神様は誠実で良い方

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日曜礼拝・英語通訳付

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神様は誠実で良い方

イースター(ルカ24:36-49、イザヤ53、他)

池田真理

 

 今日はイースター、イエス様の復活をお祝いする日です。十字架に架けられて、苦しみ、死なれたイエス様が、三日後によみがえられたという出来事にどんな意味があるのか、様々な言い方ができます。今日のメッセージの後半では、それらの意味をお話ししていきたいと思いますが、それら全てを包括して言うとしたら、イエス様の復活は神様は誠実で良い方であるということを証明する出来事です。私たちがどんなに絶望的な状況に置かれても、神様は私たちのことを忘れておらず、愛して、良い方向に導いてくださると信じることができたら、私たちに恐れるものは何もありません。その証拠を示して、私たちに信じることを可能にしてくださったのが、イエス様の復活の出来事なのです。
 今日はたくさん聖書箇所を読んでいきます。前半は、新約聖書の中にある、復活したイエス様と弟子たちの再会の場面をルカによる福音書24章から読んでいきます。まず36-43節です。

A. イエス様の復活という出来事 (ルカ24)
1. ありえないこと (36-43)

36 こう話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37 彼らは恐れおののき、霊を見ているのだと思った。38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか。39 私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ。」40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていると、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

 死んだ人が蘇るということは、常識ではありえないことです。弟子たちが生き返ったイエス様を見て、幽霊だと思って怖がったのは当然の反応です。
 私たちも、初めてキリスト教の教えを聞いた時、「イエス・キリストは十字架で死んだ」ということは受け入れられても、「そして彼は三日後に復活した」ということを受け入れるのには時間がかかるのではないかと思います。それは、常識ではありえない、科学的に証明することのできないことなので、信じるか信じないかしかありません。
 でも、イエス様の復活を信じなければ、私たちはイエス様を殺した罪人のままで、神様の赦しと憐れみを体験することはできません。そして、罪からも死からも解放されず、解放される喜びを知らず、後悔と嘆きの中で生きるしかありません。それは、神様の願いではありません。
 神様はイエス様を死から復活させられました。イエス様は神様ご自身でもあるので、神様は一度死なれたけれども、死に支配されず、よみがえられたとも言えます。イエス様は、私たちの罪の力にも死の力にも負けませんでした。それは、私たちが、罪の力にも死の力にも支配されないで生きることができるようになるためでした。
 44-49節を読んでいきます。

2. 預言されていたこと (44-49)

44 イエスは言われた。「私がまだあなたがたと一緒にいたときに、語って聞かせた言葉はこうであった。すなわち、私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する。」45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47 また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』48 あなたがたは、これらのことの証人となる。49 私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい。」

 今日、皆さんに一番心に留めていただきたいと私が思っているのは、この部分です。すなわち、イエス様の死と復活は、旧約聖書で預言されていたことで、預言の通りに実現したのだということです。つまり、イエス様の死は予想外の不運な事件ではなく、イエス様の復活は不慮の事故に対して必要に迫られた神様の対処ではないということです。そうではなく、イエス様の死と復活は、世界の始まりの時から神様が計画し、人々に約束していた救いの計画でした。

 それが意味していることは何でしょうか?それは、私たちがイエス様を殺すということ、私たちが神様を拒絶するということは、神様は最初から知っておられたということです。そして、それでも神様は、ご自分を裏切って苦しめる私たちを赦して、愛することをやめず、もう一度ご自分のことを思い出して、求めてほしいと願われたということです。

