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צ(ツァデ) 正しさについて
詩編119:137-144
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する”18/22
永原アンディ
詩編119篇のシリーズ、18回目の今日は、18番目の段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット18番目の字、“צ(ツァデ)”が各節の初めに置かれた137-144節を取り上げます。文字の起源は明らかではないのですが、文字の名前は正しい者、正しいを意味するツァデク(צדיק・tsadík)とも呼ばれ、実際今日のテキストでも「正しい」と訳された言葉がたくさん出てきます。今日はこの“正しさ”について考えてゆきたいと思います。
1. 神様の正義 (137,138,141,142)
137 主よ、あなたは正しく
あなたの裁きはまっすぐです。
138 義と大いなる真実をもって
あなたは定めをお命じになりました。
ここからは少し使われている日本語の説明になりますが…
日本語の形容詞“正しい”は、英語の correct(言動が相応しい、間違っていない)という意味と、righteous(正義)、両方の意味を持つ言葉です。日本語の聖書で用いられている“正しい”は、英語ではすべてがrighteousと訳されています。これは名詞の“正しさ”(righteousness)でも同じです。
また日本語の聖書では、神様との関係における“正しさ”は義(ぎ)と表現されることが多く、今読んだ138節冒頭にも出てきました。英語ではどちらもrighteousと訳される原語ツァデク(צדיק)を、日本語の聖書は、137節では「正しく」、138節では「義」を採用しています。
ここで詩人は、「神様は正しい方で、その律法は神様の正しさ、偽りのなさを反映した完全なものです。」と告白しているのです。ご存知のように、私たち夫婦は息子が久しぶりに来日して、楽しい思いをしているのですが、孫娘は父親が出張するのをとても悲しんだそうです。そのことを聞いた同じ日に、ウクライナの少女が召集された父親の出征を泣いて悲しんでいる映像を見ました。子供は、数日の出張でも親がいなくなることを悲しみます。しかしウクライナのその少女は、父親をいつ帰ってこられるかわからない、戦死するかもしれない激戦地に送るのです。国にとっては、侵略してきたロシアを追い返す”正しい戦い”かもしれませんが、妻や子供たちにとって、父親の命を奪うかもしれない戦争が正しいわけがありません。それは、ロシアの出征している兵士の家族にとっても同じことです。
人間の正義は、相対的なものです。しかも、権力を持った者が何が正義かを決めつけ人々を従わせるのです。この国も80年くらい前に“正しい”戦いを始め、多くの人々から、大切な家族を奪ったのです。
詩人もまた、誰かの独善的な正しさによって苦しんでいました。イエスの時代の多くの人々も、宗教指導者たちの独善的な正しさに苦しめられていました。なぜ人間は他人の正しさによって苦しまなければならないのでしょう。なぜ人間は神様の目から見たら悪であることを、自分の意思では正しいと思い込み実行するのでしょう。そのような私たち人間の性質を聖書は罪と呼びます。神様に背を向けて、神様の意思を聞き、それに従うより、自分の欲求を満たそうとする性質です。さらに悪質なのは、それを神の意思と偽って行うことです。
残念ながら、あらゆる宗教が、戦争や差別や迫害といった悪に利用されてきました。このことは国と国の間に起こるだけではありません。人と人の間にも起こることなのです。夫婦やきょうだいの間でさえもおこることです。創世記4章に記録されている人類最初の殺人事件はアダムとエヴァの二人の息子の間で起こったのです。人間の「私が正しい」は当てになりません。それはすべての人が罪の性質を持っっているからです。本当に正しいのは、すべての人を創られた神様だけです。詩人はそのことを知っていました。少し飛びますが141,142節を読んでみましょう。
141 私は取るに足りない者で、侮られていますが
あなたの諭しは忘れません。
142 あなたの義はとこしえに正しく
あなたの律法は真実です。
神様だけが正しく、その正しい神様に従わない限り、正しく歩むことはできません。政治的な、また宗教的な力を持った人々が神様に従っていないなら、民は苦しみ、悲しむばかりです。使徒パウロもそのことを知っていました。彼自身が、イエスに出会う前は、熱心なユダヤ教の若いリーダーの一人として、伝統的なユダヤ教に挑戦する新興宗教の教祖”イエス”を信じる者たちを迫害することを、神様の求める正しさだと信じていました。その考えはイエスに出会ってどう変わったのでしょうか?彼はローマの信徒への手紙の3章でこう言っています。まず11節で「正しい者はいない。一人もいない。」と詩編14、53編を引用して断言します。そして20-24節で、こう説明しています。「律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。」
パウロは、自分の力で神様の似姿として創造された人間にふさわしく生きることはできないと自覚したのです。しかし、彼はイエスと出会うことによって、それにもかかわらずイエスが十字架にかかり、神様に背を向ける罪を赦し、正しい者と認めてくださったことを知りました。私たちにとっての正しさとは、神様の正しさを体現されたイエスと共に歩むことなのです。
2. 神様の言葉を愛す (139,140)
139 私の熱情は私自身を滅ぼすほどです。
私の敵があなたの言葉を忘れたからです。
