母親の傍らにいる乳離れした幼子のように

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日曜礼拝・英語通訳付

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母親の傍らにいる乳離れした幼子のように

(詩編 131)

永原アンディ

 私がお話しする日曜日は、詩編をシリーズで読んでいます。今日は131編です。このシリーズをはじめてもう8年になりますが、詩編は全部で150編なので来年の夏までには読み終えることができそうです。
 詩編は、書かれた時代や文化とは全く異なったところで生きている私たちにも大切な事柄を教えてくれます。それは、どうしたらさまざまな簡単ではない日々の悩みや苦しみの中で心の平和と喜びを保つことができるのかという問いに対する答えです。
 今日の詩はとても短いものですが、ここでも詩人の言葉を通して、私たちが押さえておくべき重要なポイントが示されています。最初に全体を読んでみましょう。

1 都に上る歌。ダビデの詩。主よ、私の心は驕っていません。私の目は高ぶっていません。私の及ばない大いなること奇しき業に関わることはしません。
2 私は魂をなだめ、静めました
母親の傍らにいる乳離れした幼子のように。私の魂は母の傍らの乳離れした幼子のようです。
3 イスラエルよ、主を待ち望め。今より、とこしえに。

 この詩で詩人が教えてくれていることは、人々がよく知りたがる自己啓発的な「心の持ち方」とか「生活の知恵」といったものではありません。むしろ、詩人はさまざまな苦しみを体験し、今もなお全てが好転したわけではない状態の中で、そのようなものが、全く頼りにならない、見当はずれの処方箋であることを知っています。

 詩人はここで、その知恵をシンプルに、避けるべき二つのことと、なすべき二つのこととして紹介してくれています。順番に一つずつ見てゆきましょう。前半は二つの遠ざけるべきことです。

A. 神様に委ねるべきこと
1. 驕り高ぶり (1a)

主よ、私の心は驕っていません。私の目は高ぶっていません。

 「驕り・高ぶり」は、人間の持つ罪の性質の典型的な現れです。これらは表面的には人に対する態度なのですが、実は、その本質が神様に対する深刻な背きであることを、聖書では多くの著者が警告しています。その罪深さにおいても、愛の足りないことにおいても神様の目から見れば、ほとんど変わらない人間同士が、相手を見下します。

 イエスは、当時の社会の為政者や宗教的指導者たちの「驕り・高ぶり」が人々を苦しめ、神様から遠ざけていたことに憤られ、人々がイエスとの出会いを通して直接、神様とつなげるために十字架にかかられました。
 現代でも宗教的な組織が「驕り・高ぶり」によって、かえって人々を神様から遠ざけてしまうということが起こります。

イエスが「誰でも私に従ってきなさい」と招いておられるのに、自分たちの宗教的信念から、ある人々の在り方を否定して、「あなたには神様に近づく資格がありません」といったりするのです。それは自分が神様に代わって人を断罪する権利があるという「驕り・高ぶり」です。そしてそれは宗教の世界にとどまらず、社会の仕組み全体が、持つ者の「驕り・高ぶり」によって持たない者を苦しめるということを引き起こします。

 ただし、「驕り・高ぶり」は自分が持たない者であったとしても無縁ではありません。どのような人間関係の中でも、私たちの心は「驕り・高ぶり」ます。自身が人から見下されている人にもまた、自分が見下す人々がいるのです。ですから、私たちは誰に限らず「驕り・高ぶり」を持ってしまうのです。
 そして、それは神様に対する「私は、あなたなしにやっていけます。あなたは私に不要の存在です」という「驕り・高ぶり」です。先日のヨブ記のメッセージで触れられた、ヨブの最終的な気付きの言葉を覚えていますか?

