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日曜礼拝・英語通訳付
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ヨブのローラーコースター人生
(ヨブ記)
カディール・マーティン
私は、十代の始めの頃、なぜかヨブという人に惹かれていました。当時、私はプラスチックビーズのブレスレットを作るのに凝っていたのですが、アルファベットの書かれたビーズでヨブという文字を選んだりもしていました。
でも、今朝の準備のために、ヨブ記を段落ごとに、また一節一節読み込んでいくうちに、ヨブの人生はどんどん険しさを増していったことがよく分かりました。それは私がこれまで考えていたものとはかけ離れていました。というのは、正直に言えば、私がこれまでヨブについて知っていたのは、ヨブ記のいくつかの節や、ヨブについて書かれた本やデボーションの断片的なものだったからです。
7年前、私と私の妻はインドネシアに戻ることを決めました。その時、私は自分の人生について、ある一つのことを決めていました。それは、「私は、水平線のように安定した人生ではなく、ダイナミックな動きがたくさんある人生にしたい」というようなものでした。今、この7年間を振り返ると、私が思っていた通りになりました。私の人生は本当に紆余曲折で、山や谷や丘がたくさんあります。日本に住んでいた7年前の生活からはほど遠いものになりました。後悔しているかというと、していません。目の前の状況に希望を失って、絶望を感じる時もありましたし、希望と感謝にあふれた時もありました。
ヨブの人生に起こったことは、私の人生とはとても違います。ヨブの人生はもっと恐ろしいホラーのようで、悪くなるばかりでした。楽しい日もあれば、次の日には悲しみが襲いました。私たちの人生に起きることは全て、私たちには予想もできませんし、決定することもできませんが、私たちの用意ができていようといなかろうと、必ず起こります。ヨブ記は全部で42章あり、主な登場人物はヨブとヨブの三人の友人、エリファズ、ビルダド、ツォファルと、彼らの会話に途中から入ってくるエリフという賢人です。そして、最後に登場するのが全能の神様、ヨブの物語の中心です。ヨブには何か問題があったのでしょうか?ヨブ記の冒頭には、ヨブは無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていたとあり、東の国一番の富豪でもあったとあります。つまり、ヨブには何も問題はなく、全ては順調でした。
サタンは神様に問いました。
「ヨブが理由なしに神を畏れるでしょうか?」(1:9)
神様は応えました。
「見よ、彼の全ての所有物はあなたの手の中にある。ただし、彼には手を出すな。」(1:12)
神様はサタンに何を起こしてもいいと言われましたが、一つだけ厳しい条件をつけたのです。「ただし、彼には手を出すな」と。
そして、最初の大災難が起こり、ヨブは家族のほとんどと財産の全てを数日のうちに失いました。でも、ヨブは罪を犯すことなく、ひれ伏して神様を礼拝し、このように言ったとあります。
「私は裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように。」 (1:21)
次に2番目の大災難が起こりましたが、今度は神様は一つの条件しかサタンに与えませんでした。
「では、彼をあなたの手に委ねる。ただし、彼の命は守れ。」(2:6)
2番目の災難は、頭のてっぺんから足の爪先まで広がる皮膚病でした。それはひどい痒みで、ヨブは素焼きの破片で体中をかきむしらなければいけませんでした。まだ一つ目の災難が起きたばかりで、ヨブはまだ深い悲しみの中にあったはずですが、そこに追い討ちをかけるように二つ目の災難が襲ったのです。そのようにどんどん悪くなる状況の中で、ヨブの妻は神様を呪うべきだと言いましたが、ヨブは恐れずにこう言いました。
「私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
ヨブ記4−31章は、ヨブと三人の友人、エリファズ・ビルダド・ツォファルの会話の記録です。友人たちはヨブの変わり果てた姿を見て泣いたとあります。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていましたが、その激しい苦痛を見て、誰も話しかけることができませんでした。
1. 苦しみの意味とは
10章14−17節にこうあります。
「もし、私が罪を犯したとするなら、あなたは私を見張って私の過ちを赦してくださらなくてかまいません。もし、私が悪しき者であるなら、それは私には災いです。しかし、私は正しくても頭を上げることができません。恥に満たされ、苦しみを見ています。私が頭を持ち上げると、あなたは獅子のように私を追い詰め、私に対し、驚くべき業で応えられます。 」 (ヨブ記 10:14-16)
私はここに、苦しみの意味とは何かがあると思います。全てのことは神様の主権のもとにありますが、全てが神様の力のもとにあるわけではありません。全てのことには、「もし」「なら」という原因と結果があります。神様は私たちの想像をはるかに超えた全能の力を持っておられるので、たとえ私たちが正しい人間であったとしても、私たちは神様に向けて頭を上げることはできません。ですから、私たちが苦しみの中にいてもいなくても、一つだけ変わらないことがあります。それは、神様は全知全能であるということです。
2. 神はあなたの味方だと確信がありますか?
