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主の名はイエス
詩編 124
永原アンディ
今日のテキストは124編です。今日は、その中の印象的な三つの記述についてお話ししようと思います。初めに5節までを読みます。
1. もしも、主が我らの味方でなかったなら (1-5)
1 都に上る歌。ダビデの詩。
「もしも、主が我らの味方でなかったなら」
さあ、イスラエルは言うがよい。
2 「もしも、主が我らの味方でなかったなら
人が私たちに逆らって立ち上がったとき
3 彼らの怒りが私たちに燃え上がり
私たちは生きたまま吞み込まれたであろう。
4 その時、大水が私たちを押し流し
激流が私たちの上を越えていったであろう。
5 その時、荒れ狂う水が
私たちの上を越えていったであろう。」
最初に心に留めたいのは「もしも、主が我らの味方でなかったなら」です。 イスラエルの民の民族としての記憶の原点は、旧約聖書の第二の書「出エジプト記」に記されている、「出エジプト」と呼ばれる出来事です。エジプトで奴隷状態に置かれ苦しんていた民を、神様が脱出させ約束の地カナンに導いた出来事です。
馴染みのない方は、出エジプト記を読むか、70年前の映画ですが、今でも販売、配信されている「十戒」を見てください。この出来事は、いろいろな説があって少し幅がありますが、紀元前1500年代から1200年代の間に起こったと考えられます。
今読んだ部分で、この出来事が民族の記憶として詩人の時代まで保たれていたことがよくわかります。そしてそれは、イエスの時代にも、そして今も保たれているのです。「もし神様が救いの手を差し伸べてくださらなければ、あのとき我々民族は滅ぼされていた」という共通理解が、どのように困難な時代でもイスラエル民族に希望を与えていたのです。
出エジプトの経験は、神様が自分たちの主として自分たちを見捨てないという確信の根拠でした。詩人がイスラエルの民に「さあ、言うがいい」と呼びかけているように、私も皆さんに、「もしも主が私たちの味方でなかったら」と言う言葉と、それに続く言葉を考えてみてほしいのです。そして、そのことを折にふれて思い起こしてほしいのです。なぜなら、私たちは神様の大きな恵みをいただきながら、簡単にそれがあることに慣れてしまい忘れてしまうからです。そして忘れてしまえば、その恵みを踏み躙るようなこともしてしまいます。
イスラエルの民はイスラエル脱出の旅が始まった途端に、その旅のつらさを嫌って「エジプトにいた方が良かった、奴隷であっても食べ物には困らなかった」と文句を言い始めます(出エジプト16:3)。その後のイスラエル民族の歴史も、恵みを忘れることによって、しなくても良い苦しみを苦しみ、政治も宗教も腐敗してしまいました。イエスはそのような時代に来られたのです。
神様の恵みとはちょうど大気のようなものです。それがなければ人は生きていけないのに、多くの人にとっては、あって当然のもので意識することもありません。それはさまざまな気体から構成されていて、被造物が生きるのに最適なバランスが保たれています。いえ、正確には「保たれていた」と言わなければならないかもしれません。人類はもっと富むことを求めて、このバランスを壊してきたからです。
ようやく最近になって、人々は繁栄のためにしてきたことが、実は大きな問題を引き起こしていることに気付き、方向転換しようとし始めたところです。
神様の恵みは、日々感謝して受け取らなければ、自分のものとはなりません。
その結果、魂は飢え渇き弱ってしまいます。礼拝はこの恵みを覚える時です。神様からの語りかけを聞き、それに応えて備えられている道を歩みますという応答の時でもあります。神様の恵みは過去のことではありません。私たちはその恵みを昨日も今日もとこしえに日々、感謝して受け取り、それを糧に歩みを進めるのです。
2. 網は破れ、私たちは救い出された (6,7)
6 主をたたえよ。主は私たちを人々の歯の餌食にされなかった。
7 私たちの魂は小鳥のように救い出された 仕掛けた者らの網から。
網は破れ、私たちは救い出された。
この部分では、自分たちの味方でいてくださった主が、自分たちにしてくださった内容が記されています。それは「網状のわなで捕えられた小鳥を、その網を破って自由にする」ようなことだったのです。彼らにとっての網はエジプトでの奴隷状態でした。神様は、イスラエルの民がそこから逃れたくても逃れられない状態を見て、網を破るようにエジプトに混乱を起こし、彼らを脱出させたのです。
