも知っていた有名バンド・ゴダイゴのベーシストだったスティーヴ・フォックスでした。
彼は教会をダンス教室に例えました。教会では互いに愛し合うことを練習するのですが、足を踏んだり踏まれたりして痛い目に遭いながら上達するところだというわけです。ここで練習している人は、足を踏まれたり、蹴られたりしても、赦そうという意思を持っています。
外のコンテストで散々な目にあって泣きながら戻って来ても慰めてくれます。 神様に赦されていることを知る者同士なので、世界を愛するための備えができるのです。
2階を経ずに3階に昇ることはできません。愛することは簡単ではないのです。私たちはここで愛することにおいて成長するのです。聖書はこのように表現しています。
キリストにあって、この建物全体は組み合わされて拡張し、主の聖なる神殿となります。 キリストにあって、あなたがたも共に建てられ、霊における神の住まいとなるのです。 (エフェソ 2:21,22)
イエスを信じる信仰は、一人一人の心の中の個人的な事である側面と共同体の一員となりその責任を果たすという側面があるのです。私達は自分たちの利害が一致しているから共にいるのではなく、神様の目的によって呼び出されて組み合わされた者として、神様の愛を世に現すために共にいるのです。私達が神様の愛によって互いに愛し合うことを知ることによって、人々は神様の愛を知るのです。神様は愛ですということをいくら口で説明しても、教会の中の人間関係が愛の無い冷たいものであるなら、誰も神様が愛だとは思わないでしょう。だから私達は、ここにある人間関係の中で神様に仕えるようにあなたに仕えます、神を愛するようにあなたを愛します、という告白として「私はあなたの教会です」と言い合うのです。
ただ、ダンス教室はコンテストに優勝することだけを目的とする血と汗と涙の道場ではありません。ここにいることによって、私たちは安心、喜び、友情、慰め、励ましといった大切な宝を手に入れるところでもあります。
B. オープンで親密な家族であるために
1. 入りやすい入り口と安全な階段(ヨハネ13:34,35)
あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。(ヨハネ13:34,35)
ユアチャーチに新しい人々が加わってほしいという願いは健全で、イエスの願いに一致しています。でもそれは、1階、つまり礼拝の参加者を増やしたいということではなく、2階にも上がって来てもらい、仲間になってもらいたい、3階にも上がって一緒に神様の仕事を手伝ってほしいという願いです。そのためには、入りやすい入り口と、上がってみたい階段が必要です。小さな入り口と急な階段ではこれらの願いはかないません。
この“オープンであること”と“親密であること”を両立することは簡単なことではありません。しかしどちらかを諦めなければならないことではありません。むしろ教会はそれらふたつが両立しているユニークなコミュニティーになれるはずです。それは、この家の主人であるイエスご自身が地上でそのような生き方をされたことでわかります。イエスはマリアに親しく語りかけられたとおもえば、当時の社会の中で見捨てられた人たちの飲み会に飛び込んでいって安ワインを楽しみ、その場を盛り上げられた方です。広場に出れば、子供たちがまとわりついて来て、それを叱る大人たちを逆に叱られる方です。4000人、5000人に食べ物を振る舞ったかと思えば、特に親密な弟子だけを集めて<ミニチャーチ>をなさった方です。
教会はキリストの体です。だから私たちにはそれができるはずです。こんなに魅力的なイエスの体である教会に、あまり魅力が感じられないとしたら、何がイエスの魅力を隠しているのかを考えてみるべきです。ホープチャペルのラルフ・モア牧師、アロン・スズキ牧師はこのことについて多くのことを教えてくれました。
イエスの魅力を見えなくするのは、その教会の文化や伝統です。ある人々は思います。礼拝はこの順序で行うのが”正しい”、楽器はオルガンで歌うのは古き良き讃美歌でなければならない。服装はビジネスカジュアルがふさわしい。また教会は普通の人は使わない特殊な言葉であふれています。中にいてそれを長く楽しんでいる人にとっては心地よいものかもしれませんが、初めての人にとってはどうでしょう。一つだけ例を挙げます。「さあ皆さんで“賛美”しましょう!」 それは翻訳すると「さあ歌いましょう」ということです。ユアチャーチ以外の教会では常識だと思います。しかし、私たちは「賛美」という言葉をこのようには使いません。まず「賛美する=神様をほめたたえること」は「歌う」ことと同じではありません。そして、今お話ししている文脈で言えば、「歌いましょう」の方がずっとオープンです。
これらの教会の文化伝統でイエスの時代にあったものは一つもありません。むしろ新しいこととして教会が取り入れて来たことです。讃美歌の中にはその時代の世俗的なメロディに信仰的な言葉を載せたものが多くあります。きっとその時代の伝統主義者は「そんな曲は礼拝にふさわしくない」と言ったに違いありません。文化や伝統を守らせたいのは、神様ではなく自分たちだということを正直に認めなければなりません。けれどもそれはユアチャーチの精神ではなく、アワチャーチの精神です。
