真の礼拝を再発見する

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日曜礼拝・英語通訳付

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真の礼拝を再発見する

永原アンディ

 先週と先々週、にユアチャーチのメンバーのカヴェナント(誓約)についてお話してきました。そこで何度となく繰り返されて来た最優先すべきこととは何だったでしょうか?それは神様を礼拝するということでした。そして、それは日曜日の礼拝式に出席するというようなことではないということも確認しました。今日はそのワーシップについてお話しします。

A. ワーシップとは何か?
1. 真の礼拝 (ローマの信徒への手紙12:1)

こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。 (ローマの信徒への手紙12:1)

 旧約時代の礼拝の中心は犠牲を捧げる事にありました。この事に今も変更はありません。もちろん私は動物の生贄をここで捧げるべきだと言いたいのではありません。献金のことでもありません。 

 神様が求めているのは、実はもっと高価な生贄なのです。自分自身を捧げるということです。それが礼拝の本質です。

 週の最初の日の朝一番に聞かせるには忍びないほど重い言葉ですね。時々冗談で、チャペルの中心に燔祭(いけにえ)の台を置くのはどうでしょうと提案するのですが、そこに載せられるのは羊ではなく、私たちであるべきだとパウロはいうのです。でも安心してください。神様の求めるいけにえは、私たちの肉ではなく、打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心(詩 51:19)です。つまり、イエスが律法学者に答えられたように、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして礼拝する事なのです。

 お気づきだと思いますが、ユアチャーチで歌う歌はほとんど神様に向けられた二人称の歌です。みんなに聴かせる神様についての歌ではなく、神様に向って歌う捧げ物だからです。   

 礼拝の核心は、言葉や音楽によって「自分が恵まれる」ことではなく、自分自身を主の前にいけにえとして献げることです。多くのクリスチャンは、メッセージ、説教が礼拝の中心と考えています。しかし私たちはそう考えません。主に向かって歌う事はメッセージの前後の添え物ではなく礼拝の核心だと考えているのです。

 ワーシップは神聖な気持ちになれるカラオケではありません。歌うのは、自分が気持ち良くなるためでも、人に聞かせるためでもありません。主に向かっての愛の告白であり、助けを求める叫びであり、主をほめたたえることです。 

 そして、それは一方通行のものではありません。主は、私たちの真剣な呼びかけに答えてくださいます。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして歌うだけではなく、主からの応答を、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして聞こうとする時でもあるのです。

2. イエスとのデートを楽しむ (詩編 28:7)

主はわが力、わが盾。私の心は主に信頼し私は助けられ、心は喜び躍る。私は歌を献げて主に感謝する。 (詩編 28:7)

 ワーシップは日本語では”礼拝”と訳されています。「ワーシップ」と訳された言葉の元々の意味は 身を屈める、敬意と誉れを捧げる、身を折り曲げる、身を低くする、敬う、向きなおってくちづけする、ひざまずいて崇める、というようなものです。

 なぜ私たちはユアチャーチで、礼拝ではなくワーシップという言葉を使うことが多いのでしょう。それは礼拝を単なる儀式としてしまいたくないからです。

 

 なぜ私たちは日曜の朝に共に集まって礼拝を献げるのでしょうか?ユダヤ教徒は土曜日を安息日、聖なる日と考えていました。ユダヤ人である初代のクリスチャンたちは、安息日の習慣を守りながらも、週の初めの朝に集まり礼拝することを始めたのです。

 それは、イエスが復活されたことこそが、希望と喜びの原点だったからです。礼拝は、復活され、今も生きて働かれるイエスと共に私たちが時を過ごす場所です。 

 イエスがどのようなワーシップをしてほしいと思っているか考えたことがあるでしょうか?イエスは一方的に褒め称えられていと思っていらっしゃるのでしょうか?イエスは、みんなのスーパーヒーローとしてではなく、皆さん一人ひとりにとって誰よりも親しい存在として近くにいて、何でも話せる間柄になりたいと願っておられるのです。

 「あなたはすごい、素晴らしい」と言われるよりも、誰よりも親しい存在として、心の思いを率直に聞かせてほしいと思っておられるのです。

 大好きな人とデートするときに、一方的に褒めまくる人がいるでしょうか?そんなことをしたら次回のデートは無くなるでしょう。イエスは皆さんと会話を楽しみ、心を通い合わせるような礼拝を願っておられます。 

3. ワーシップが私たちにもたらすもの (マタイによる福音書 11:28-30)

すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。 (マタイによる福音書 11:28-30)

 この言葉はワーシップの中で実現します。ワーシップの中で神、主イエスの霊、聖霊は自由に、豊かに働かれます。私たちは、その中にいることのできる特権が与えられているのです。
 ワーシップは命じられているというより、むしろ私達にとっては素晴らしい特権です。私たちは、そこでそれぞれの問題や悩みといった『人生の重荷』を下ろします。そして休むのです。そこで癒され、新しく負いやすい軛を負います。神様から新しい力と知恵をいただきます。そして軽い荷物を持って歩き出すのです(それはもはや問題や悩みといった重荷ではなく、人生の目的や意味ということです)。

 神様を遠くに感じることが多かったとしても、ワーシップすることを通して、神様が誰よりも親しい存在になるでしょう。一週間の歩みの後で、ある人は喜びにあふれて、ある人は傷つきつかれて、日曜日に教会に足を運びます。足取り軽く来る人もいれば、やっとの思いで、できれば人には会いたくないけれど神様の前には進み出ようと、自分に言い聞かせてくる人もいます。全く違う心の準備をして礼拝に来た人々が、共に歌う中でそれぞれのニーズを満たされ主の前に心を整えられ満たされてゆく、それが私たちのワーシップなのです。

B. 私たちの捧げるワーシップをもっと豊かなものにするために

 今回のお話の題を「真の礼拝を再発見する」 としたのは、私たちがそれを見失いつつあるのではないかと思っているからです。年寄りの「昔は良かった話」ではありません。そうではなく、もしそのような傾向があるとしたら、受け取ることのできたはずの多くの恵みを得られないことになってしまうという将来のための話です。
 ワーシップはユアチャーチのライフラインです。それがもっと実りあるものになるように、三つのセルフチェックをしてゆきたいと思います。最初のチェックは「私は詩編詩人のように切実に」ワーシップしているだろうか?という問いです。

1. 詩編詩人のように切実に (詩編42:2,3)

鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。(詩編42:2,3)

私たちは食べ物がなくてもかなりの時間、水だけで生き延びられますが、水がなければすぐにも生命の危険が迫ります。私たちの魂が神様を慕い求めるのは、魂の生死に関わることだからなのです。「あなたをもっと知りたい。もっと近づきたい。よいものを得たい。自分の最善をささげたい。」 そのような真剣な願いを持たずに礼拝の場に身を置いたとしても、礼拝をささげたことにはなりません。

 危険なのは、私たちがこの渇きに気付かないことです。私は10年前に左足の静脈に血栓ができました。幸い血栓が心臓まで飛ばずに脚の付け根でおさまったので命拾いしたのですが、後遺症が残り、ジョギング程度の速さでも長く走ることはできません。医師によると水分の不足が原因の一つとして考えられるとのことでした。渇きに敏感でなく、体が必要としている水分を十分摂れなかったのかもしれません。

 皆さんは自分の魂の渇きに気付いているでしょうか?残念ながら多くの人がこの渇きに気付いていません。だから、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして歌う必要を感じていません。しかし、それは魂の健康を損なうものです。どうぞ本気でワーシップしてください。

 魂の渇きを感じることがなく気が付かないうちに、酷い状態になってしまうクリスチャンは多くいるのです。ですから今朝、あなたに知っていただきたいこと、それはあなたの魂は主に乾いているのだということなのです。

2. マリアが大切にしたように (ルカ 10:38-42)

さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアと言う姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」 (ルカ 10:38-42)

 ユアチャーチ以外の教会のメンバーだった経験のある方は、そこでは普通に使っていた教会用語をここではほとんど聞かないことに気がついていらっしゃると思います。そのひとつである「奉仕」についてお話ししたいと思います。
 私が信仰を持った時の教会は、たくさんの「奉仕」があって、その奉仕を多く担っている人が熱心なメンバーという雰囲気がありました。当時の多くの教会がそうであったと思います。土曜日には印刷物を作る奉仕があり、お掃除など翌日の礼拝に備えての準備をし、日曜の朝には教会学校で教え、奉仕が一つずつ終わってほっとして、メッセージが子守唄になってしまったこともありましたが、礼拝でよく休んで復活して、午後もまた別の奉仕がありという具合で…結局日曜日は週で一番疲れる日だったのです。
 そしてメンバーなのにあまり「奉仕」しない人を心の中で非難していました。私は、今読んだ箇所のマルタのような者だったということです。マルタは初めは喜んでイエスをもてなそうと「奉仕」していたのです。しかし、妹にキレた時に、それはもう「奉仕」ではなく、しなければならないことに変質してしまっていたのです。「奉仕」とは自発的に喜んで仕えることです。仕えるとは、一般的には誰かのために仕事をすることですが、本当に主人がしてほしいことをするためには、いつも、マリアのように主人のそばにいて、その思いを聞かなければなりません。そうでなければ自己満足で勝手なことをして、マルタのように人を非難し、主の願いを無視することになってしまうのです。
 つまりこの例えは「奉仕」することより「礼拝」することが大切だと言っているのではなく、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして礼拝することこそ最優先の「奉仕」なのだと言っているのです。

