あなたの生きる糧はどこに?

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あなたの生きる糧はどこに?

ヨハネによる福音書6:1-15

池田真理

 今日もヨハネによる福音書の続きで、今日は6章1-15節を読んでいきます。この箇所は、イエス様がわずかな食糧で五千人以上の群衆を満腹させたという奇跡を記録しています。この奇跡は、イエス様の奇跡の中で唯一、四つの福音書全てに記録があります。そのため、おそらく、初代教会の中で最もよく知られた奇跡だったのだと考えられます。それだけ重要な意味がある話だとも言えるかもしれません。ただ、同じ奇跡の記録でも四つの福音書はそれぞれに違う強調点を持っており、特にこのヨハネ福音書は他の三つの福音書とは異なる視点を持っています。それが、今日のメッセージのタイトルにした問いかけです。「あなたの生きる糧はどこにあるのか?」です。この問いは「あなたは何を生きる糧として生きているのか?」とい問いかけでもあります。皆さんはどのように答えるでしょうか?
 それではいつものように少しずつ読んでいきましょう。まず1-4節です。

A. ヨハネからのヒント (1-4)

1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。

 この福音書を書いたヨハネは、これからイエス様が起こす奇跡を理解するためのヒントとなる情報を、ここで与えてくれています。それは4節、「過越祭が近づいていた」というところです。これは、他の三つの福音書にはない情報です。過越祭は出エジプトの出来事を記念するユダヤ人のお祭りで、ユダヤ人の先祖たちが神様の指示に従い、小羊を犠牲として、その血によって災いを免れ、無事にエジプトを脱出したという故事に基づいています。ヨハネは、これからイエス様が起こす奇跡はその過越祭と関連しているということを、私たち読者に伝えたかったのだと思います。具体的にどういう意味かは、また後でお話ししたいと思います。早速、奇跡の出来事全体を読んでいきましょう。5-13節です。

B. この奇跡を通してイエス様が教えたかったこと (5-13)

5 イエスは目を上げ、大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、フィリポに言われた。「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである。7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べたとしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と答えた。8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう。」10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草が多かった。それで人々はそこに座った。その数はおよそ五千人であった。11 そこで、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12 人々が十分食べたとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい」と言われた。13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお余ったパン切れで、十二の籠がいっぱいになった。

1. イエス様の恵みの大きさ

 イエス様はこの奇跡を通して多くのことを私たちに教えてくださっていますが、何よりもまず分かるのは、イエス様の恵みの大きさだと思います。わずかな食糧で何千人もの人々を満腹させ、それでもパンはまだたくさん残っていたというのは、普通はありえない話ですが、イエス様の起こした奇跡です。それは単純に、イエス様は私たちが生きるために必要なものを満たしてくださる方だということの証でもあります。しかもイエス様は、決してイエス様を信じていたわけではなく、利用しようとしていた人たちですら、差別しませんでした。イエス様の憐れみは私たち人間の想像を超えてはるかに大きく、その恵みは私たちの必要を満たしてまだ余りあるほどに大きいということが分かります。

2. 神様の救いの大きさ

 次に注目したいのは、パンを配る前のイエス様の言動です。11節には「そこで、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」とあります。これは、明らかに聖餐式が意識されています。聖餐式は、イエス様がその命を献げて私たちの罪を赦してくださったことを思い起こすためのものです。それがこの箇所に登場するということは、イエス様がここで群衆のためにパンと魚を分け与えた出来事は、イエス様がやがてご自分の体を私たちのために献げる十字架の出来事につながっているということです。最初に過越祭というヒントが与えられていたのも、このことを示すためです。イエス様は過越の子羊となられたということです。このことは、この6章全体を通してさらに明らかになっていきます。
 イエス様は、ただ私たちの身体的な必要を満たすだけではなく、ご自分自身を私たちに与えたいと願われています。十字架でイエス様の体が裂かれ、その血が流されたことによって、私たちの罪は赦され、私たちは罪から解放されて新しい命を与えられました。私たちがそのことを信じて、弱いままで強くされ、どんな時でも希望を失わないで生きられるようになること、それがイエス様が私たちに最も願われていることです。
 そうすると、この奇跡の話は、ただイエス様の恵みの大きさを教えているだけではなく、神様の救いの大きさをも教えているということが分かります。パンが裂かれ、人々の間で分け与えられ、人々が欲しい分だけ食べて満腹してもまだパンは余っていました。つまり、イエス様の体が裂かれて私たちに与えられた罪の赦しは、私たちがそれに与って救われて終わりではなく、私たちにはありえないと思えるほどの広がりを持っているということです。

