שָׁלוֹם・平和・Peace

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日曜礼拝・英語通訳付

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שָׁלוֹם・平和・Peace

詩編 120

永原アンディ


 日本語の聖書では、今日の120編から134編までの15編の詩には「都に上る歌」という題がついています。原語は英語の聖書が訳しているように、単に「上ること」を意味する言葉なので、神殿のある都エルサレムに行くこと、神殿に上ること、神殿の中にある15段の階段を上ることなど、などさまざまな解釈がなされて来ました。しかし、どれかと断定することはできません。
 ただ、上るというのが神様に近づくことを意味することであることはどの説でも同じです。苦しい現実にあっても神様の前に立とうとするのは、神様を信じる者にとっては、詩人の時代であっても、現代であっても切実な願いです。
 今日、特に注目したいのは6,7節に出てくる「平和」という言葉です。神様に近づいても、現実の苦しみが簡単に去るわけではないことは、詩人も私たちも知っています。それでも私たちは、神様だけがもたらすことのできる平和、正義が現実となることを希望し続け、待ち続けるだけでなく、神様に近づき、神様の手足としてその実現のために働くことができます。
 今日はこの詩編から、神様だけが与えることのできる真の平和について考えてゆきましょう。

1 都に上る歌。
苦難の時に主に呼びかけると
主は私に答えてくださった。
2 「主よ、私の魂を助け出してください
偽りの唇から、欺きの舌から。」
3 主はお前に何を与え
お前に何を増し加えるだろうか
欺きの舌よ。
4 それは、えにしだの燃える炭火を付けた
勇士の放つ鋭い矢だ。
5 ああ、何ということだ
メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは。
6 平和を憎む者と共に
私の魂が久しくそこに住むとは。
7 私が平和を語っても
彼らはただ戦いを好む。

1. 聖書が示す平和の本質

 先週は太平洋戦争が終わった記念日がありました。今月に入って、原爆のことだけでなく、あの戦争によってもたらされた、人々のさまざまな苦しみについてテレビや新聞で報じられていました。日本人にとっては平和ということを一番考える季節です。
 「平和」は戦争との対比で用いられることの多い言葉なのですが、ここに出てくる「平和」の「シャーローム」という原語は、戦争でない状態を表すだけの言葉ではありません。その真意は「神様の祝福に満ちた状態」です。それがあってこそ、世界も、国も、家庭も本当の平和を得られるのです。
 日本語の「平和」は特に戦争状態との対比で語られることが多いので、日本語の聖書では「平安」という言葉を使って神様の下さる心の平和を表現することが多いのです。 
 原語はどちらもシャーロームです。「シャーローム」は詩編全体では18回出てきます。そのうちの7回が今日から読み始めた120編から134編までの15編の詩「都に上る歌」に集中しています。そのことは、平和が「上ること」つまり神様に近づくことと深く結びついているということを示しています。
 平和を愛することの本質は戦争を憎むこと以上に神様を愛することなのです。 また、平和を得ようとするなら神様に近づくしかないのです。それは人間が平和を拒む罪性を持っているからです。

2. 平和を破る人間の罪性

 戦争は兵士だけでなく、何の過失もない人々の人生を奪います。私は、広島や長崎の原爆の投下を決して正当化することはできないと考えます。しかし、それを実行したアメリカやアメリカ人に罪があると思っているということでは決してありません。日本が原子爆弾を先に開発していれば、同じことをしてしまっていたと思います。
 戦時下の残虐性はどの民族も国家も変わりはありません。戦争は何人であっても狂わせます。普通の温厚なおじさんでも徴兵され、剣のついた銃を持たされれば、平時であれば決して手を染めないような残虐なことができてしまうのです。平和な社会でなら、誰でも躊躇する暴力が正義とされるのです。
 国際法には戦争の規定があります。民間人や民間施設への攻撃や、被害者に酷い苦しみを与える兵器も禁止されています。しかしそれは広島、長崎、現代のウクライナを見ても分かるように無視し続けられてきました。

