人生100年時代の祝福

Globetrotter19, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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人生100年時代の祝福
(詩編127:3-128:6)

永原アンディ

 クリスマスのお話やメンバーシップのお話で詩編のシリーズからしばらく離れていましたが、今日からまた詩編を通して語りかけてくださるイエス・キリストの言葉に耳を傾けるシリーズを再開します。今日のテキスト、127編の後半と128編は共通のテーマを持っています。それは “祝福” です。まず全体を読みましょう。

3 見よ、子どもたちは主から受け継いだもの。胎の実りは報い。4 若い頃生んだ子どもたちは勇士の手にある矢のようだ。5 幸いな者、矢筒をこれらの矢で満たす男は。町の門から敵を追い払うときも恥を受けることはない。

128:1 都に上る歌。幸いな者主を畏れ、その道を歩む人は皆。2 あなたの手が苦労して得た実は必ずあなたが食べる。あなたは幸いだ、あなたには恵みがある。3 妻は、家の奥にいて豊かな房をつけるぶどうの木のよう。子どもたちは、食卓を囲んでオリーブの若木のよう。4 見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。5 シオンから主があなたを祝福してくださるように。あなたが、命あるかぎりエルサレムの繁栄を見 6 子や孫を見ることができるように。イスラエルの上に平和があるように。

1. 聖書は人の言葉で書かれた神の言

 読んでみてどんな感想を持ちましたか?違和感を感じた人はいませんか?
私の心の中にはたくさんの???が浮かんでいます。
 子供が産まれることが祝福なのでしょうか?女の子より男の子が産まれることがより大きな祝福なのでしょうか?妻は家の奥にいて、子沢山なことが祝福なのでしょうか?子供がいる人より孫のいる人の方が祝福されているのでしょうか?より経済的に繁栄し、財をなすことが祝福なのでしょうか?平和はイスラエルの上にだけあればいいのでしょうか?

 この詩が聖書の一部でなければ、それこそ「それってあなたの感想ですよね?」と言って一蹴すればいいだけのことなのですが、これらは神の言とされる聖書に書かれている記述なのです。
 だとすると理不尽に思えても、それが神様の、そしてキリスト教の価値観ということになるのでしょうか?聖書はどのような意味で「神の言」なのか?このことの受け取り方によって、同じクリスチャンといっても物事の見方が大きく異なるのです。

 カトリック、オーソドックス、私たちもその流れの中にあるプロテスタント、そのプロテスタントの中でもルター派、長老派、といった教派の違いは聖書の教えの強調点の違いです。それが信仰の表現にも現れて、それぞれのユニークな教会や礼拝のあり方に反映されているわけです。いってみればキリストの体のさまざまな部分であって、どれが正しいとか優れているということではありません。ですから教派が多くあることを深刻な分裂と考える必要は全くありません。

 しかしキリスト教会にはもっと別な意味で深刻な分裂があります。それがこの「聖書はどのような意味で“神の言”なのか?」ということについての考え方の違いなのです。このことは日本のキリスト教界ではまだあまり目立つものではありませんが、アメリカでは、この違いが教会どころか社会全体の分裂さえ起こしています。 それは教派を横断した違いで、同じ教派の中でも違いがあります。

 一つの立場は、この聖書に書かれている言葉を文字通りに受け取らなければならないというものです。この立場から言うなら、この詩に書かれているような、夫に従い家の奥にいて出しゃばらない妻を持ち、息子や孫を持つ男性こそ主を畏れる祝福された人であり、子供がいない人や異教徒は呪われた者ということです。妻は平等であるどころか夫に所有されている存在であり、それが神様の、聖書の、キリスト教の価値観だということになります。
 もう一つの立場は「聖書は人間の言葉を用いて表現された神の言」だという考えです。それは、書かれた時代や文化の限界を越えることのできない人の言葉で表現されているということです。そこで、私たちは自身が置かれているコンテキストの中でその言葉がどのような意味を持つのかを正しく解釈しなければ、そこに示されている神意を正しく受け取ることはできないという考え方です。

