嵐の中でイエス様に会う

Henry Ossawa Tanner, Public domain, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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嵐の中でイエス様に会う

ヨハネによる福音書6:16-21

池田真理

 今日もヨハネによる福音書の続きで、今日は6:16-21を読んでいきます。この箇所も前回に引き続き有名な箇所で、嵐の中をイエス様が水の上を歩いて弟子たちの舟に追いついたという奇跡を記録しています。前回読んだ五千人の群衆に食事を配る奇跡は四つの福音書全てに記録されているとお話ししましたが、今日の箇所はルカ以外の三つの福音書に記録されています。そして、三つの福音書全てが前回の箇所と今日の箇所を連続して記録しているので、おそらく、実際にこの二つの出来事は連続して起こったのだと考えられます。短い箇所なので、最初に全体を通して読みたいと思います。

16 夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。17 そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスは彼らのところにまだ来ておられなかった。18 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。19 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出した頃、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。20 イエスは言われた。「私だ。恐れることはない。」21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた

 お気付きかもしれませんが、マタイとマルコの記録と比べると、このヨハネの記録はとても短く、情報量が少ないです。参考に、マルコ6:45-52を読みます。

(マルコ6章)
45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。46 そして、群衆と別れると、祈るために山へ行かれた。47 夕方になった頃、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。48 イエスは、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜明け頃、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。49 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声を上げた。50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話をし、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった。弟子たちは心の中で非常に驚いた。52 パンのことを悟らず、心がかたくなになっていたからである。

 マタイの記録は、このマルコの記録にプラスして、ペトロが水の上を歩こうとしたエピソードが挿入されています。また、細かいことですが、一行はどこを目指していたのか、最終的にどこに着いたのかについての情報は、それぞれ微妙に違っています。ヨハネは一行はカファルナウムを目指していてカファルナウムに着いたとしていますが、マルコは彼らは最初はベトサイダを目指していたけれど最終的にゲネサレトに着いたとしており、マタイは彼らがどこを目指していたか明記せず、ゲネサレトに着いたとしています。どれが真相かは分かりません。でも、誰かが故意に事実を曲げたわけではなく、それぞれに微妙に違う伝承が伝わったのだと考えられます。

 それでは、前置きが長くなりましたが、ヨハネの記録とマタイ・マルコの記録を比べて分かることを確認していきたいと思います。

A. 他の福音書と比べて分かること(マタイ14章・マルコ6章参照) 
1. 追加の情報

 まず、マタイとマルコの記録から得られる追加の情報が4つあります。
 一つ目は、弟子たちがイエス様を陸に残して彼らだけで湖を渡ろうとしていたのは、彼らの勝手な行動ではなく、イエス様が彼らにそうするように命令されたからだということです。イエス様は、群衆を解散させ、一人で祈るために、弟子たちを先に行かせました。
 でも、マタイとマルコによれば、イエス様は弟子たちが湖の上で逆風に漕ぎ悩んでいるのを見て、彼らの元にやってきたとあります。これが二つ目の追加情報です。イエス様は、弟子たちを先に行かせましたが、彼らが困っているのを放ってはおかれなかったのです。
 また、マタイとマルコには、イエス様が水の上を歩いて来られるのを見て弟子たちが恐れたのは、イエス様のことを幽霊だと思ったからだと分かります。弟子たちは、水の上を人が歩くなんて信じられず、暗闇の中で舟が波にもまれる不安の中で、イエス様をイエス様と認識できず、恐怖を深めるばかりでした。これが三つ目の追加情報です。
 そして、最後の四つ目の追加情報は、イエス様が舟に乗り込むと嵐は静まったということです。ヨハネの記録には嵐が静まったという記述がないのですが、それまで湖の真ん中で進めなくなっていた舟がすぐに目的地についたということは、嵐が静まったからだと考えていいと思います。イエス様は嵐を静められたのです。
 この4つがマタイ・マルコの記述から得られる情報で、ヨハネの記述にはありませんが、ヨハネの記述とも矛盾しない追加情報と考えて良いと思います。

2. ヨハネ福音書独自の強調点

 でも反対に、3つの福音書の記述を比べると、3つの福音書が明らかに異なる強調点を持っていることも分かります。それが次に触れておきたいたい点です。3つの福音書で明らかに異なるのは、それぞれの結語です。

すると間もなく、舟は目指す地に着いた。(ヨハネ)

弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンのことを悟らず、心がかたくなになっていたからである。(マルコ)

(弟子たちは)「本当にあなたは神の子です」と言って、イエスを拝んだ。(マタイ)