 神様が私たちに求める「正義」は人間によって歪められ、至る所で「私たちの正義」が叫ばれてきました。太平洋戦争が終わるまで、この国の主権者は天皇でした。国民は天皇のためなら命を捨てるべき存在であり、戦争することが正義であり、戦争を嫌がり平和を求めることは罪悪であると、終戦の直前まで教師は教えてきました。そして次の日から、その正反対のことが教えられ始めたのです。
 しかしそれは教師のせいでもありません。教師もまた、上から命じられ、自分を守るために良心を欺き、模範的臣民を演じたのでした。もちろん、天皇一人に責任を求めることも間違いです。天皇と天皇家もまた、権力に利用されたのです。

日本には、ヒットラーやムッソリーニのような独裁者はいませんでした。この国を破滅に向かわせたのは軍の上層部にいた人々と権力を持つ政治家たちの集団でした。その構図は、イエスの時代の権力者、宗教指導者たちの支配とよく似ています。 天皇は神様ではないこと、神様は戦争を喜ばないことを公言して投獄されたキリスト者も少しはいましたが、多くの教会はいろいろな理屈をつけて日本の戦争を聖戦と認めたのです。十字架にかけられたイエスを全員が見捨てたように、多くの教会は政府をではなく、イエスに従って投獄された牧師とその教会を責めたのです。
 残念ながら、それが人間の性質です。
 弱い者は恐れのために正義を捨てます。強ければ、あるいは大きな集団となれば、自分らが正しいと思い込み、弱い者を恐怖や目先の利益によって支配し、人を踏み台にしてより多くを得ようと考えます。

3. 偽証して他者を苦しめる者の存在

ここでの詩人の苦難の原因は、「偽りの唇から、欺きの舌」とあります。偽りの言葉によって、信用を失ったり、地位を追われたり、罪を負わされたりしていたという苦しみのうちにあったのです。みなさんは、そのような状況に置かれたことがありますか?
 ありもしない噂を立てられた。誰かの嘘によって悪い評判を立てられた。そのようなことは、会社などの組織や学校での人間関係の中でよく起こることです。 自分に非があるわけではないのに、良好だった人間関係が損なわれることは辛いことです。詩人はその辛さに耐えかね、神様に呼びかけました。そして、神様は答えてくださったと言っています。
 このような苦難の最大の被害者はイエス・キリストでしょう。当時の宗教的な指導者や政治的支配者はイエスを、「神様を敬わない者、反乱を企てる者」であると民衆に思い込ませ、十字架に架けてしまいました。
 ですから、本当にイエスに従って歩もうとするなら、それを快よく思えない人々からの攻撃を受けることがあることを認めなければなりません。例えばキング牧師やマザー・テレサのようにイエスに従った人々は、イエスが弱く、小さい者たちの側に立たれたように、さまざまな差別を受ける人々と共に、差別がなくなるように働いてきました。そのためイエスを知らない人々からは慕われましたが、クリスチャンを自称する一部の人々からは、彼らの信仰は本物ではない、彼らは救われていないという非難さえ受けたのです。

4. 平和を憎む社会に生きる

 5節以降に詩人の置かれている現状に対する憤りが記されています。ここには旧約聖書、創世記に現れる二人の人物、メシェク(10:2)とケダル(25:13)が、平和を憎む者として登場します。メシェクは、方舟を作ったノアの3人の息子の末息子、ヤペテの子孫。ケダルはアブラハム(彼自身はノアとの関係で言えば、ノアの長男セムの子孫)の側女ハガルとの間にうまれたイシュマエルの子孫です。もちろん、どちらにしても詩人と同時代の人ではありませんから、例えとして使われているのです。
 彼の言いたかったことは、「自分は平和を愛する者なのに、平和を憎む者たちの中で暮らしていて、彼らからの攻撃が絶えることなく苦しい。」ということです。私たちもまた平和を憎む社会の中で生きています。しかし、それはキリスト教徒として、非キリスト教国に生きているということでは決してありません。それは宗教としてのキリスト教が優勢な国であっても同じことです。
 今までの話からわかっていただけると思いますが、問われているのは、キリスト教会という組織に属しているのかどうかではなく、イエスに従って生きているのかどうかなのです。
 イエスに従って生きるとは、平和を憎んでいるかのような社会の中で、人々に平和をもたらす人として生きるという生き方です。

