あなたは本当にイエスを知っているか

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日曜礼拝・英語通訳付

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あなたは本当にイエスを知っているか
(ヨハネによる福音書 7:25-31)

池田真理

 

 今日のメッセージのタイトルは少し挑戦的な問いです。イエス様のことをまだ信じているわけではない人も、生涯のほとんどをイエス様を信じて生きてきたという人も、今日は改めて、ご自分がイエス様について知っていることや信じていることを問い直していただければと思います。私たちは誰も一生かかっても神様の全てを知れるはずがありません。だから、本当はイエス様のことを分かっていないのに分かっていると思い込んでいないかどうか、神様のことを知った気になっていないかどうか、私たちはいつも謙虚に問い直す必要があると思います。問い直すことで、私たちは新たにイエス様のこと、神様のことを知り直すことができます。そして、神様に関する自分の勝手な思い込みに気が付き、神様への信頼を深めることができます。

 ヨハネ7:25-31を前半と後半に分けて読んでいきます。まず、25−27節です。

A. イエス様に関する不確かな情報 (25-27)

25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者がいた。「これは、人々が殺そうと狙っている者ではないか。26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、まさか本当に認めたのではなかろうか。27 しかし、私たちは、この人がどこの出身かを知っている。だが、メシアが来られるとき、それが、どこからか知っている者は一人もいない。」

 私たちはイエス様に関して様々なことを知っていますが、この箇所を読んで分かるのは、それらの情報が時に私たちがイエス様を信頼するのを邪魔するということです。

1. 犯罪者として

 今読んだ中で、エルサレムの人々がイエス様について知っていたことは、まず第一に、「この人は犯罪者として命を狙われている」ということでした。また彼らは、その理由も知っていました。イエス様がご自分を神と同等の者とされたからです。一人の実在する人物が、実はこの世界を造られた創造主、神ご自身であると言われたら、当時の人たちだけでなく、いつの時代でも、誰でも、荒唐無稽で危険な思想だと感じます。ですから、私たちクリスチャンは、見方によっては、二千年前に処刑された一人の犯罪者を創造主である神として崇める危ない集団です。実際、クリスチャンという呼び名は、元々は「キリスト狂い」という意味の悪口でした。でも、イエス様の死後、イエス様を信じた人たちは、その悪口をかえって喜びました。自分たちは他人から見れば愚かなほどにキリストを愛しているということを誇りにしたからです。彼らは、イエスを犯罪者として処刑した人たちこそ大きな過ちを犯したのであり、それを止められなかった自分たちも大きな過ちを犯したのだと知っていました。犯罪者はイエスではなく、イエスを犯罪者としてしか見られない私たち人間の方だったのです。

2. 歴史上の人物として

 エルサレムの人々がイエス様に関して持っていた知識の2番目は、ひとりの人間としてのイエスに関する情報です。ナザレ出身で、ガリラヤで様々な奇跡を起こした有名人としてのイエスです。私たちは、それに加えて、歴史の授業などで、キリスト教を広めた人物として教えられてきたかもしれません。そのような、歴史に実在した一人の人物としてのイエス様に関する知識は、イエス様を、道徳的な教師や弱者に寄り添う社会活動家、政治家を正す社会革命家、病を癒す医者、超自然的な力の持ち主、または一つの宗教の創始者などとしてとらえます。そのようなとらえ方の一つひとつは間違っていませんが、どれもイエス様の一側面に過ぎず、イエス様の本質ではありません。エルサレムの人々が、「私たちはこの人がどこの出身かを知っている」と言って、イエス様のことを認められなかったように、私たちもイエス様の一側面だけを知ってイエス様の全てを知っているかのように思い込んでいたら、イエス様の本質を見失います。イエス様の本質は、イエス様が十字架で死なれた方であるというところにあります。このことはまた後で、イエス様ご自身の言葉を読んで考えていきたいと思います。

3. 聖書の知識

 エルサレムの人々がイエス様を信じる妨げになった3番目の要素は、彼らの曖昧な聖書の知識です。偏った聖書の解釈と言った方がいいかもしれません。これは、この教会ではよくお話ししていることですが、私たちも注意しなければいけないことです。彼らは「メシアが来られるとき、それが、どこからか知っている者は一人もいない」はずだと言っていますが、これはメシアに関する預言の一つの解釈に過ぎません。旧約聖書にはメシア(救い主)に関する預言がいくつかありますが、その一つは、メシアはダビデの町ベツレヘムで生まれるというものでした。その預言を元にして、イエスはベツレヘムではなくガリラヤで育っているからメシアではないと主張する人たちもいました。(8:42) 私たちの聖書の知識や解釈には限界があります。聖書の言葉自体も、書かれた時代の文化や書いた人の価値観が反映されていて、限界があります。私たちは聖書を読むことを通して神様やイエス様のことを知りますが、私たちが聖書を正しく読むためには、神様の助け、聖霊様の助けが不可欠です。聖書に関する誰かの解釈を鵜呑みにしたり、自分の勝手な思い込みを正しい解釈としたりすることは、結局は神様を聖書から排除して、聖書を自分に都合の良いように利用することにつながってしまいます。それは自分を神様にしているのと同じです。

 それでは後半のイエス様の言葉を読んでいきましょう。28-31節です。

B. イエス様の叫び (28-31)

28 イエスは神殿の境内で教えながら、大声で言われた。「あなたがたは私を知っており、どこの出身かも知っている。私は勝手に来たのではない。私をお遣わしになった方は真実であるが、あなたがたはその方を知らない。29 私はその方を知っている。私はその方のもとから来た者であり、その方が私をお遣わしになったのである。」30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかけることができなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。

1. あなたは本当に私を知っているのか?

