真の平和を実現する方法

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真の平和を実現する方法

2023年待降節第二日曜日
イザヤ書 11:1-9

池田真理

 

クリスマス第二週の日曜日です。クリスマスは、この世界に平和をもたらすために生まれたイエス様をお祝いする時ですが、最近の世界情勢は戦争や紛争が増えるばかりで、平和の王が生まれたということを信じるのはどんどん難しくなっているのかもしれません。 

 今日は、聖書で預言された平和の王とはどんな方で、真の平和とはどういうものなのかを、イザヤ書11章を読んで考えていきたいと思います。 

前半と後半に分けて読んでいきます。まず、1-5節です。

A. 真の平和をもたらす人 (1-5)

1 エッサイの株からひとつの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち
2 その上に主の霊がとどまる。知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊。
3 彼は主を畏れることを喜ぶ。その目の見えるところによって裁かず/その耳に聞くところによって判決を下さない。
4 弱い者たちを正義によって裁き/地の苦しむ者たちのために公平な判決を下す。その口の杖によって地を打ち/その唇の息によって悪人を殺す。
5 正義はその腰の帯となり/真実はその身の帯となる。

 先週のメッセージでも説明がありましたが、この言葉が書かれた当時の社会情勢は、イスラエルの人々にとって苦しいものでした。かつて栄えたダビデの王国は南北に分裂し、北王国はアッシリアに征服され、残った南王国もアッシリアの属国として辛うじて残っている状態でした。イザヤは、内乱の痛みを抱えながら強国の脅威を目の前にした人々に向けて、この言葉を語ったということです。 

 それは結局、皮肉にも、全ての時代に通じる預言になりました。この世界では戦争が絶えないからです。イザヤは、戦争をやめられない私たちに向けて、真の平和の王の登場を信じて待つようにと語りかけています。それでは、その方はどういう方なのか、イザヤの言葉を1節ずつ確認していきましょう。

1. ダビデの家系から生まれる (1)

 まず1節「エッサイの株からひとつの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち」とあります。  エッサイはダビデの父親の名前です。  エッサイは羊飼いで、彼の一番下の息子がダビデです。 神様は、身分の低い羊飼いの家系のダビデをイスラエルの人々の王に選んだだけでなく、ダビデの子孫からやがて救い主を生まれさせると約束していました。 

 ただ、ここで「ダビデの家から救い主が現れる」ではなく「エッサイの株から」と言われているのには理由があると思います。 救い主が生まれる家系は、ダビデという王様の家系ではなく、身分の低い羊飼いのエッサイの家系であるということをイザヤは強調したかったのだと思います。救い主は、一時栄華を極めながらも堕落した王朝の家系から現れるのではなく、貧しい羊飼いの中から王様を選び出す神様の選びと力によって現れます。 このように、私たちの世界に真の平和をもたらす特別な王は、神様の約束に基づき、必ず現れると預言されていました。 

2. 主の霊がとどまる (2-3a)

 次の2-3a節には、その王には主の霊がとどまるということが言われています。その霊は「知恵と分別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れる霊」で、「彼は主を畏れることを喜ぶ」とあります。サウルやダビデが王様になれたのは神様が彼らにご自分の霊を注いだからで、彼らが失脚したのは神様の霊に逆らったり頼らなくなったりしたからでした。やがて現れる真の平和の王は、そのような失敗を犯さず、常に神様を正しく畏れ、主の霊が常に共にある方です。それは実際、神様と一体で、神様の霊と一体であるということで、その方は普通の人間を超えた存在です。

3. 目に見えない真実を見抜く(3b)

 3節の後半には「その目の見えるところによって裁かず/その耳に聞くところによって判決を下さない」とあります。  これは、言い換えると、目に見えないことを見通し、耳には聞こえないことを感じ取って、真実を見抜いて判決を下すということです。これはとても難しいことだと思います。 正義と真実は切り離せません 真実を見抜くことができて初めて正義を行うことができます。 でも、常に完璧に真実を見抜き、何事においても完全な正義を実行することは、人間には不可能です。それができるのは全知全能の神様だけです。 つまり、真の平和をもたらすことができる王は、神様ご自身であるということです。

4. 政治的権力や軍事力や経済力に左右されない (4a)

 そして、4節の前半にはこうあります。「弱い者たちを正義によって裁き/地の苦しむ者たちのために公平な判決を下す。」 聖書の参考書でこの部分の解説を読んでいたら、面白い解説がありました。このイザヤの言葉が書かれた古代中近東の世界でも、弱者の利益を守るのは王や貴族の務めであると、少なくとも名目上は周知されていたということです。 でも実際は、どんな王でも、権力のある貴族や軍人や富豪の利益を守らなければ王でいられなくなるので、政治権力や軍事力や経済力と無関係でいられる王はいない、と解説されていました。つまり、弱者を守るのが権力者の義務だとしても、強者の利益と無関係でいられる権力者はいないということです。