3. ダビデのように自由に (サムエル記下 6:14-16)

主の前でダビデは力の限り踊った。彼は亜麻布のエフォドを身に着けていた。ダビデとイスラエルの家は皆、喜びの声を上げ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。だが、主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろし、ダビデ王が主の前に跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の内で蔑んだ。(サムエル記下 6:14-16)

ダビデ王は神様の前にとても素直な人でした。神様の前に素直であることはとても大切なことです。この時、ダビデを始めとして民は喜び歌い踊らずにいられなかったのです。

 けれども、その中で一人だけ冷めた目で見ていた人がいました。王妃のミカルです。彼女は前の王サウルの娘です。由緒正しい王の娘としてのプライドが、夫ダビデの王様らしくない礼拝の表現を理解できなかったのです。

 私たちの心にもミカルが住んでいて、礼拝のすばらしさを十分に受けとれないということが起こります。ロックコンサートに行けばみんな立ち上がり、手をたたき、耳だけではなく全身で楽しみ、また楽しんでいることを表現するのが自然なことです。私たちにとってワーシップはコンサートよりずっと楽しく、ずっと自由であるはずですよね? 

 しかし気をつけるべきことがあります。そんな雰囲気を人工的につくり上げるのでは意味は無いのです。それでは自由でも自然でもありません。そのような霊的雰囲気を作り出すことは簡単ですが、それは礼拝をさらに貧しいものにしてしまいます。

 誰にでも、その時の心の状態が、元気で楽しい賛美の歌にはついていけない時があるでしょう。そこで無理やり元気なふりをして笑顔で歌っても心は落ち込むばかりです。そんなときは正直でいればいいのです。立ち上がりたければ立ち上がる、ひざまづく、手を上げる、手を叩く、そうしたいと思ったらすればいいことです。

 ほかの教会を経験している人はユアチャーチのワーシップリーダーは控えめで、そっけないと感じるかもしれませんが、それでいいのです。歌っているのはあなたで、聞いていて応えてくれるのは神様だからです。

 三つのセルフチェックの結果はいかがでしたか?自分に足りないところがわかった人は幸いです、あなたの今年の礼拝は素晴らしいものになるでしょう。今年が人生のターニングポイントとなるかもしれません。

 さあ、期待して、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主イエスに礼拝を捧げてゆきましょう。

(祈り) 神様、あなたを礼拝することのできる恵みを与えられていることに感謝します。 
私たちがこの恵みに慣れて、持つべき期待を、切実さを、素直な態度を見失うことがないように助けてください。
あなたが礼拝の中でしてくださることに期待します。
どうぞ、あなたと共に生きてゆく私たちの必要を豊かに満たしてください。
あなたの慰めを、祝福を、癒しを、問題の解決を、解放を期待します。
どうか、あなたに想いに叶った礼拝を、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして捧げ続けさせてください。
主、イエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

私たちが日曜礼拝の中で長い時間をかけて主に向かって歌うのは、それが礼拝の中心だからです。心をつくし、思いをつくし、力をつくし、神様に大きな期待を寄せて歌う時、神様は共にいて下さり、新しいことをなさいます。状況を変え、私たちの心に変化を起こされるのです。愛は表現されなければなりません。神様に対する最高の愛の表現はワーシップすることです。

話し合いのために

1. 「賛美する」ことと「ワーシップする」こととはどう違うのですか?

2. もっと実りある礼拝にするためにあなたができることは何ですか?

子どもたち(保護者)のために

ルカ 14:38-42を一緒に読んで、なぜマルタがマリアのことでイエスに諭されたのかを考えさせてください。そして、礼拝とはマリアのような態度でイエスのそばにいて、イエスと共に過ごすことだと伝えてください。