皆さんには、主が自分を何か捕らわれているものから解放してくださった、という実感がありますか?それは、自分にとっての「エジプト」は何であったのかという問いでもあります。それは具体的に困難な状態であったかもしれませんし、精神的な問題であったかもしれません。人間関係の問題に直面してイエスを知った人もいれば、生きる意味を見出せない悩みの中でイエスと出会った人もいます。病気の苦しみの中でイエスを知った人もいます。私たちにとっての「エジプト」はさまざまな顔を持っています。そしてその本質は聖書で「罪」とよばれるものなのです。
出エジプトは、神様がイスラエルの民を現実的な苦しみから救い出した出来事ですが、エジプトという国やその支配者たちが特別に邪悪であったわけではありません。イスラエルの民がなぜエジプトにいたのかを知っていますか?その経緯は、旧約聖書の出エジプト記の前の書、聖書全体の最初の書である創世記の37章からの部分に記されています。その部分に、なぜエジプトでユダヤ人が増え、奴隷のような状態に置かれることになったのかが記されています。アブラハムの子孫ヨセフが、不本意な形でエジプトに売られたこと、彼が優れた指導力を発揮してエジプトを飢饉から救い、尊敬を受けたことからエジプトに住むイスラエル人の歴史は始まります。しかし時が過ぎ、エジプトで繁栄したイスラエル人はやがて奴隷の状態に置かれるようになってしまったのです。
富をもたらす土地を巡って人間は今でも争いを続けています。ずっと以前に飢饉から救ってくれた人の親族の子孫であっても、そこでマジョリティーを脅かすほど力を持てば、排除する。それは今でも世界のどこででも起こっていることでしょう。このようなことを起こすのが、人の心に宿る「罪」なのです。
私たちが皆、罪の奴隷であったことを使徒パウロは、ローマの信徒に宛てた手紙で明らかにしています。聖書のいう罪とは、神様から背を向けた心の状態で、利己的、自己中心的思いです。神様中心ではなく、自分中心なのです。一般的には「罪」とは法律を犯すことです。それは社会に、他者に損害を与えること、傷つけること、命を奪うことです。好きで人を傷つける者はごく少数でしょう。ほとんどの人は、人を困らせたい、傷つけたい、ましてや命を奪いたいとは思いません。けれども、自分の益を考えるときに、人の痛みには目をつぶってしまうのが私たちの性質です。
しかしそれは、単に個人的なことにはとどまりません。生活苦の中でスーパーやコンビニで食べ物を持ち帰ってしまう行為の責任を本人だけに問うことはできません。人の罪の性質は、多くの人の罪の性質と結び合って、人がコントロールできない社会の罪として、人を苦しめ、苦し紛れの犯罪を生み出すのです。
この厄介な罪の網から私たちを解放するために、神様は網を破って下さいました。それがイエス・キリストの十字架と復活です。それは背を向けていた神様にもう一度向き直るチャンスです。十字架は「罪の代価は支払われ、もう罪に問われない」ことを、復活は「もう罪に支配されずに、よみがえられた主と共に人生を歩み始められる」ことを私たちに約束しています。
3. 主の名 (8)
8 私たちの助けは
天と地を造られた主の名にある。
最後に注目したい点は「主の名」です。
ここまで、主が味方でいてくださったから、捕らわれていた状態から救い出されたこと、主が味方でいてくださるので、歩みを守られ将来を期待して生きることができる、ということが歌われてきましたが、この詩は「その助けは天と地を造られた神様・主の名にある」というこのまとめの句で閉じられています。しかし、「助けは主から来る」ではなく、なぜ「助けは主の名にある」と表現されているのでしょうか?そして、「主の名」とは何を指しているのでしょうか?ポイントは2点あります。一つは、実際主の名は何なのか、もう一つはなぜ「主の名」という表現をするのか、という点です。