 それでは、ここからの後半では、旧約聖書にあるイエス様に関する預言を、具体的に読んでいきましょう。まず、イザヤ書53章です。

B. イエス様の復活によって果たされた約束
1. 罪と苦しみからの解放 (イザヤ53)

(イザヤ53) 1 私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。主の腕は、誰に示されたであろうか。2 この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。/彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され/私たちも彼を尊ばなかった。4 彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。5 彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって/私たちに平和が与えられ/彼の受けた打ち傷によって私たちは癒された。6 私たちは皆、羊の群れのようにさまよい/それぞれ自らの道に向かって行った。その私たちすべての過ちを/主は彼に負わせられた。7 彼は虐げられ、苦しめられたが/口を開かなかった。屠り場に引かれていく小羊のように/毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように/口を開かなかった。8 不法な裁きにより、彼は取り去られた。彼の時代の誰が思ったであろうか。私の民の背きのために彼が打たれ/生ける者の地から絶たれたのだと。9 彼は暴虐をなさず/口には偽りがなかったのに/その墓は悪人どもと共にされ/富める者と共に葬られた。10 主は彼を打ち砕くことを望まれ、病にかからせた。彼が自分の命を償いのいけにえとするなら/その子孫を見、長寿を得る。主の望みは彼の手によって成し遂げられる。11 彼は自分の魂の苦しみの後、光を見/それを知って満足する。私の正しき僕は多くの人を義とし/彼らの過ちを自ら背負う。12 それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え/彼は強い者たちを戦利品として分け与える。彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し/背く者の一人に数えられたからだ。多くの人の罪を担い/背く者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 ここには、私たちを罪と病から解放し、私たちの痛みと苦しみを取り除くために、神様がどのような救い主を送ってくださるのかが預言されています。全体を通して言われているのは、その救い主は、病と痛みに苦しみ、悪人として扱われ、人々に軽蔑され、見捨てられ、死んで墓に葬られるということです。彼と同時代の人々は誰も彼が救い主だとは分からないだろうとも言われています。彼が、威厳や華々しさとは対極にある、見すぼらしく惨めな姿をしていたからです。でも、これがまさしくイエス様の姿であり、イエス様はこの預言の通りに歩んで、私たちを救ってくださいました。

 イエス様は、私たちを何から救ってくださったのでしょうか?それは、「神様を必要としない罪」からです。私たちは、自分が神様であるかのように、自分に必要なものは何か、自分が進むべき方向はどこか、自分でいつも正しく判断し、その通りに人生を歩めると思ってしまいがちです。また、時には他人に対しても支配的に振る舞ったり、自分の利益のために他人のものを奪ったり傷つけたりしていることにも気が付きません。「その私たちすべての過ちを/主は彼に負わせられた」のでした。イエス様は、私たちが神様を必要とせずに傲慢に生きることで引き起こしている苦しみを、身を持って示してくださいました。そして、それだけではなく、それとは違う生き方があること、神様は私たちにご自分を頼って生きてほしいと願っておられることを教えてくださいました。イエス様は死んで墓に葬られてそのままだったのではなく、確かによみがえられたからです。神様は、私たちの罪を責めているのではなく、私たちが自分の罪に気が付いて、罪から解放された新しい生き方を始めてほしいと、イエス様の復活を通して私たちに語りかけられているのです。

 もう一度思い起こしていただきたいのですが、このイザヤの預言はイエス様が生まれるずっと前、数百年前に記録されたものです。「主の望みは彼の手によって成し遂げられる」と預言された通り、イエス様は神様の望みを成し遂げてくださいました。神様はイエス様を通して、確かに約束を果たしてくださったのです。 

2. 私を通して神を知りなさい

 さて、今日皆さんに紹介したい旧約聖書の預言の二つ目は、詩編22篇です。日本語では2節、英語では1節を読みます。

(詩編22) 2 わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか。私の悲嘆の言葉は救いから遠い。

詩編22篇は、苦難の中で神様の助けを叫び求める歌です。特にこの1節は、神様に助けを求めているのに神様が応えてくださらない状況の中での、絶望の叫びと言えます。この絶望の叫びを、イエス様ご自身が十字架の上で叫ばれました。マルコ15:34を読みます。