私は知りました。あなたはどのようなこともおできになりあなたの企てを妨げることはできません。(ヨブ記42:2)

驕り・高ぶらないことは、あらゆる人間関係を健康なものにしますが、そのために必要なことは、まず神様に対して驕り高ぶらないことです。それは、「私ではなく、あなたが私の主です」という告白から始まり、その態度を持ち続けることができるように聖霊の助けを常に求めることによってのみ可能なことなのです。

2. 神様のわざに関心を持ちすぎない (1b)

二つ目の避けるべきことは「神様のわざに関心を持ちすぎない」ということです。 一節の後半にこうあります。

私の及ばない大いなること奇しき業に関わることはしません。

 さきほど読んだヨブ記の続きにはこうあります。

「知識もないまま主の計画を隠すこの者は誰か。」そのとおりです。私は悟っていないことを申し述べました。私の知らない驚くべきことを。(ヨブ記42:3)

 神様のなさることに関心を持つのは大切なことです。しかし、その態度が過ぎれば、神様についての誤った情報を発信することになります。 「関わることをしない」という表現は、直訳すれば「歩まない」「進まない」で「深入りしない」といった意味でもあります。

 「バイブルコード」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?ヘブル語の聖書の中の文字列の中に、例えば何文字おきにといった規則性で現れるとされる文字を繋げると暗号化され隠されたメッセージがあらわれる、といったものです。それが、現代の大きな事件を予言していたなどと言われるわけですが、それらはイエスの福音となんの関わりもないことです。そのような詮索はかえって人々をイエスの福音から遠ざけてしまいます。

 「神様の意思を知るのにはどうしたら良いでしょうか?」と聞かれることがあります。なぜそう聞きたくなるのでしょう? おそらく、できるだけ良い選択をしたいということでしょう。「もし私たちが正しく知っていれば間違いのない道」というものがあればそれを知ろうとする意味はあるでしょう。ですが、そもそも神様は、そのような意味での「御心」を持ってはいないのです。  

 進学先を選ぶ、就職先を選ぶ、結婚相手を選ぶといったことで失敗しする理由は、決して“御心に反していたから”ではありません。むしろ、皆さんが誰かに、「これがあなたに対する神様の意思です」と言われたら、その人とは距離を置いたほうがいいでしょう。

  神様の考えの全てを知ることができると思うなら、それこそ神様に対する驕り・高ぶりです。神様が人間の想像の産物なのではなく、自分が神様の創造物であることを認める人なら、確かめようのない来世について思い巡らすより、目の前の道を一歩一歩進むことが大切です。そして分かれ道に差し掛かった時には、よくよく考えてどちらかに踏み出せば良いのです。

B. 自分がなすべきこと
1. 自分の魂をなだめ、静める (2)

それでは、今度はなすべきことの一つ目です。2節をもう一度読みます。

私は魂をなだめ、静めました母親の傍らにいる乳離れした幼子のように。私の魂は母の傍らの乳離れした幼子のようです。。

 今日のテキストで一番私の興味を引いたのがこの一節です。自分の魂を成熟した大人でもなく、乳を必要とする乳児でもなく、乳離れはしているものの、依然として見守りを必要としている幼子に見立てています。詩編には、よく詩人が自分の魂に向かって呼びかけるような表現が出てきますが、それは大切な視点です。自分自身を客観視するということですが、単なる客観視というより、神様の視点を想像して自分を顧みるということです。

 ここになだめる、静めるという二つの動詞が出てきます。なだめると訳されている言葉の元の意味は「地面をならす」です。作物を植え付けるために土地を耕し、畝を作り、最適な状態にするということです。皆さんの魂は良いものを生み出すのに適したものとなっているでしょうか?イエスは弟子たちにこのような例えで教えています。

「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びて塞いだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は、良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になった。」

 種とは私たちに語りかけられる神様の言葉です。そして、私たちの魂の状態が土地に例えられています。今日はマルコによる福音書の4章を紹介しましたが、同じ譬えをマタイとルカでも読むことができます。イエスはこの譬えの詳しい説明を14節からしているので、確かめたい方は読んでみてください。