 では、政治が世界を良くすることをもう一切期待してはいけないということなのかというと、そうではないと思います。  権力者が権力を自分勝手に使うことがないように法律で縛り続け、市民が権力者を見張っていることが大切だと思います。そして、ここでイザヤが教えているのは、真の平和の王は、人間の政治権力や軍事力や経済力とは全く無関係に、弱い人や苦しんでいる人の利益を守る方であるということです。

5. 言葉で悪を裁く (4b)

 さらに、4節の後半ではこう言われています。「その口の杖によって地を打ち/その唇の息によって悪人を殺す。」  これは、この世界に平和をもたらす救い主は、言葉を武器として悪を裁くという意味です。 このことに関して、新約聖書のヘブライ人への手紙にこんなふうに言われています。ヘブライ4:12-13です。

12 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。13 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

神様の前では、人間の偽善やごまかしは何も力を持ちません。どんな権力者も、人を欺くことはできても神様を欺くことはできません。

6. 正義と真実の人 (5)

 だから、この部分の最後、5節でこう言われています。「正義はその腰の帯となり/真実はその身の帯となる。」 日本語では「真実」と訳されていますが、英語は“faithfulness”(誠実) と訳されているように、神様が真実な方であるということは、神様が誠実な方であるということと同じ意味です。 真実と正義を守ることにおいて誠実な方であるとも言えます。
 それはまた、最初にあった「エッサイの株からひとつの芽が萌え出る」という預言に対する誠実さでもあります。 神様は一度約束されたことを違えることは決してありません。 真実と正義によってこの世界に真の平和をもたらす王は、確かに神様が約束された通りにこの世界にやって来られました。 それが、二千年前のクリスマスに起こったことでした。 イエス様は、神様の約束された、真の平和をもたらす王です。

 では、イエス様が2千年前に来られたのに、この世界に平和が実現していないのはなぜなのでしょうか?  それは、イエス様はご自分の働きを私たちに委ねて、私たちがイエス様の思いを受け継いで行くことに期待しているからです。  イエス様が望む世界の姿はどんな状態か、続くイザヤの預言の言葉がよく教えてくれます。6-9節を読んでいきましょう。 

B. 真の平和とは (6-9)

6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み/小さな子どもがそれを導く。
7 雌牛と熊は草を食み/その子らは共に伏す。/獅子も牛のようにわらを食べる。
8 乳飲み子はコブラの穴に戯れ/乳離れした子は毒蛇の巣に手を伸ばす。
9 私の聖なる山のどこにおいても/害を加え、滅ぼすものは何もない。水が海を覆うように/主を知ることが地を満たすからである。

1. 強者が弱者に危険や恐怖を一切もたらさない世界

 狼と子羊が共にいて、ヒョウと小山羊が一緒に寝て、ライオンと子牛が一緒に草を食べている世界とは、どういう世界でしょうか。 小さい子供が毒蛇の巣に手を入れても大丈夫とも言われています。 これらを文字通りに自然界の変化と解釈することもできますが、私は人間の社会のたとえだと思います。 つまり、強者が弱者に危険や恐怖を一切もたらさない社会です。
 誤解のないようにお願いしたいのですが、私はここで強者と弱者という言葉を社会的な特権をより多く持っている人と持っていない人という意味で使っていて、人間的に強い人と弱い人という意味で使っているのではありません。 多数派と少数派、富裕層と貧困層、健康な人と病者、健常者と障がい者など、色々な言い換えができると思います。 
 強者が弱者に危険や恐怖を一切もたらさなくなるということは、単に強者が弱者の権利を奪ったり害を及ぼしたりしなくなるというだけにとどまりません。 ここで預言されている真に平和な世界というのは、強者が弱者を支配するのをやめるだけではなく、強者が弱者を保護して、弱者から学ぼうとする姿勢を持つ世界だと思います。
 日本の児童福祉分野で活躍した人の言葉で、「この子らを世の光に」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 戦後の日本で知的障害のある子供達のために生涯を捧げたキリスト者、糸賀一雄さんの言葉です。 「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」です。 知的障害のある人たちは、人の助けを必要とする弱いだけの存在ではなく、私たちに人間として大切なことは何かを教えてくれる存在であるという信念に基づいた言葉です。 これは、6節の最後にある「小さな子どもがそれを導く」にもつながります。

 