マルコは弟子たちの無理解を強調している一方で、マタイは弟子たちの信仰を強調していて、正反対の結語と言えます。そして、ヨハネはどちらとも違い、舟は目指す地に着いたという事実を強調しています。これは、ヨハネはこの箇所で弟子たちの態度に注目するのではなく、イエスという方は何者なのか、という問いに集中しているからだと思います。ヨハネが強調したかったのは、イエス様は私たちを必ず目的地に連れて行くことのできる方なのだいうことです。

 それでは、ここからは、既にお話ししたことと重なりますが、この箇所が私たちに教えてくれることをもう少し詳しく考えていきたいと思います。

B. イエス様と私たちの旅
1. 私たちを送り出す

 まず、イエス様が自分は陸に残って、弟子たちを舟に乗らせて先に向こう岸に行くように命じたことについてです。イエス様は弟子たちに、ご自分がいない中で、自分たちの力で先に行くように命じたということです。ただ、ここで一つ私たちが覚えておくべきことは、弟子たちのうち半数近くが漁師で、この湖は彼らの故郷の湖だったので、彼らにとってこのイエス様の命令はそんなに難しいことではなかったはずだということです。イエス様は彼らに無茶な要求をしたのではありませんでした。
 私は、このイエス様の命令は、いつも私たちが日曜日の礼拝の最後に聞く祝祷の言葉と同じだと思います。イエス様は、私たちをそれぞれの場所に送り出します。言い換えれば、私たちは、日曜日の教会を離れて、イエス様を知らない人たちの中に、平日の日常の中に送り出されます。家族、友人、同僚、顧客、患者、様々な人々のところに、イエス様に先立って送り出されます。私たちはその人たちの間で、イエス様なしに、自分の力だけで進んでいかなければいけないと感じます。それは、弟子たちが故郷の湖に送り出されたように、私たちの日常で、最初は決して難しいことではないかもしれません。

 でも、やがて夜が来て、暗雲が立ち込め、風が吹き始めます。自分ではどうしようもない事態に巻き込まれて、大波にもまれる舟のように、私たちの心は揺れ動き、不安と恐怖でいっぱいになってしまうこともあります。信頼していた人に裏切られたり、大切な人との別れを余儀なくされたり。思いがけず自分が病気になったり、愛する人が病気に倒れたりすることかもしれません。または、急な出来事ではなく、じわじわと追い詰められるようなこともあります。少しずつ人との関係が壊れていったり、夢をあきらめなくてはならなくなったり。自分自身の犯した取り返しのつかない過ちに絶望することもあるかもしれません。

2. 水の上を歩いて私たちの元に来てくださる

 私たちは、そのような困難の中で、イエス様とは分断されたように感じます。私たちとイエス様の間には嵐に荒れる湖があって、イエス様には自分のことが見えていないし、イエス様にもどうしようもないだろうと思うかもしれません。または、目の前の嵐に翻弄されるあまり、イエス様のことをすっかり忘れてしまうかもしれません。
 でも、イエス様は嵐の中を水の上を歩いて私たちの元に来てくださる方です。イエス様は、私たちを送り出した後も、ずっと私たちを見守っていて、私たちが困難に遭えば、どんん障害も障害とせずに、私たちのそばに来てくださいます。私たちの心に嵐が起こっていて、イエス様は自分のことを忘れてしまったのだと疑ったり、助けを求める余裕すら無くしたりしても、イエス様の方から私たちに近づいてきてくださいます。イエス様が嵐の中を水の上を歩いてこられたというのは、私たちの疑いや恐怖がどんなに大きくても、それらがイエス様が私たちを愛するのを妨げる障害にはならないということです。つまり、私たちがどんなに不信仰で弱くても、イエス様はそんな私たちを愛するのをやめません。むしろ私たちが弱い時にこそ、私たちに分かるようにご自分のことを教えてくださいます。人が水の上を歩くということは常識では考えられないことですが、イエス様がそれをされたのは、イエス様の私たちへの愛が常識外れに大きいからです。
 ただ、私たちはイエス様が来てくださっても最初は幽霊だと思って怯えるかもしれません。イエス様ご自身が「私だ、恐れることはない」と語りかけるのを聞かなければ、私たちの心は曇ったままかもしれません。イエスという方を認識して初めて、私たちの心に安心が訪れます。

3. 嵐を静める

 さらに、ここで注目したいのは、イエス様は嵐が静まったから来てくださったのではなく、イエス様が来たから嵐は静まったということです。イエス様は私たちに旅をさせますが、私たちに「自分で嵐を静めなさい」とは言わないし、「何とか自分で嵐を乗り越えなさい」とも言われません。「嵐がおさまるまで、ただじっと耐えなさい」とも言われません。嵐の中で苦しむ私たちのところに来て、嵐を静めてくださいます。
 そして、ここでさらに注目していただきたいのは、厳密に言うとイエス様は嵐を静めていないということです。マルコの記録にはこうありました。

イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった。

マタイの記録にはこうあります。

二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

ヨハネの記録では、先にお話しした通り、嵐が静まったということ自体の記録が省かれています。つまり、3つの福音書全ての記録で、イエス様は能動的に「嵐よ、静まれ」とは命じていないということです。別の箇所で似た記述はあるのですが、それは今日の箇所とは内容が違うのでここでは無視していいと思います。イエス様は嵐を静めたのではなく、イエス様が来たから嵐は静まりました。

 これは、イエス様が私たちと共にいるということが嵐が静まる結果をもたらす、ということを示していると思います。つまり、私たちがイエス様と共にいるなら、嵐は嵐でなくなるということです。嵐の中でイエス様に出会ったら、そこはもう嵐の中ではなくなります。私たちが直面している具体的な困難の状況が変わらなくても、イエス様が共におられるという確信を持てたら、その困難は希望に変わるということです。私たちは、神様が私たちを決して見捨てず、いつも共におられると確信できるから、どんな状況においても絶望せずにいられるのです。

4. 必ず目的地に連れて行ってくださる

 そして、今日最後に確認しなければいけないのは、先にも少しお話しした通り、イエス様は私たちを必ず目的地に連れて行ってくださるということです。それは、私たちの信仰の強さや意志の強さなどによるのではありません。嵐が静まるのと同じで、私たちがイエス様と共にいるなら、イエス様の力で必ず目的地に着きます。
 ただし、その目的地というのはイエス様が定めた場所で、私たちが自分勝手に決めた場所ではありません。イエス様は、私たちそれぞれに行くべき場所、すべきこと、会うべき人を示してくださいます。それは、その時によって、人それぞれに異なっていて、一通りではありません。カファルナウムを目指してカファルナウムに導かれる場合もあれば、ベトサイダを目指してゲネサレトに導かれる場合もあります。どれか一つが正解なわけではなく、イエス様と共にする旅に遠回りも近道もありません。
 でも、私たち全てが最終的に辿り着くのは同じ場所です。神様と共に永遠に生きる場所、神様の国です。そこは、良いことをした報いに入れるところではなく、ただただ、神様と共にこの地上の人生を歩んだ先に導かれるところです。弱くても間違っても問題ありません。イエス様は、嵐の中で、水の上を歩いて、私たちのそばに来てくださいます。どうぞ、あなたの舟の上に、イエス様を迎え入れてください。

(祈り)主イエス様、どんな時でも希望を失わずにいられるということの恵みを感謝します。でも、世界中で起きている紛争や戦争の中で、人が人の生きる希望を奪っていることがどんなに多いでしょうか。パレスチナとイスラエルの和解をどうか助けてください。双方の攻撃をやめさせてください。双方を支援する国々の指導者たちが攻撃を激化させないための正しい判断を下せるようにしてください。あなたが命を捧げて教えてくださった私たちの罪の重さとあなたの罪の赦しの大きさを考えます。どうか私たちが本当に絶望に希望をもたらす者となれるように助けてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエス様と共に人生を歩む私たちは、時にイエス様に先立って送り出されて、イエス様なしに自分の力だけで前に進まなければいけないと感じることがあります。でも、私たちは皆、イエス様に送り出されたのであって、イエス様は私たちのことをいつでも見守っています。思いがけない苦難がやってきて私たちの心に嵐が起こる時、イエス様は嵐の中で私たちに会いに来てくださいます。私たちの心が不安や恐れで一杯で、イエス様を疑ってしまっても、イエス様は私たちに分かる方法で近くにいることを教えてくださいます。そして、必ず最後まで一緒にいて、目的地に連れて行ってくださいます。

話し合いのために
  1. あなたの心が嵐の状態の時のことを話してください。イエス様はその状態のあなたをどのように助けてくれましたか?
  2. 私たちがイエス様と共に目指している目的地とは?
子どもたち(保護者)のために

このヨハネの箇所よりもマルコ6:45-52を読んで(絵本などでもいいです)、船の中の弟子たちになったつもりでこの場面を一緒に想像してみてください。「嵐」はたとえです。心の天気のようなものを、子供たちは想像できるでしょうか?晴れの時、曇りの時、雨の時、嵐の時、それぞれ心がどんな状態だとそう感じるでしょうか?心が嵐の状態の時が想像できそうだったら、この箇所の場面を当てはめて、イエス様はどうやって私たちを助けてくださるのか、考えてみてください。心の嵐の想像が難しければ、それぞれの天気でイエス様とどう過ごすのか自由に話し合ってみてください。