3. 私たちは不可能だと思っていても神様には不可能ではない

 さて、それではここからは、イエス様と弟子たちのやりとりに注目したいと思います。
 イエス様はまずフィリポに、群衆を食べさせるためにはどこでパンを買ってくればいいと思うか、と尋ねました。それに対して、「フィリポは、『めいめいが少しずつ食べたとしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう』と答えた」とあります。1デナリオンは労働者の1日分の賃金なので、200日分の賃金に相当する額を払っても、まだ必要な量のパンは買えないということです。つまりフィリポはイエス様に「無理ですね。私たちには不可能です。あきらめてください」と言ったということです。イエス様はフィリポをよく知っていたので、予想通りのフィリポの現実的な返答に笑ったかもしれません。
 私たちは、多くの場合、フィリポと同じ反応をすると思います。現実的に「普通に」考えれば実現不可能としか思えないことを前にしたら、自分にできることは何もないと思うのは自然なことです。でも、そう簡単に決めつけてはいけないということを、イエス様とフィリポのやりとりは教えています。私たちは不可能だと思っていても、神様には不可能ではないかもしれないのです。だから、現実的な状況判断をすることも必要ですが、不可能と思われることの中でも神様に期待し続けることを忘れてはいけません。

4. 私たちのわずかな献げ物を神様は何千倍にもして用いる

 そして、ここで登場するのがアンデレです。アンデレは1章で最初に登場した時にも、自分の兄弟ペトロをイエス様に引き合わせていましたが、ここでもひとりの少年をイエス様に引き合わせています。その少年は、小さな大麦のパン5つと、おそらく付け合わせの調理済みの小さな魚2匹を持っていました。その子のお弁当だったのだと思います。アンデレは、「食料を持っている」と申し出た少年を尊重したのかもしれませんし、自分で群衆の中から少年を探して来たのかもしれません。どちらにせよ、アンデレはそんなわずかな食料ではどうしようもないと思いながらも、イエス様にそのことを伝えに行きました。結果は、読んだ通りです。五千人というのは成人男性の人数だけなので、女性や子供も加えれば、そこには一万人近くの人々がいたと考えられます。イエス様は、一人分にも満たないわずかな食料を、何千倍、もしかしたら何万倍にもして、用いられたということです。
 先に、この奇跡の出来事はイエス様の十字架を予見するもので、神様の救いの大きさを教えてくれているとお話ししましたが、私たちにはその神様の救いの働き中で果たすべき役割があります。救いを必要としている人たちは多い一方で、私たち一人ひとりにできることはあまりにわずかで、自分一人が何もしなくても何も変わらないと思ってしまうこともあります。でも、私たちの持てるものはわずかでも、この奇跡の出来事の通り、イエス様はそれを何千倍、何万倍にもして用いる方です。私たちに必要なのは、アンデレと少年のように、自分の持っているわずかなものをイエス様に差し出す勇気です。神様は、不完全で欠けの多い私たちの憐れみや愛を用いて、この世界にご自分の憐れみと愛を広げようとなさっています。