2. 弱者が強者を先導する世界

狼と子羊、ヒョウと小山羊、ライオンと子牛、それらを小さな子どもが導くという描写は、かわいい絵本のような印象を受けます。 でも、イザヤの伝えようとした真の平和とは、かわいい絵本の一場面ではありません。 真の平和とは、強者が弱者に害を及ばさないだけでなく、弱者が強者を先導していく世界です。 それは、知識の多さや力の強さや経験の豊富さや特別な能力を持っていることよりも、子どものように単純にシンプルに素朴に他者の助けを当たり前に求めることが尊ばれる世界です。 弱くて他人の助けを必要とする人こそが人を導くリーダーにふさわしく、この世界を平和に導くのにふさわしいということです。 それは、子どものように神様を信頼する信仰を持つ人こそ、この世界に平和をもたらすことができるとも言えるかもしれません。 神様がこの世界に平和をもたらすために用いるのは、人にも神様にも助けられなければ生きていけない弱い人なのです。

3. 誰もが自分の利益よりも神様の意志の実現を求める世界

 9節の最後に、平和な世界を実現するための鍵が何か言われています。「私の聖なる山のどこにおいても/害を加え、滅ぼすものは何もない。水が海を覆うように/主を知ることが地を満たすからである。」 神様がどんな方であるかがこの世界で知られることによって、世界から争いはなくなると言われています。 神様がどんな方かは、1-5節で語られてきた通りです。 神様は真実と正義の方で、ダビデの子孫として、人としてこの世界に来られた平和の王です。 悪を裁き、強者に与せず、弱者を守る方です。 神様がそういう方であるということがこの世界で知られるようになるということは、この世界で神様がどういう方かを伝えていく人が必要だということです。 しかも、それはただ言葉で神様に関する知識を伝えることではなくて、神様の正義とは何か、誠実さとは何か、愛とは何かを、行動で示し、生き方で体現していくことです。
 
 最後にまとめたいと思います。 神様がこの世界に望まれている真の平和は、単に戦争がない状態ではありません。 戦争がなくなるのは当然ですが、勝者と敗者の区別がなくなり、強者が弱者を支配する構造自体がなくなることです。 それを完全な形で実現するのは人間には不可能ですが、それが神様の望みであると私たちが知っていることは重要です。 そして、その理想に着実に近づく方法を、神様は既に私たちに与えてくださっています。 他人の罪のために自らの命を捧げたイエス様の愛に従って、私たちが互いに許し合い、愛し合うことです。 その実行を妨げるのは、邪悪な独裁者なのではなく、私たち一人ひとりの自己中心性という罪です。 神様の愛によって一人ひとりが内側から造りかえられ、真の平和が私たちの周りから実現していくように求めていきましょう。

(お祈り)この世界を創られた神様、どうぞこのクリスマスの時、あなたが望まれる本当の平和を私たちがもっと良く知ることができるように助けてください。 そして、それとは程遠い世界の現状の中で、私たちがあなたの正義を求めて祈り続け、行動していくことができるように助けてください。 家族の中で、友人の中で、職場で、あなたの平和が実現するために私たちを用いてください。 弱いままで、あなたの助けを求めて、喜ぶことができるように、それこそが最も大切なことであると私たちがもっと自分で知ることができますように。 主イエス様、あなたがこれらのことを私たちに教えるためにこの世界に来られたことを、ありがとうございます。 あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

神様がこの世界に望まれている真の平和は、単に戦争がない状態ではありません。戦争がなくなるのは当然ですが、勝者と敗者の区別がなくなり、強者が弱者を支配する構造自体がなくなることです。それを完全な形で実現するのは人間には不可能ですが、それが神様の望みであると私たちが知っていることは重要です。そして、その理想に着実に近づく方法を、神様は既に私たちに与えてくださっています。他人の罪のために自らの命を捧げたイエス様の愛に従って、私たちが互いに許し合い、愛し合うことです。その実行を妨げるのは、邪悪な独裁者なのではなく、私たち一人ひとりの自己中心性という罪です。

話し合いのために

1. ここで教えられている真の平和とは?

2. その平和を実現するために、私たち一人ひとりに何ができますか?

子どもたち(保護者)のために

平和とは何か、どういう状態か、どういう人がリーダーになればそれは実現できるか、子どもたちと話し合ってみてください。難しければ、6-8節の動物たちのたとえで話すといいかもしれません。ケンカの強い人も弱い人も、勉強の好きな人も嫌いな人も、スポーツの得意な人も苦手な人も、にぎやかな人も静かな人も、みんなが安心して幸せにいられるためには、みんなが何に気をつければいいと思いますか?この世界を作った神様は、この世界に生きる人がみんな、自分のことだけではなくて、神様のことを一番に考えることで、みんなが安心して幸せに生きられるようになると教えています。それってどういうことでしょう?