ヨブが三人の友人に自分の心と思いを注ぎ出しすにつれて、彼にはきっとたくさんの涙と不満、怒りさえも溢れていったと思います。同じように、私たちも、何か悪いことが起こるとすぐに神様に「なぜですか」と問いかけます。まるで、神様は私たちの人生に起こること全ての黒幕であるかのようにです。これは私が確かに言えることですが、神様は、私たちが「なぜですか?」と聞いても、すぐには応えてくださいません。神様の返事がないと、私たちは答えを求めてさらに神様を追い詰める態度をとってしまいます。ヨブの三人の友人たちの意見には賢明なものもありましたが、ヨブは神様は自分の味方であると信じて譲りませんでした。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に塵の上に立たれる。私の皮膚がこのように剝ぎ取られた後、私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。この私が仰ぎ見る。ほかならぬ私のこの目で見る。私のはらわたは私の内で焦がれる。」 ヨブ記 19:25-27
ヨブは、救い主は生きておられると固く信じていたので、たとえ皮膚が崩れ落ちようと、肉体が滅びようと、何が起こっても、神様は自分の味方であると分かっていました。
これは、ヨブと神様の一対一の関係の中で可能になった、とても個人的な信仰ですが、私たち全てが見習うべきものです。
3. ヨブの苦難は私たちの苦難でもある
ヨブの経験した苦難は30:20-23にも書かれています。ヨブが経験した苦難は、私たち全てがこれまでに経験してきた苦難です。世界中で、人々は同じことを求めています。神様からの答えを、神様の助けを。来ないかのように思われる中で、待っています。30:20-23を読みます。
「私があなたに向かって叫び求めても、あなたは答えず、私が立ち尽くしても、あなたは私を顧みない。あなたは私に対して冷酷になり、御手の力で私を責めたてる。あなたは私を抱えて風に乗せ、嵐のうなり声で私を砕く。私は知っている。あなたは私を死へと、生ける者すべてが集まる家へと、帰らせることを。」 (ヨブ記 30:20-23)
「私があなたに向かって叫び求めても、あなたは答えず、私が立ち尽くしても、あなたは私を顧みない。あなたは私に対して冷酷になり、御手の力で私を責めたてる。あなたは私を抱えて風に乗せ、嵐のうなり声で私を砕く。私は知っている。あなたは私を死へと、生ける者すべてが集まる家へと、帰らせることを。」 (ヨブ記 30:20-23)
4. 神様はそれでも語られる
38−42章では、神様がヨブに応答しています。神様の応答は想像を絶して鮮やかでした。天地創造の栄光と私たち人間の限界に、全て答えがあるからです。神様の天地創造のわざの栄光の前では、私たちの存在はあまりに無力です。神様はヨブの「なぜですか」という問いに直接答えていません。でも、神様の語りかけは私たちの心を震わせ、謙虚にさせます。私たちはただの人間です。神様はそのことを説明するために、ベヘモットとレビヤタンという、最強無敵とされた二つの生き物のことにまで触れています。
ベヘモットはカバのような生き物で、レビヤタンはワニのような生き物でした。私はこれを読んだ時、特に40−41章を読んだ時、混乱しました。なぜ神様は、ヨブへの返答として、こんな生き物たちのことを話されたのでしょうか?
私が最終的に分かったのは、これはヨブに対する次の答えにつながっているからだということです。ヨブが神様に対して言葉を述べる、待ちに待った瞬間がやってきました。
「私は取るに足りない者。何を言い返せましょうか。私は自分の口に手を置きます。私は一度語りましたが、もう答えません。二度語りましたが、もう繰り返しません。」
(ヨブ記 40:1-5)
ヨブはおそらくただ自分が恥ずかしかったのだと思います。これまで自分が思ったり言ったりしてきたことは間違っていたのだと、恥じたのです。そして、悔い改め、自分の言葉を撤回してこう言いました。
「それゆえ、私は自分を退け、塵と灰の上で悔い改めます。」 (ヨブ記 42:6)
神様は、ヨブを憐れみ、ヨブを元の境遇に戻し、さらに元の財産を二倍にして与えたのでした。
メッセージのポイント
わたしたちの人生の「ローラーコースター」は一人一人異なったものですが、ヨブのそれに匹敵するものはないかもしれません。ヨブの生涯から、私たちにとって非常に重要な事柄を受け取って、それを神と共に歩む自分の人生の旅に適用することができます。それは、私たちが経験する苦しみを、私たちが神の主権の元に戻るための道筋と理解するということです。生ける救い主に対する私たちの信頼は、神が常に私たちの味方であるという確信を私たちに与えてくれます。