 イエス様が珍しく大声で教えたという場面が出てきました。数回前のメッセージでもお話ししましたが、イエス様が大声で人々に教えたという記録はあまり多くありません。そこから私は、イエス様がこの仮庵祭という祭りに一度は行かないと言いながらも行くことにされたのは、人々が見せかけだけの礼拝をするのではなく心から神様を礼拝して喜ぶことを願い、人々に語りかけたかったからなのではないかと思いました。イエス様には祭りの喧騒が虚しく響き、その中で人々に本当の神様を知るようにと叫ばれたのです。

 イエス様が最初に叫んだのは、「あなたがたは私を知っており、どこの出身かも知っている」という言葉です。これは、これまでの流れから考えると二重の意味があると思います。一つは、皮肉として、「確かにあなたがたは私がガリラヤ出身で、私がこれまでどのような活動をしてきた人間か知っているだろう。でも、本当は私のことを全然分かっていない」という意味です。もう一つは、その後に続く言葉からも分かるように、イエス様の願いが込められていて、「あなたがたが本当に神を知っていたなら、確かに私のことも知っているはずだ」という意味です。このどちらの意味も含めて、私はここでイエス様は私たちにも問いかけていると思います。「あなたは私を知っていると思っているかもしれないが、本当に私を知っているか」と。

2. 私を通して神を知りなさい

 そして、イエス様が続いて言われているのは、「私を通して神を知りなさい」ということです。もう一度イエス様の言葉を読みます。

28 イエスは神殿の境内で教えながら、大声で言われた。「あなたがたは私を知っており、どこの出身かも知っている。私は勝手に来たのではない。私をお遣わしになった方は真実であるが、あなたがたはその方を知らない。29 私はその方を知っている。私はその方のもとから来た者であり、その方が私をお遣わしになったのである。」30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかけることができなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。

 イエス様は、自分は神様の元から来たのであり、神様が自分を遣わされたと言われています。その目的は、私たちに神様がどういう方であるかを教えることでした。だから、イエス様を通して神様のことを知ることがなければ、私たちはイエス様を知ったことにはなりません。イエス様の言葉は神様の言葉であり、イエス様の行動は神様の行動でした。イエス様が来られたことによって、それまでは目に見えなかった神様が実体を持って人間の歴史の中に入ってこられ、私たちに直接語りかけてくださったのです。

 では、イエス様は、その言葉と行いを通して、神様はどのような方であると教えてくださったのでしょうか?それは、神様は私たちのことを忘れておらず、私たちがどんな時でも希望と喜びを持って生きることを望んでおられる方であるということです。それを証明し、また私たちにそのような生き方を可能にしてくださったのが、イエス様の十字架での死と復活でした。イエス様は十字架で、神様の私たちに対する愛を証明してくださいました。また、私たちがどんな苦しみにも希望を持って耐えることができるように、体の苦しみも心の痛みも私たちと同じように味われました。神様に見捨てられる恐怖と絶望さえ、イエス様は味われました。神様は、イエス様を通して、徹底的に、私たちと共に歩み、共に苦しむことを示してくださったのです。

 このことは、私たちの自己理解にも根本的な変化をもたらすはずです。私たちは、神様がご自分の命を捧げるほどに大切に愛されている存在であると同時に、神様が苦しんで死ななければならないほどに罪深く、神様を悲しませる存在でもあるということです。この二つの事実が矛盾しないで成り立つのは、ただイエス様の十字架によります。私たちは、イエス様を通して神様を知り、神様の愛を知ることで自分たちの罪と弱さを知り、受け入れます。反対に言えば、神様の愛を知らず、自分の罪と弱さも知らなければ、私たちはイエス様のことを知っていることにはなりません。

 この受難節の季節、「あなたは本当に私のことを知っているか」というイエス様の問いかけを聞きましょう。

(祈り)主イエス様、あなたが十字架でその命を捧げてくださったことの意味を、私たちがもう一度深く心に受け止めることができるように助けてください。それぞれが抱えている困難の中で、あなたが共におられ、あなたが共におられることに希望あるということを、私たちがもっとよく知ることができますように。そして、あなたが与えてくださる希望と喜びは尽きないことを教えてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。。


メッセージのポイント

イエスというひとりの歴史上の人物が存在したこと、十字架で処刑されたこと、彼の死後にキリスト教が広まったこと、旧約聖書が彼のことを預言していたことなどを知っていても、彼のことを本当に知ったことにはなりません。イエスは実はこの世界を造られた神様ご自身であり、彼の言葉は神様の言葉、彼の行動は神様の行動でした。神様はこの世界に来られ、私たちの罪と苦しみを担って十字架で死なれたのです。私たちはイエスを、神様を、本当は知らないのに、知った気になっていないでしょうか?

話し合いのために

1) あなたがイエス様を信頼するのに妨げとなる(だった)ものは何でしょうか?

2) イエス様がこの世界に遣わされたのはなぜですか?または、神様はなぜイエス様をこの世界に遣わしたのでしょうか?

子どもたち(保護者)のために

子どもたちは教会に来たり保護者の皆さんと話したりする中で、イエス様のことに関して色々なことを聞いていると思います。イエス様に関してどんなことを知っているか、子どもたちに聞いてみてください。そして、疑問に思うことを率直に聞いてあげてください。話せそうだったら、イエス様は神様の愛を私たちに伝えるために十字架に架かられたこと、イエス様を通して私たちは神様の愛を知れることを伝えてください。