5.  「あなたはどこで生きる糧を得るのか?」と問いかける

 それでは、イエス様の最初の問いかけに戻りましょう。イエス様は最初にフィリポに「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と問いました。このイエス様の問いは、他の三つの福音書にはありません。他の三つの福音書では、お腹を空かせた群衆をイエス様が憐れまれて、弟子たちにパンを調達するように命じます。「どこでパンを手に入れられるか」と問いかけるのは、このヨハネ福音書の記録だけにあるイエス様の言葉です。ここに、ヨハネ福音書特有の強調点があります。ヨハネは、イエス様がここで尋ねているのは、単にお腹を満たすパンのありかではなく、人々の生きる糧のありかなのだと示しているということです。つまり、ヨハネによれば、イエス様は、「何が人を生かすのか?あなたはそれをどこで手に入れるのか?」と問いかけているということです。この問いは、弟子たち自身に、そして私たちに向けられています。「あなたはどこで生きる糧を得るのか?」そして「あなたは何を生きる糧として生きているのか?」
 今日読んできたイエス様による奇跡の出来事は、この問いに対するイエス様ご自身の答えです。イエス様はパンを与えてくださる方であり、イエス様は全ての人の必要を満たしてなお余りあるパンを持っておられます。そして、お話ししたように、イエス様の与えるパンとは、イエス様ご自身の体と命です。イエス様は、ご自分が私たちの生きる糧となりたいと願われているのです。私たちはイエス様になんと答えるでしょうか?
 
 それでは最後の14-15節を読んでいきましょう。

C. 私たちは何を求めてイエス様に近づくのか?(14-15)

14 人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来たるべき預言者である」と言った。15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、独りでまた山に退かれた。

 この当時、イエス様の真意を理解していた人は、弟子たちも含め、誰もいなかったのだと思います。人々はイエス様の超自然的な力にばかり注目して、その力を政治的または軍事的に利用しようとしました。また、イエス様は人々の病気を癒し、空腹を満たしましたが、私たちの身体的な必要を満たすことだけがイエス様の目的ではありませんでした。繰り返しになりますが、イエス様が私たちに受け取ってほしいと願ったのは、イエス様ご自身です。
 私たちは、イエス様に何を求めているでしょうか?イエス様は、私たちに都合のいい預言者でも、私たちの利益を守る王様でもありません。私たちはイエス様に何でも願っていいですし、イエス様は私たちの必要を満たしてくださる方ですが、イエス様と私たちの関係はそれで終わりではありません。孤独と絶望の中で、体の苦しみにも耐えて、イエス様は十字架で死なれました。私たちが、孤独にも絶望にも体の苦しみにも負けないで、この地上での命を生き切るためです。そして、共に復活の希望に与るためです。私たちの生きる糧となられたイエス様を、どうぞ知ってください。

(お祈り)主イエス様、あなたが私たちの代わりに十字架で死なれ、私たちに新しい命を与えてくださったことをありがとうございます。生きることの意味がわからなくなる時、疲れてしまった時、どうか、あなたの愛は決して尽きることなくいつも私たちに注がれていることを教えてください。そして、あなたの憐れみは私たちの想像をはるかに超えて広いことを、私たちに分かるように教えてください。自分の力に頼るのではなく、あなたに頼る謙虚さと勇気を与えてください。あなたの霊で、私たちの心にある思いを正しい方に導いてください。主イエス様、あなたに期待して、感謝して、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエス様が一人分に満たない食べ物で五千人以上の群衆を満腹させたという奇跡は、初代教会で最もよく知られた奇跡でした。この奇跡を通して、イエス様は私たちの生きる糧を惜しみなく与えてくださる方だということを教えられました。でもそれ以上に、イエス様は私たちに問いかけました。「あなたはどこで生きる糧を手に入れるのか?」また「あなたは何を生きる糧としているのか?」と。イエス様は、私たちの生きる糧となりたいと願われています。

話し合いのために

1. 人々が満腹して、なおパンは余ったことは、何を意味するのでしょうか?

2. フィリポと自分が同じだと思ったことはありますか?アンデレはどうでしょう?

子どもたち(保護者)のために

アンデレに注目してみてください。アンデレは1章で登場した時にも、イエス様に自分の兄弟であるペテロを引き合わせましたが、ここでもパンと魚を持っていた少年をイエス様に引き合わせています。アンデレ自身もそんなわずかな食糧では何の役にも立たないと思っていましたが、微かな希望を持ってイエス様に伝えました。食べ物を持っていると申し出た少年を尊重したのかもしれませんし、自分で群衆の中から少年を探し出して来たのかもしれません。私たちはアンデレに学ぶべきだと思います。自分では無理だと思っていても、役に立たないと思っていても、それでもそのままでイエス様の前に出て行って「役に立ちたい」と願うことです。結果はこのお話の通りです。