(マルコ15) 34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。

イエス様がこの叫びを十字架で叫ばれた時、神様ご自身が神様に見捨てられる絶望を味わうという、本来はありえないことが起こっていました。詩編22篇は、旧約聖書の時代の人々が残した歌で、人間の孤独と絶望の言葉です。でも、それを神様であるイエス様が叫んだ時、その歌は人間の嘆きで終わることなく、人間の嘆きを共に叫ぶ神様の言葉になりました。人に見捨てられ、神様にも見捨てられる孤独と絶望を、神様は確かに知っておられることを証明したのです。そして、神様は決して誰のことも見捨てず、忘れておられないことが証明されました。

3. どんな状況でも力と希望を与えること (イザヤ40:27-31)

 今日最後に紹介するのはイザヤ書40章の言葉です。読みます。

(イザヤ40) 27 ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ語るのか。「私の道は主から隠されており/私の訴えは私の神に見過ごされている」と。28 あなたは知らないのか/聞いたことはないのか。主は、永遠の神/地の果てまで創造された方。疲れることなく、弱ることなく/その英知は究め難い。29 疲れた者に力を与え/勢いのない者に強さを加えられる。30 若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。31 しかし、主を待ち望む者は新たな力を得/鷲のように翼を広げて舞い上がる。走っても弱ることがなく、歩いても疲れることはない。

 神様は私たちのことを忘れていません。私たちの叫びを確かに聞いておられます。私たちには、神様が何もせずに黙っておられるように思われたとしても、そんなことはありません。世界の始まりの時から私たちを愛して、私たちには想像もつかないほどに長い年月の中でも、変わらずに私たちを愛してくださっています。旧約聖書の時代の人々は、イエス様のことを知らないまま、それでも神様の約束を信じて、死んでいきました。私たちはイエス様のことを知っていて、神様は約束を果たされたと知っています。そして、イエス様がどういう方かを新約聖書の多くの証言で知ることもできます。だから、どんな状況の中でも、神様は変わらないことを信じて、希望を持ち続けることができます。

若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新たな力を得/鷲のように翼を広げて舞い上がる。走っても弱ることがなく、歩いても疲れることはない。

イエス様がくださる力と希望は、いつも新しいです。何歳になっても、何年イエス様を無視していようと、何年信じていようと、関係ありません。イエス様に期待してください。

(祈り)神様、あなたは私たちがあなたのことを忘れて、自分勝手に自分の人生を歩もうとしたり、歩めると思ったりする傲慢さを知っておられます。あなたを信頼して生きること以外に、私たちの心が本当に安らぐことはないのだと、教えてください。私たちがどんな状況に置かれても、あなたは変わらずに私たちを愛し、導いておられることを信じることができるように、助けてください。主イエス様、あなたが墓からよみがえられたように、私たちも今日、あなたがくださる新しい力によって、新しい一歩を踏み出すことができますように。それが具体的に何を意味するのか、それぞれに分かるように示してください。主イエス様、あなたの復活をお祝いして、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエス様の死と復活は、旧約聖書で預言されてきた神様の救いの計画が実現したことを意味しました。それは、神様が私たちを愛しておられ、私たちの罪を赦し、苦しみを取り除き、私たちと永遠に一緒に生きることを望んでくださっていることを証明しました。どんな状況においても、神様は良い方で、私たちを愛しておられ、変わることがない方です。そのことを信じる根拠がイエス様の死と復活であり、私たちの力と希望の源です。

話し合いのために

1) イエス様が死から復活された出来事を、あなたはどのように信じましたか?

2) 今日読んだ聖書箇所で心に残ったところは?

子どもたち(保護者)のために

人が死からよみがえるなんて、普通はありえないことです。でも、イエス様はよみがえられました。イエス様が神様ご自身でもあるからです。イエス様がよみがえられたのは、私たちがいつも神様と一緒にいられるようにするため、また神様がそのように望んでおられると教えるためです。イエス様を信じるなら、私たちもいつか、体が死んでも、神様と永遠に一緒に生き、私たちよりも先に天国に旅立った人とも、いつかまた会うことができます。