 最初の立場は、一見純粋な信仰のように感じられるかもしれません。
それに対して後者は何か人間的で、信仰的ではないような印象を受けるかもしれません。しかし、実は前者のように、解釈を加えず聖書を字義通り受け取るということは、言葉というものの性質上、不可能なことなのです。ある人が言葉を発したとき、同じ言葉を聞いても人によって受け取ったニュアンスは異なります。それは受け手がその言葉を自分の持つ価値観に従って解釈して理解するからです。
 また、聖書はその最も新しい部分でも2000年くらい前の古代語で書かれています。置き換えられた現代語の意味が元の意味と全く同じであるということはあり得ません。
 さらに、聖書に記されている言葉には語った人の意図があり、その人も時代と文化の制約から自由ではないということに留意すべきです。新約聖書の代表的な著者であるパウロでさえ、彼の生きた時代の女性に対する酷い偏見から自由ではなかったことが、彼の手紙でよくわかります。

 聖書を文字通りに読むべきだと主張する人々は、聖書に書いてあるから女性は教会で教えてはならないと言いますが、それはパウロが言ったことで、イエスが禁じたことではありません。
 聖書に書いてあるから同性愛者やトランスジェンダーは罪人だといいますが、聖書の書かれた時代には同性愛、トランスジェンダーという概念はありませんでした。
 「殺してはならない」と聖書にあるから人工妊娠中絶は法で禁止すべきだと言いながら、自分が自動小銃(assault rifle)を持つ権利は守られるべきだと主張します。
 つまり彼らは、自分たちが言っているように聖書を文字通り受け取っているのではなく、単にそれらを連想させるような言葉を自分勝手に「解釈」しているに過ぎないのです。

 一方で聖書は解釈されなければならないと知っている後者の人々にも、「自分勝手」な解釈という誘惑の危険があります。一人一人の人間の権利を大切にするということが、神様を無視した人間中心主義へと変質してしまい信仰が哲学のようになってしまった、ということが実際に教会の歴史の中で起こったのです。実はキリスト教原理主義といわれる前者の考え方は、それに対する反動として始まったものでした。

 それでは、どうしたら「正しく、神様の意図に従って」解釈することができるのでしょうか? 聖書には、時代や文化を超越した真理がわかりやすく記されている部分もあります。それが福音書の中のイエスの言葉です。イエスだけは、当時の社会的、宗教的偏見から自由であったことが、彼の言葉からよくわかります。
 福音書の中には、イエスと女性との会話の中で信仰の真髄が明らかにされている箇所が多くあります。イエスは、当時の男性たちとは違って女性を「一人の人」として扱っていたのです。聖書の教えを現代に生きる私たちが正しく理解する鍵はイエスなのです。「イエスならどうお考えになるか?」が解釈のガイドラインです。

2. 祝福を見直す・人生100年時代の祝福

 それでは、イエスというガイドラインを意識しながらここに記されている祝福について考えてみましょう。
 ここ数年「人生100年時代」という言葉を聞くようになりました。今までは教育を受ける20年、働く40年、老後の20年という三つのステージで人生設計をすればよかったものが、そうはいかなくなったという趣旨の話題です。100年前に生まれた人の場合、100歳まで生きている確率は100人に一人だったそうですが、これからは100才の人は珍しくなくなります。日本にいたっては、2007年生まれの50%は107歳まで生きると推測されているのだそうです。
 これって祝福でしょうか?これを聞いた2007年生まれの高校生が「ちょっと恐ろしくなった」といっていました。無理もありません。教育を受ける期間はあまり変わらず20年として、老後の蓄えや年金を考えると80才くらいまでは働かなくてはならない。さらにその後30年近く楽しく元気に生きることなんてだれも想像できないでしょう。

 100年の人生を最後まで幸せに生きるためには、貯金、不動産といった目に見える有形資産だけでなく目に見えない無形資産を持つことが大切だといわれています。その無形資産とは、仕事に役立つ知識やスキル。健康や、良好な家族・友人関係。変化に応じて自分を変えていく力などのことだそうです。
 分かったような気がしますか?しかし、彼らはもっと重要で価値のある無形資産、それがなければ人生100年時代を幸せに生き延びることのできない無形資産を完全に見落としています。 皆さんはそれをご存知であるはずです。何でしょうか?それは、イエスキリストを主と信じ、彼と共に歩むという信仰です。しかも、イエスは私たちがそれぞれ個別に彼につながるだけではなく、彼を主とする「キリストの体」としての教会を下さったのです。

