ק(コフ) 心を尽くして主に呼び求めよう

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ק(コフ) 心を尽くして主に呼び求めよう

詩編119:145-152
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 19/22

永原アンディ


 詩編119篇のシリーズ、19回目の今日は、19番目の段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット19番目の字、“ק(Qoph コフ)”が各節の初めに置かれた145-152節を取り上げます。 今日の部分で印象的なのは、詩人が神さまに繰り返し呼びかけている様子です。   

 皆さんは、神様を呼ぶ、呼び求める、叫び求めるという経験をお持ちでしょうか?誤解されやすいことだと思いますが、イエスを信じているということは、キリスト教の教義を信じていることでも、聖書の記述を信じていることでもありません。イエスという方を信頼しているということなのです。もし信頼しているのが、教義や聖書なら呼び求めることはできません。しかし、私たちが信じているのは人格を持った神様であるイエスです。だから私たちは、危機にあって、困難にあって彼を呼び求めることができるのです。   

今日も少しづつ読んでいきましょう。まず、145,146節です。

1. 救いを求めて (145,146)

145 心を尽くして呼びかけます。主よ、私に答えてください。 
私はあなたの掟に従います。
146 あなたを呼びます。私を救ってください
あなたの定めを守れるように。

 この部分で詩人は「救い」を求めて神様を呼んでいます。救われるとは、囚われた情況から解放されることです。彼はどのような情況から救ってほしいと神様を呼んだのでしょうか?
 イエスを信じて生きる者となることを、「救われる」と表現することがよくありますが、一体私たちは、イエスを信じて何から救われたのでしょうか?
皆さんは、自分が何から救われたと思っていますか?
 「救い」はキリスト教に限らず、あらゆる宗教の根本的なテーマです。しかし、わかっているようで実はよくわかっていない言葉です。聖書が一番強調するのは「罪からの救い」ですが、その「罪」も単純な事柄ではありません。少なくとも、何をしたか、しなかったかという社会的な意味での罪ではありません。
 また「死からの救い」という表現もありますが、肉体の死を指すものでもありません。

 詩人は、146節で「救ってください、そうすればあなたの定めに従えるでしょう」と言っています。その情況が具体的にどのようなものであったのかは想像するしかありませんが、神様の言葉に聞き従い難いものであったのだと思います。
 神様は人をご自身に似せた、他の被造物の何よりもご自身と親しい存在として人間を創造されたはずです。その人間に神様の声を聞き難くさせている情況こそ、聖書が「罪」「死」と表現する、私たちの魂のありようなのです。それは神様と引き離されている状態です。良いものとして創ってくださった神様の声が聞こえない状態です。
 私たちはその原因を、対人関係や健康状態や経済状態に求めます。しかし、それらは神様と自分との間の関係を妨げるものではありますが絶対的なものではないのです。なぜなら、私たちが背を向けていても神様の方から声をかけてくださることがあるからです。

 使徒パウロの回心の次第が使徒言行録の9章に書かれています。それはイエスの「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」という語りかけから始まったのです。パウロはその声に応えて「主よ、あなたはどなたですか」と問いかけ、イエスは「私は、あなたが迫害しているイエスである」と答えられ、パウロのイエスに従う人生は始まりました。
 主を呼び求めることは、虚空に向かってなされる虚しい呼びかけではなく、私たちのできる神様への応答なのです。「私の人生はこのままの状態で良いわけがない」という思いは、神様の呼びかけです。それに答えて私たちは神様に、どうかこの状態から救ってくださいと願うことができるのです。そしてそこから、神様と対話しつつ歩むという、本来の歩みを始めることができるのです。

2. 助けを求めて (147,148)

147 夜明け前に起き、助けを求めて叫び
あなたの言葉を待ち望みます。
148 私は夜回りより前に目覚め
あなたの仰せを思い巡らします。

 「救い」と「助け」は似た概念ですが、大きな違いは「救い」が、私たち自身にはどうすることもできない中で、神様がしてくださる一方的な行為であるのに対して、「助け」は、私たちの行動に神様が力を貸してくださるものだという点です。
 詩人は、自分の歩みが困難の中にあっても、確かなものとなるように叫び求めているのです。そして、このことは皆さんにもぜひ倣ってほしいことなのです。
 詩人の困難はそのことを思うと心配で夜も眠れないほどのものでした。皆さんの中に、人間関係で、仕事で、学びで、経済的な問題で、夜も安心して眠れないほどの悩み、不安、苦しみのうちにある方がいらっしゃるでしょうか?そうであればすることはただ一つ、神様に助けを叫び求めることです。そしてそれは、私が普段からお勧めしている「礼拝」の勧めに他なりません。 イエスが私たちの叫びを聞いていてくださることは、私たちの感覚に関わらず間違いありません。
 これは個人的な経験でもありますが、教会というコミュニティーとしての経験でもあるのです。キリストの体である教会は、困難の中で世に存在し続けてきました。それが、イエスは必ず聞かれ、必要な助けをくださる方だという証明です。
今日の礼拝でももちろん、この1週間の歩みの中で、眠れない夜に、ちょっと時間が空いた時に、何度でも助けを求めて礼拝してください。

3.  裁きを求めて (149,150)

149 あなたの慈しみにふさわしく 私の声を聞いてください。
主よ、あなたの裁きに従って私を生かしてください。
150 悪だくみを抱いて私を迫害する者どもが近づきました。
彼らはあなたの律法から遠く離れています。