イエスはどんな文化や伝統を持っている人でもそのままでいいから、招きたいのに、私たちがイエスではなく自分の文化や伝統を愛すなら、私たちはイエスを隠すことになるのです。音楽とかドレスコードとかの文化や伝統は、イエスの伝えたかった良い知らせつまり福音の一部ですらありません。
私たちは、このような文化伝統に邪魔されたアワチャーチという秘密クラブを作るのではなく、来たばかりのどのような背景を持った人にも、「ここはあなたのために用意したコミュニティです」と言えるようになりたいと願いました。そして、教会の名前はこの願いを忘れないようにライトハウスチャペルからユアチャーチに変えました。1997年のことです。
2. ミニチャーチ (マタイ18:18-20)
よく言っておく。あなたがたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。 また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(マタイ18:18-20)
さて、入りやすい入り口があっても、そこに前回お話ししたような「理に適った礼拝」がなければ無意味です。同様に、いかにも昇っていきたくなるような魅力的な階段があっても、その2階にイエスを中心とした信頼できる人間関係がなければ、せっかく昇って来た人をがっかりさせてしまうでしょう。
そうならないためにミニチャーチはあるのです。ミニチャーチこそユアチャーチの2階の機能を担うダンススクールです。ミニチャーチはホープチャペルが私たちにもたらしてくれた多くのもののなかでも最も貴重なものだと私は思っています。礼拝は神様に自分自身を献げる場です。神様ではない誰かと会うことが目的ではありません。互いに愛しあう・仕え合うという部分については他の機会を求めなければなりません。ミニチャーチは平日に少人数で集う気の合う仲間のグループです。ミニチャーチではリラックスした雰囲気の中で、互いの経験を分かち合い、互いに祈り合うことによって、必要な癒し・慰め・励まし・アドヴァイスが得られます。また、礼拝で受け取ったメッセージについて話し合い日常生活に活かすアイディアを分かち合います。こうして具体的に互いに愛し合うこと、仕え合うことが自然にできるようになるグループです。もし、あるミニチャーチが教会外のボランティアを始めたら、それはユアチャーチの3階の働きもしていることになるのです。ミニチャーチでワーシップをすれば1階の機能も果たすことができます。
しかし、必ずしもそうでなければならないのではありません。2階の役割を果たせれば十分なのです。誰かの家でも、スタバでも、ファミレスでも、マックでも、ショッピングモールのフードコートでもできます。
コロナウイルスは私たちが同じ場所で過ごす機会の多くを奪いましたが、一方では、この困難を通して、誰でも気軽にインターネット上で顔を見ながらミーティングができる環境が整いました。どこかに集まってできればいいに決まっていますが、モニター越しでも大丈夫です。場所や時間の制約も少なくなりました。世界のどこに出かけていても参加することができます。その時間に電車の中にいたとしても聞いているだけなら問題ありません。皆さんの中でミニチャーチを始めたい人がいたらぜひ声をかけてください、喜んでお手伝いします。
今日はユアチャーチを3階建ての家に例えて2階の話をしました。来週は最終回、3階部分についての話をします。今までは過去と現在についてお話しして来ました、が来週は現在から未来に関するお話し、私たちはどのように世界と人々を愛するかというお話しをしたいと思います。
(祈り)
神様、私たちをあなたを礼拝するものとして招いてくださっていることをありがとうございます。そして私たちをご自分の体として結び合わせ、互いの必要を満たし合う者、あなたの働きを担う者としてくださっていることをありがとうございます。
あなたが忍耐強く、慈しみ深く、赦し、受け入れてくださったように、私たちも互いに愛し合う者とならせてください。どうか、あなたの愛と知恵によって、あなたのようにオープンであると同時に親密な関係を築ける者と成長させてください。
あなたに期待して、感謝してイエスキリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
イエスは明確に、優先順位の2番目に「互いに愛し合う」ことを挙げています。しかしその親密さは、それはイエスがご自身の地上での歩みを通して示されたように、閉鎖的になるようなものではなく、むしろ私たちをオープンにするものです。
イエスに似た者として生きるために大切なことは、文化・伝統ではなくイエスの言葉に従うこと、“愛することの練習”を楽しみ、怠らないことです。
話し合いのために
- 教会はどのような意味でダンス教室のようなものなのですか?
- 私たちがオープンでありながら親密さを保つためにミニチャーチ以外にできることは?
子どもたち(保護者)のために
教会は大きな家族です。親以外の大人たちが関わってくれることは、子供たちの成長にとってとても有益です。いうまでもなく、子供達もこの家族の一員です。ぜひ教会の人々が、”よその人”ではなく神様の大きな家族の一員であることを伝えてください。教会が子供たちにとって心地の良いところであることを願います。そのために思うことがあればどうぞ牧師と相談してください。