 どの時代のどの文化圏、どの国であっても今日のテキストが示しているような祝福を享受できる人は多くはありませんでした。それを自分のものとすることができたのは、主を畏れたからではなく、それを享受できる立場にあったからです。それは、奴隷やクリスマス物語に登場した羊飼いたちには、神様の前にどんなに正しくても得ることのできないものだったのです。 
 結婚していて、二人が望んでも子供が生まれないのは神様の呪いなのではなく医学的な問題であることを私たちは知っています。イエスも息子の有無、子や孫の多寡は祝福と呪いによるものではないことを知っておられました。

 イエスは子供達を祝福する一方で、このテキストの描く“良妻賢母”ではない女性たちにも多くの祝福を与えられました。ヨハネによる福音書の4章で、イエスはサマリア人の女性に語りかけています。サマリア人とは純粋なユダヤ人ではなく、独自の信仰を持っていたためユダヤ人からは交際を避けられていた人々です。イエスは、サマリア人で5回の結婚歴があり、しかし今は独り身のこの女性に、ご自身がキリストであることを明かし「私を信じなさい」と言われました。 彼女を通して多くのサマリア人がイエスを主と信じたのです。

 私たちもまたこの社会の仕組みの制限の中に生きています。医学が進んでも、子供を欲しくても得られない人は多くいます。どんなに努力しても経済的な理由で進学できない人がいます。家族を持っていた人が色々な理由でそれを失うこともあります。
 ヨハネによる福音書は、イエスの死の直前にあった不思議なエピソードを紹介しています。

25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われた。27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 イエスは、母マリアを一人の弟子に委ねました。私はここに、教会の存在する意味を見たいと思います。それは家族としての存在です。血のつながりを超えた家族です。
 母が、血のつながった息子である人としてのイエスを失おうとしているこのとき、イエスは若い弟子に「この人を自分の母親として」扱いなさいと言い、母マリアには「この弟子を息子として頼りなさい」といわれました。
 イエスはキリスト教に限らず、今でもこの社会の「当たり前」とされている幸せ、祝福、不幸、呪いの概念を打ち壊し、ご自身と共に歩むことの幸せ、祝福を教えてくださったのです。そしてその受け皿が教会です。このイエスを主人とする家族はどんな境遇の人も拒まない家族です。経済的な基盤が弱い者にとって、健康に不安を持つ者にとって、差別や偏見の目で見られる者にとって、人生100年時代は不安でしかありません。
 しかし教会という家族の一員のなることによって、それらの不安は取り去られます。私たちの主であるイエスは、この不安の中にいる者たちに神様の栄光が表されると宣言された方です。
 さらに、神様は教会を社会が見習うべきお手本として立てられてもいます。弱い者、小さい者に祝福をもたらす教会がもっと影響力をもつなら、社会全体も祝福されます。
 私たちは、その名の通り誰に向かっても、「私たちはあなたの教会、家族です」と言って迎え入れる教会でありたいと思います。

(祈り)神様、私たちを豊かに祝福していてくださることをありがとうございます。
あらゆる富に勝る永遠の命、あなたとともに生きる恵みを感謝します。
あなたが私たちに真理を教えるために聖書を与えてくださいました。
私たちが聖書を読むとき、時代や文化や著者の限界を知り、あなたの意思を正しく受け取ることができるように助けてください。
イエス・キリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

聖書は、特定の時代の特定の文化のもとで生きた人間の言葉で記された、神様からのメッセージです。神様の意図を正しく受け取るために、イエスの言葉を心に留めて、神様の意思を注意深く受け取りましょう。多くの財産も子孫も祝福の印ではありません。イエスと共にいること、イエスの体に連なっていることこそが祝福です。教会はこの祝福の担い手なのです。

話し合いのために

1. 聖書はどのような意味で「神の言」なのですか?

2. 祝福とはどのようなものですか?

子どもたち(保護者)のために

ヨハネによる福音書19章25-27を読んで、十字架の出来事の後、母マリアが教会の家族の中で守られて生きたことを話してあげてください。人の寿命が伸び100歳を超える人も珍しくない中、さまざまな理由で苦しみ、十分な助けを得られない境遇に置かれる人も増えています。教会は、そのような人々を招き入れる大きな家族のようなものであることを知らせてください。