 詩人が正しい裁きを求める声を上げるのは、自身が不当に虐げられている一方で、彼を迫害する者らは、神様から何の咎めも受けずに彼を苦しめ続けているからです。神様の正しい裁きがどのように表されるのか?私たちは先週のメッセージで聞いたばかりです。
 彼らはすでに裁かれているのです。(ヨハネによる福音書 3:17-18) それは神様に背いて生きるという不幸を背負い続けるということです。ただ詩人はまだその事を実感していません。それは彼の時代から数百年経って明らかになったことだからです。

 2000年前、神様は一人の人、イエスとしてご自身を表されました。人の罪は、神様の権威を持って現れたイエスに従えないほど深かったのです。 本来なら人々に向かって表されて当然の神の裁きが、ご自身の表れであるイエスの処刑を黙認されるという形で下ったのです。
 本当にあそこに架けられて苦しむべきは、神様に聞こうとせず、むしろ自らを神のように思い行動する、罪深い私たち人間の方だったのに。しかしイエスはその苦しみを避けようとはせずに、抵抗することなく苦しみと死を受け入れたのです。それが、あの2000年前の十字架の出来事です。 
 しかし、イエスは苦しみを甘受されましたが、死の力に敗北することはありませんでした。イエスは3日後に甦られ、その姿が天に帰られて見えなくなるまで弟子たちの間で姿を現されました。
 それは理性で受け入れられる事柄ではないでしょう。しかしそれが本当であったからこそ、イエスをキリストと信じて生きる人は、いなくなるばかりか、世界中に増え広がり、今も多くの人々がイエスと共に歩み続けています。
 確かに神様は世を裁かれたのです。神様の意思に従おうとしない人はすでに裁かれています。彼らは檻に囚われてもいませんし、鎖に繋がれてもいません。しかし、神なしに生きるという、実は最も恐ろしい状態に置かれているのです。 その恐ろしさは、神と共にいる喜びを知る人でなければ理解できないものです。
 彼らが富んでいる、力を持っている、そういったことをもって、神様が彼らの悪を見逃していると考えてはいけません。私たちが主と共に生きる喜びを至上のものと思えるなら、彼らの暮らし向きがどうであれ、神なしという悲しい人生を送っているのです。

 しかしそれは、目の前に見えている不正義によって苦しむ人々を見ることなく、神様と共にいる自分たちのことだけを見ていればいいということでは決してありません。なぜなら、私たちと共にいるイエスは常にそのような人々と共におられるからです。イエスに従って歩む私たちもまた、イエスのおられるところにいるのです。

4. 私たちも神様を呼ぼう (151,152)

151 主よ、あなたは近くにおられます。
あなたの戒めはすべて真実です。
152 あなたの定めによって 私はかねてよりわきまえています
あなたがそれをとこしえに決めおかれたことを。

 今日は、救いを、助けを、裁きを求めて神様を呼び求める詩人の心に触れてきましたが、この最後の2節での呼びかけは、何かを求めるものではなく、自分が確信していることを言い表わすものとなっています。

 「神様、あなたはすぐ近くにいてくださいます」「あなたの戒めはすべて真実です」「あなたの定めは初めから永遠に変わりません」という確信です。この部分から私たちは、 神様を呼び求めることが無意味でないばかりか、神様に対する信頼があるからこそ生きている限りし続けるべき、信じる者の大切な営みであることを知るのです。

 神様に呼ばれ、呼び返すことは私たちの捧げる礼拝の本質であることを覚えましょう。

 最後に、神様を呼び求めたもう一人の詩人を紹介したいと思います。それは聖書の時代の詩人ではなく、今から130年くらい前に、日本のしかもこの町田で生まれた詩人、八木重吉です。彼は肺結核を患い、29歳で天に召されました。生存中に出版された詩集は一つだけでしたが、後に多くの選者による多くの詩集が出版されました。

 その中に「神を呼ぼう」という詩集があります。この詩集から神様を呼ぶことの大切さを教えてくれている二つの詩を紹介します。

よぶがゆえに
みえきたるものあり
よぶことなければきえゆくものあり

イエスは呼びかければ呼びかけるほど、その人にとって存在がリアルになる方。    

反対に、呼ばずにいるなら、その人にとってイエスの存在は希薄にものになってゆくということでしょう。

 だから、もっと素朴に神様を呼び求めることを励ますこの詩を紹介して、今日のお話を終えたいと思います。この詩には説明は必要ないと思います。

さて
あかんぼは
なぜに あん あん あん あん なくのだろうか

ほんとに
うるせいよ
あん あん あん あん
あん あん あん あん
うるさか ないよ
うるさか ないよ
よんでるんだよ
かみさまをよんでるんだよ
みんなもよびな
あんなに しつっこくよびな

(祈り)神様、私たちもあなたを呼び求めます。あなたが近くにいてくださることを忘れてしまわないように。
自分のために、家族のために、隣人のために、世界のために、救いと、助けと裁きを求めてあなたを呼び求めます。
今日、世界のあらゆるところで、求めている人のために、あなたの栄光を表してください。イエス・キリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

神様を呼び求めることは神様に呼ばれた者にとって、その魂に欠かすことのできない大切な営みです。日々の生活や困難や悩みごとに、直接心が向いてしまいがちですが、そのような時に何より大切なのは神様が近くにいてくださる実感です。それは八木重吉の詩にあるように、いつもイエスと声を呼び交わしていることによって得ることができます。

話し合いのために
  1. 「救い」とは何でしょう?
  2. 最近、どのようなことで主を呼び求めましたか?
子どもたち(保護者)のために

イエスは目には見えないけれど近くにいてくださり、呼び求める声を聞き、応えてくださる方であることを、自分の経験を通して子供たちに伝えてください。最後に紹介した八木の詩は、子供たちにも直感的に伝わるものだと思いますのでぜひ読んで聞かせて、内容について話し合ってみてください。