5. 平和をもたらす人となる

 先週、池田牧師が「クリスチャンは現実の社会にはあまり拘らず、もっぱら魂の問題だけに関わるべきだというのは誤解です」と話してくれました。これを平和という点で見るなら「社会的平和を追求する活動は、政治的な活動であり、クリスチャンにはふさわしくない。クリスチャンはもっぱら心の平和を祈りと伝道によってもたらすべきだ」という誤解です。
  そのような考え方が出てきたのには理由があります。それは、かつて教会が社会的な活動に重心を置いて、個人の魂の事柄について十分な配慮ができなくなっていた状態に対する反応だったのです。この願いに応えた教会では、個人の魂が何よりも大切と言う考えから、今度は教会の社会における役割を軽視することになってしまいました。それはアメリカで実際に起きていることです。
 数十年前、社会的弱者のことは配慮するのに、個人の内面的な平和については十分配慮してもらえていないと言う理由で、社会的な関心を持って活動に取り組む教会からは去る人が増え、個人的に魂のケアに重きを持つ教会に人が集まりました。しかし最近では、そのような教会に育った若者たちが、教会は社会とのつながりを拒む閉鎖的な場所だとして、そこから去りつつあります。教会はどちらかの極端に向かいがちだということです。

 しかしお話ししてきたように、社会の平和と、心の内面の平和は切り離せるものではありません。マハトマ・ガンディーやマザー・テレサやキング牧師のように社会的な平和を実現してきたのは、神様との内面的な平和を持っていた人々です。聖書は、社会に平和をもたらさない信仰は死んだものであるとさえ言っています(ヤコブ2:14-26)。
 イエスは従う者に平和をもたらす正義を求めます。イエスのもたらす平和は、心と体と魂の平和です。そのうちのどれかを軽んじることはできません。
 マハトマ・ガンディーはイエスの言葉に大きな影響を受けて、非暴力的抵抗によってインドを独立に導き、アメリカ公民権運動のキング牧師にも大きな影響を与えた人物ですが、彼は「イエスは尊敬するけれど、キリスト教徒は尊敬できない、イエスのように生きてはいないから」という意味のことを言っています。私たちは、彼のこの言葉にどう答えるべきでしょうか?

 イエスは私たちにこう語りかけています。

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、灯をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家にあるすべてのものを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」(マタイ5:13-16)

 一人一人の力は小さくても私たちは、その小さい力を合わせてイエスの期待に応えることができます。そのために、今ここですべきことがあります。一人一人が、主イエスのすぐ前に上ってゆき、こころからの礼拝を捧げてこの週の歩みを始めることです。

(祈り)神様、私たちの心をあなたの平和で満たしてください。
 私たちの家族を、この教会を、学校を、職場を、この国を、この世界を、あなたの平和で満たしてください。
 私たちを欺く者、偽る者のいる中で、あなたが平和をもたらすために、私たちを置いていてくださることを知っていますが、私たちは、とてもそれに耐えられなくなることがあります。
 そのような時にあなたが隣にいてくださり、支えていてくださることを何度も実感してきました。
 今そのような実感を必要としている一人一人に届いてください。病に苦しむ人に、人間関係で苦しんでいる人に、飢えている人に、私たちを用いて届いてください。
 あなたの平和を運ぶものとなれるように、私たちをあなたの霊で満たしてください。
 イエス・キリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

平和とは互いに良い関係が保たれた状態です。人と人、民族と民族、国と国の間で保たれなければ、そこに苦難が起こります。そして平和は脆く損なわれやすいものです。あらゆる平和の前提は、「一人の人と神様との間の平和」にあります。神様は、この神と人との関係を再生するために、一人の人イエスとしてこの世界に来られました。イエスを信じ、彼の弟子になるということは平和をもたらす人となることです

話し合いのために

1. イエスが私たちに教える、求めるべき平和とは?

2. あなたが平和のためにするべきことは何ですか?

子どもたち(保護者)のために

率直に平和とは何か?と問いかけてみてください。戦争について保護者が考えていることを伝えてください。戦時下の子供達の状況を想像させてみてください。親が徴兵されて戦地に赴くということ。ミサイルや爆弾で家が破壊されるということ。それは80年前に実際にこの国に起こったことでした。そして同様のことが今ウクライナで起きています。なぜ人間は戦争をやめられないのでしょうか?神様はそのことをどう思われているでしょうか?神様を信じる私たちは、神様に何を期待されているのでしょうか?