私の時はまだ来ていない。でも…

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日曜礼拝・英語通訳付

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私の時はまだ来ていない。でも…
(ヨハネによる福音書 7:1-10)

池田真理

 今日は2ヶ月ぶりにヨハネによる福音書のシリーズに戻ります。今日は7:1-10です。

 最初に一つ皆さんにお伝えしたいのですが、この箇所は学者によって解釈がかなり異なっていて、今日私が皆さんにお話しするのは私が限られた知識の中でベストだと思った解釈です。だから、もしかしたらイエス様に「いや、私はそんなつもりはなかったよ」と言われるかもしれません。どうぞ皆さんも考えながら聞いてみてください。

 前半と後半に分けて読んでいきます。まず前半は1-5節です。

A. イエス様の兄弟の偽善 (1−5)

1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうと狙っていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかった。2 時に、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。3 イエスの兄弟たちが言った。「ここをたってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり現しなさい。」5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。

 「イエスの兄弟たち」というのはイエス様の実の兄弟たちのことで、福音書の中でたまに登場しますが、一貫してイエス様に対して批判的な態度をとっていました。彼らの一部は、イエス様の死後になってイエス様を信じ、初代教会の中心的存在になりますが、イエス様の生前は彼らはイエス様の頭がおかしくなったとさえ思っていたのです。(マルコ3:21には「身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえにきた。『気が変になっている』と思ったからである」とあります。)今日の箇所でも、彼らはイエス様を理解せず、一方的にイエス様は間違っていると決めつけて、挑発的なことを言っています。

1. 仮庵祭とは(申命記16:13-15)

 ユダヤ教の仮庵祭とは、日本語だと漢字を読むと何となく分かりますが、「仮住まいの祭り」「テント祭り」という意味で、旧約聖書の出エジプトの出来事に由来しています。エジプトを脱出した人々が荒野を40年間さまよった間、神様は彼らに仮の住まいを与えて生かしてくださったということを覚えるための祭りです。また、秋の収穫を祝う祭りでもあり、神様が与えてくださる祝福に感謝を捧げる祭りでもあります。申命記16:13-15にはこうあります。

(申命記16:13-15) 13 麦打ち場と搾り場からの収穫が済んだなら、七日間、仮庵祭を祝いなさい。14 息子や娘、男女の奴隷、町の中にいるレビ人や寄留者、孤児、寡婦と共に、この祭りの時を楽しみなさい。15 七日間、主が選ぶ場所で、あなたの神、主のために祭りを祝いなさい。あなたの神、主が、あなたの収穫と手の業すべてを祝福されるのだから、あなたは心から喜びなさい。

ここにあるように、祭りは7日間続き、神様への感謝と喜びが祭りの中心です。多くの人々が神殿のあるエルサレムに集い、犠牲の捧げ物を捧げ、特別なお祝いをしました。このような習慣を守ることが良いユダヤ人のあり方で、信仰心の現れだと思われていました。

2. 兄弟たちの無理解

 イエス様の兄弟たちは、この習慣に従って、エルサレムに巡礼しようとしていました。そして、多くの人が集まるこの機会にイエス様が都に出て行けば、イエス様の活動の真価が問われ、ユダヤ教の宗教指導者たちが正しい裁きを下してくれるだろうと期待しました。彼らは、これまでにイエス様が故郷で起こしたさまざまな病気の癒しや奇跡を知っていて、イエス様が不思議な力を持っていることを認めていましたが、イエス様がご自分のことを神様と等しい存在としたことを受け入れられていませんでした。

 でも、彼らのイエス様に対する無理解はそれだけではありません。彼らだけでなく、イエス様の活動の真の目的をこの時点で理解できていた人は誰もいませんでした。不思議な超自然的な力を持っているなら、その力を生かして権力を手に入れ、人々を支配すればいいと考えるのが私たち人間です。イエス様の兄弟たちもそのように考えました。でも、イエス様がこの世界に来られた目的は、そんな人間的な支配の仕方を実現することではなく、私たちのために苦しんで死なれることでした。人を支配する超自然的な力を持ちながら、それを使うことなく、むしろその力を放棄して、弱くなり、人に捕らえられて殺されるなど、普通は思いつきません。まして、イエス様が神様ご自身でもあると言うならなおさら、そんなことはあり得ないと考えるのが普通です。