140 あなたの仰せは練り清められています。
あなたの僕はそれを愛します。
律法を行いとして正しく守ることができないなら、赦され、正しい者と認められた私たちにできることは何なのでしょうか?イエスは、神の国とその義(正しさ)を求めなさいと言われました。しかし、どうやってと皆さんは思うでしょう。
詩人も同じでした。神様の正しさを認めない、自分を苦しめる人々に対して、自分が壊れてしまいそうなほどの憤りを感じていました。それは、神様の正しさを知っていながら、自分の力ではどうすることもできないもどかしさでもありました。このジレンマに解決を与えてくださったのがイエスなのです。
ヨハネによる福音書は冒頭で「イエスは神様の言」であると宣言して始まっています。イエス自身が私たちへの語りかけだというのです。旧約の時代の人々は、神様からの語りかけとして律法を書いて記録したのです。しかしそれは、行動に関する規則集のようになってしまいます。人々は書かれた律法を正しく守ることに腐心して本質を見失っていた時代。それがイエスのこられた時の状況でした。
イエスが来られたことを知っている私たちは、書かれた律法よりも、イエスご自身の方が、本来の“律法”を現していることを知っています。イエスに聞き従うことに心を集中させるなら、イエスに聞こうとしない者のことはあまり気にならなくなるはずです。イエスは、皆さんが敵のことで心をすり減らすことを望みません。それよりもイエスを愛し、従うことに心を向けましょう。30年間ずっと話してきたので、皆さんはそれが何を意味するか、もうよくご存知だと思います。
礼拝です。礼拝することを生活の中で最優先とすることです。つまりユアチャーチカヴェナントの第一のことは、私たちが正しく生きるための、第一の決意だということです。
3. 神様の言葉が生きる力 (143,144)
143 苦難と苦悩が私に降りかかりました。
しかし、あなたの戒めは私の喜びです。
144 あなたの定めはとこしえに正しい。
私が生きていけるように私に悟らせてください。
「苦難と苦悩が降りかかる中で、神様の戒めが私の喜び」と詩人は言います。
苦難と苦悩は、私たちを神様から引き離すことはできません。むしろ、苦しさの中で神様を求め、神様に出会い、神様を信じた人も多いと思います。
今まで信頼していたものに信頼が置けないと思った時、誰を頼りに歩めば良いのかわからなくなった時、それが神様を知る機会となるのです。そこから私たちは新しい力を得て歩み続けてきました。
イエスと出会えた時の喜びを皆さんは覚えているでしょうか?そしてその喜びは今も確かに心の中で燃えているでしょうか?
苦難はイエスを信じてからもやってきます。どうしたらそのような困難の中で喜びを失わずにいることができるでしょうか?
今までシリーズで詩編を読んできましたが、詩編には、神様が私たちを危険から守るために、その翼の下に隠すようにして私たちを守るという表現が何回か出てきます。
神様の翼は抽象的な例えではなく実際にあるものです。どこにあるかご存知ですか?ここにあります。教会はキリストの体と言われますが、それは神様の翼でもあるのです。教会は、苦難の中に置かれた者にとって神様の翼なのです。それが可能になるのは、私たちが翼となるからです。私たちが互いに愛し合いますと決意するからです。つまり、ユアチャーチカヴェナントの第二のこと<互いに愛し合います>も、第一と同様に、私たちが正しく生きるための決意なのです。
114節では、詩人は生きる力を得るために、神様の戒め、定めを理解させてくださいと神様に願っています。律法を愛す、神様の言葉を愛す、それはすなわち私たちにとってはイエスを愛し、イエスに従うことに他ならないことを前の部分で学びました。イエスと共に歩むことが私たちに力と喜びを与えてくれるのです。この力と喜びは、私たちのうちに止めておくことはできません。イエスが求めなさいと言われた神の国と神の義は個人の心の中に建てられるのではなく、世界を包むものだからです。
そこで私たちのカヴェナントの三つ目<世界を愛します>もまた、第一、第二のカヴェナントと同様に私たちが正しく生きるための決意であることがわかります。つまりユアチャーチカヴェナントは、神様に正しいと認められたものにふさわしい、三つの約束を大切にして歩みますという決心でもあるのです。
(祈り)神様、あなたは、あなたの正しさには程遠い私たちを、あなたの正しさを現して、全ての人々に平和を届ける者としてくださいました。
それにもかかわらず私たちの独善が人を苦しめ傷付けてしまうことがあります。
どうか私たちを引き寄せて、あなたの思いを教えてください。
あなたの正しさにふさわしく歩めますように導き、力を与えてください。
イエスキリストの名によって祈ります。
メッセージのポイント
律法の正しさは、律法を与えた神様の正しさに由来しています。私たちは自分の正しさを主張しますが、その正しさを保証するものは何もありません。「正しい者は一人もいない」というのが聖書の教える真理だからです。そこで、私たちが正しく生きようと願うなら、正しい神様に従って人生を歩むことです。神を愛し、互いに愛し合い、世界を愛するというユアチャーチカヴェナントは神様の正しさへの応答です。
話し合いのために
- 神様の正しさとはどのようなものですか?
- 神様が私たちに求める正しさとはどのようなものですか?
子どもたち(保護者)のために
「正しい」「正しいこと」「正しい人」の意味を考えさせてください。その上で137節を読んで、神様が正しいとはどういうことなのか話し合ってみましょう。さらにローマ書3章の「正しい者はいない。一人もいない。」『人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。」を紹介してください。