まず神様の名前について考えてみましょう。神様の名前をご存知ですか?聖書の中には「主の名」「神の名」「御名」という言葉は、旧約、新約を問わずとても多く、合わせて200箇所くらい出てくるのに、肝心なその名は、日本語の聖書にも、英語の聖書にもほとんど見当たりません。数少ない例外は、私たちが使っている協会共同訳(新共同訳も)の創世記22章14節です。ここでは、他のほとんどの聖書が「アドナイ・イルエ、(英)”The LORD will provide”」と訳しているところを「ヤハウェ・イルエ」としていて、この「ヤハウェ・Yahweh(יהוה)」が神様の名前です。原語ではヤハウェ(יהוה)と記されている箇所は多くありますが、この例外の箇所以外は協会共同訳も他の翻訳と同様に「主」と読み替えています。それは、ユダヤ人が守ってきた、ヤハウェと表記されているところをアドナイ(私の主)と読み替えるルールに従ったためです。協会共同訳の例外箇所は、地名だったからだと思います。このことは、十戒にある「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めに対する応答と考えられています。
ヤハウェの意味は「私はいる(あるいは「ある」)」で、出エジプト記 3:14で神様はモーセの問いに答えて「私はいる(「ある」とも訳せる)、という者である。」(I AM WHO “I AM”)と言われたことが記されています。
次に、なぜ「主の名」という表現なのかということを考えましょう。私たちは「名」を単に他と区別するための標識のように考えがちですが、聖書で使われる「名」にはそれ以上の意味があります。聖書では、「名」はその人の内実を表すものです。「神の名」ということですが、これは単に神様の「お名前」ということではなくて、神様がどのような方であるのかを表しているということです。神様の名は実体の見えない神様の存在・神様の臨在を表しているのです。
最後に、私たちにとって主とはイエスであるということをお話しして終わろうと思います。イエスという名は「ヤハウェは救い」という意味のイェホーシューア(短縮形ヨシュア)のギリシャ語読みです。そして、キリストは油を注がれた(聖別された)者=メシア。イエス・キリストのキリストはラストネームではなく、イエス・キリストで救い主・イエスという意味です。ヨシュアという名前の人が聖書に多く出てくるようにイエスは普通の人名でした。しかしイエスはご自身のことをこのようにも言っています。ヨハネによる福音書8:55-59です。
55 あなたがたはその方を知らないが、私は知っている。私がその方を知らないと言えば、あなたがたと同じく私も偽り者になる。しかし、私はその方を知っており、その言葉を守っている。56 あなたがたの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」57 ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、58 イエスは言われた。「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。。
これはまさに、イエスが「私の名は『私はある』とあなた方に呼ばれてきた神です」と言っているわけですから、ユダヤ人たちが逆上するのも無理はありません。私たちが信じるイエスの名は、神様の名の最終形です。イエスは罪の網から私たちを解放し、私たちの歩みを、共に歩んで導いてくださる方なのです。
(祈り)
神様、あなたの名をほめたたえます。
もしもあなたが救ってくださらなければ、あなたの恵みを受け取り損ねていたことでしょう。
今も罪の力が人々を苦しめる世界にあって、あなたの名を信じ、あなたに従って歩むことのできる幸いをこころから感謝します。
私たちの主、イエスキリストの名前によって祈ります。
メッセージのポイント
名は他との識別に使われるだけでなく、そのものの実態を表すものです。神様がモーセに知らせたご自身の名、ヤハウェ=私はある(いる)は、目には見えない神様を信じて歩み続けたイスラエル民族にとって、唯一の希望でした。しかし、イエスとしてこの世界に来てくださったことで、神様はイスラエルだけではなく全ての人を救い、導く方としてご自身をあらわされました。イエスキリストの名は、神様の名の最終形です。私たちは「主の名はイエス」と宣言します。
話し合いのために
1. もし主を知らなかったら、今のあなたはどのように生きていたでしょう?
2. あなたが捕らわれていた網は何ですか?
子どもたち(保護者)のために
出エジプトの話と共に、自分のイエスとの出会い、なぜイエスを信じる決心をしたのかを子供たちに話してあげて下さい。