3. イエス様を信じられない理由

 このイエス様の兄弟たちと私たちは今お話しした以外にも似ている点があり、その共通点を見ると、私たちがイエス様を信じることができない理由も見えてきます。

 まず、私たちは彼らと同じように、イエスのことはよく知っていると思い込んでいるかもしれません。教科書で学んだ歴史上の人物としての知識だったり、親や友人や牧師から聞いたイエス様に関する知識だったりが、その思い込みに繋がります。知っていても信じていない状態です。つまり、イエスという人物が、自分と個人的な関わりを持って、自分の人生を変えるかもしれない神様であるとは思っていないということです。イエス様に対する期待や信頼というのは、それ自体が神様が与えてくださるもので、誰かに強要されるものではありませんが、少しでもそういう期待があるならぜひそれを言葉にして直接イエス様に語りかけてみてください。そして、イエス様を信じている誰かに話してみてください。

 私たちとイエス様の兄弟たちのもう一つの共通点は、何が正義で、何が神様の目に正しいことなのか、深く考えない点です。仮庵祭のために都に上ることは、ユダヤ教徒として正しい行いで、その習慣を守ってさえいれば、自分たちは正しいと思うことができました。でも、当時の宗教指導者たちがなぜイエス様を殺そうとまでしていたのか、それは正当な理由に基づく正義なのかどうか、彼らは考えなかったのでしょうか?イエス様が正しくて、自分たちの方が間違っているという可能性を、なぜ多くの人は考えなかったのでしょうか?それは私たち全てが持つ罪に根本原因があります。神様を神様とせず、神様以外の何か、自分自身や他の誰かや財産や地位を、一番大切にしているからです。

 

 それでは後半の6-10節を読んでいきましょう。

B. イエス様の願い (6-10)

6 そこで、イエスは言われた。「私の時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。7 世はあなたがたを憎むことができないが、私を憎んでいる。私が、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。私はこの祭りには上って行かない。私の時がまだ満ちていないからである。」9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、人目を避け、ひそかに上って行かれた。

 私が最初に学者の間で解釈が分かれるとお話ししたのは、このイエス様の問題行動です。行かないと言ったのにやっぱり行くことにしたのか、そういうわけではないのか、どう説明すれば良いのか、いろんな意見があります。

1. イエス様の「時」とは (17:1)

 まず、イエス様が自分は祭りに行かない理由として言われている「私の時はまだ来ていない」の「時」とは何を指すのでしょうか?私は、イエス様が逮捕されて十字架で処刑されるその「時」を指していると思います。このヨハネ福音書の後の方に、イエス様がこう言われている箇所があります。

「父よ、が来ました。あなたの子があなたの栄光を表すために、子に栄光を表してください。」(17:1)

これは、イエス様が逮捕される直前に言われた祈りの最初の言葉です。この他にも、13章にはこうあります。

過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。(13:1)

これは、弟子たちの足を洗う場面です。これらの箇所と今日の箇所を比べると、英語ではtimeとhourで区別されているように、「時」を指す言葉が原語のギリシャ語では違うので、学者の間ではこの二つの「時」は別々の意味があるんだという意見があります。私はあまり重要な違いではないと思うので、やはりイエス様はご自分が苦しんで死なれ、神様の元に戻られるその「時」を指して「私の時」と言われたのだと思います。そうすると、今日の箇所でイエス様が兄弟たちと一緒にエルサレムに行かないと言われた理由は、自分の苦難の時はまだ来ていないからだということになります。今日の箇所の冒頭で言われていたように、イエス様は既にユダヤ人たちに命を狙われていました。ここでユダヤ人たちというのは、主にエルサレムにいるユダヤ教宗教指導者たちを指しており、イエス様は彼らに捕まるべき時はまだ来ていないから、まだエルサレムには行かないと言われたということです。

2. 行かないと言ったのに、心変わりした?

 でも、もう読んだ通り、イエス様は結局エルサレムに行きました。そして、この後10章までイエス様のエルサレムでの活動が続きます。何度か捕らえられそうになりますが、難を逃れており、それは「イエスの時はまだ来ていなかった」からだと説明されています。(7:30)そして、12章でエルサレムに再度入られた時には、イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」とはっきり言われ(12:23)、そのまま最期の時を迎えます。これをどのように解釈すれば良いのでしょうか?