 もう一つの動詞、静めるは、もっと強く「黙らせる」といったニュアンスのある言葉です。今日、前半でお話ししたように、驕り高ぶりやすい自分の心を、神様に向かって目を上げ、口を閉じて、耳を澄ますように励ますことができます。
 つまり私たちは自分の心を教育することができるということです。しかし私たち自身は神様のように正しくも強くも賢くも優しくもありません。 怠惰で、自分に甘く、意志も弱いのです。どうしたらそのようなことが可能なのでしょうか?その答えはできるだけ神様の近くにいることです。いつもお話ししていることですが、礼拝を生活の中心にすること、自分がキリストの体の一部であることを意識して生活することです。

 先にお話ししたように、神様は私たちの具体的な選択について、あらかじめ正解を用意されている方ではありません。私たちが選択を決定的に誤ったと思うような事態に陥ったとしても、そこから目指すべきところである“神の国”に至る道を開いてくださる方なのです。

2. 主を待ち望む (3)

 それでは最後のポイントについてお話しします。3節を読みましょう。

イスラエルよ、主を待ち望め。今より、とこしえに。

“主を待ち望む”という言葉は、私がお話しする時以外にも最近よく登場します。 それは私たちが意図してそうしているわけではないので、神様の意図を感じます。 

 皆さんは今、何かに待ちくたびれてはいないでしょうか?私たちは絶望して諦めるのではなく、期待して待ち望むことを勧められているのです。
 “待ち望む”という言葉は聖書の中で多く用いられている表現で、新約聖書でもよく見られる表現ですが、“主を待ち望む”に限ると、詩編とイザヤ書と哀歌だけに見られる表現です。前回のメッセージで取り上げた130編にもありました。また、イザヤは次のように私たちを励ましてくれます。

それゆえ、主はあなたがたを恵もうと待ちあなたがたを憐れもうと立ち上がる。主は公正の神であられる。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む者は。 (30:18)

しかし、主を待ち望む者は新たな力を得鷲のように翼を広げて舞い上がる。走っても弱ることがなく歩いても疲れることはない。 (40:31)

 待っているのはあなただけではありません。イエスがくださる新しい恵みを、ここにいる皆が待ち望んでいます。また旧約の時代から今に至るまで、神様を信頼する者は皆、期待して待ったのです。そして、その期待を裏切られた者は一人もいません。
 私たちはいまだに待ち焦がれていますが、人生の一つ一つの中間ゴールに到達させてくださったのは神様です。そのコースもタイミングも自分の思い描いたものとは相当違っていたかも知れませんが、主がしてくださることは最適です。
 そのことを証言してくれる人が、ここには大勢います。神様が本当に期待に応えてくださるのか自信のない人は、誰かに尋ねてみてください。
 互いに励まし合いながら、主イエスがくださる新しい恵みを待ち望みましょう。

(祈り)神様、今朝も私たちに詩編を通して人生の歩み方を教えてくださりありがとうございます。

教えていただいた避けるべきこと、なすべきことを心に留めて歩み続けることができるように私たちを導いてください。

自分自身を励ましあなたに聞きながら、また互いに励まし合いながら、あなたが用意していてくださる新しい恵みを期待しながら待ち望むことができるように、私たちの魂に語りかけてください。

あなたに期待して、主イエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

私たちが容易に陥りやすい「驕り・高ぶり」は対人関係以上に神様との関係を悪くします。また、神様にお任せすべき事柄にまで首を突っ込みたくなることも、私たちの性分ですが、これも人にも神様にも迷惑なことなのです。私たちが努めるべきことは、そうならないように神様に願い、また自分自身に言い聞かせること。まだ解決していない問題について、主を信じ期待して待ち望むことです。

話し合いのために

1) 待ち望み、得ることのできた恵みについてシェアしてください。

2) 母の傍らの乳離れした幼子のような魂とは?

子どもたち(保護者)のために

マタイによる福音書4章の種まきのたとえ(3-8)とそのたとえの説明(13-20)を読み聞かせて、心を耕すこと、期待して待つことを伝えてください。