 私は、イエス様は気が変わったのだと思います。まだ自分がエルサレムに行くべき時は来ていないけれども、行かずにいられなくて、やはり行くことにされたのだと思います。

 私がそう思う理由は二つあります。

 一つは、これが仮庵祭の時だったということです。仮庵祭は、先にお話ししたように、荒野で彷徨う人々を神様が見捨てずに共におられ、祝福されたことを記念し、神様の祝福に感謝して収穫を祝う喜びの祭りです。でも、イエス様は、その祭りの虚しさに耐えられなかったのではないかと思います。本来は神様の憐れみを感謝する祭りのはずが、民族の栄光と繁栄を祝う祭りになっていたからです。イエス様は、人々の心に神様に対する真の感謝と喜びがないことを知っていました。だから、虚しい喜びにあふれた祭りの最中に、本当の神様のことを知ってほしいと人々に語りかけずにいられなかったのではないかと思います。

 このことが、イエス様が心変わりしたのではないかと私が思ったもう一つの理由です。仮庵祭の最中、エルサレムでイエス様は「大声で」人々に語りかけたと言われている箇所が二箇所あります。イエス様が大声を出したという記録はそんなに多くありません。特に人々に教える場面で大声を出したのは、この仮庵祭の最中の二箇所だけです。1つは28節です。

イエスは神殿の境内で教えながら、大声で言われた。「あなたがたは私を知っており、どこの出身かも知っている。 (7:28) 

もう一つは37節です。

祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。 (7:37)

イエス様は、偽の喜びにあふれた祭りの騒ぎの中で、叫ばれました。「あなたたちはそのままでいいのか?自分の渇きに気が付いていないのか?私はここにいる」と。

3. 建物や場所ではなく私たちの心に住むこと

 イエス様の願いは、私たち一人ひとりがそれぞれの心の中にイエス様を迎え入れることです。私たちは、イエス様にしか満たせない飢え渇きが自分の中にあり、それを他の何かで満たそうとするのは不毛で間違いなのだと分かっているでしょうか?イエス様は確かにこの世界に来られ、人々の病気を癒し、多くの奇跡を起こし、でもその力を放棄して、十字架にかけられ、死なれ、よみがえられた方です。イエス様は神殿で祭られている神様ではなく、教会という場所でしか感じられない方なのでもありません。私たちの心の中の最も弱い部分に、寄り添い、癒して、強めてくださる方です。どうぞ、イエス様の私たちへの語りかけを受け取ってください。

(祈り)主イエス様、今私たちはあなたを心にお迎えします。どうぞ入ってきてください。あなたを知っていたつもりになっていましたが、あなたの愛は私たちが知っているよりもはるかに大きく強いことを、さらに教えてください。あなたに期待しなくなってしまったこと、あきらめてしまったこと、もしあるなら気がつかせて、もう一度あなたを信頼して、あなたのしてくださることに期待する力を与えてください。あなたの霊によって私たちを強めてください。虚しいものから私たちを遠ざけて、真実のあなたに近づくことができますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

神様がこの世界にイエス様として来られた目的は、私たちのために十字架で苦しんで死なれることでした。それは、自分は正しいと思い込んでいる人間にはなかなか理解できないことです。神様が望まれたのは、私たちが自らの限界を認め、神様を心の中心に迎えて、誠実に生きることです。そのことを伝えるために、イエス様は一度は行かないと決めた祭りに出かけて行って、大声で人々に語りかけました。

話し合いのために

1. ここに登場するイエス様の兄弟たちと私たちの共通点は?

2. イエス様は心変わりしたのだと思いますか、思いませんか?その理由は?

子どもたち(保護者)のために

イエス様の兄弟たちは、イエス様が十字架で死なれた後になってやっとイエス様が本当に神様ご自身だったのだと信じました。一緒に生活してきたきょうだいの誰かが本当は神様だと信じるのと、神様は目に見えないけど確かにいると信じることは、もしかしたら同じくらい難しいことなのかもしれません。皆さんはなぜ神様は確かにいると信じられるのだと思いますか?またはまだよく分からないなら、どうすればいいと思いますか?