ハレルヤ

Georg Friedrich Händel, Public domain, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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ハレルヤ

(詩編135)

永原アンディ

 今日のテキスト、詩編135編は「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わる、すこし長めの詩です。ハレルヤという言葉は、聖書を読んだことのない人でも、歌の名前などで聞き覚えのある人は少なくないでしょう。
 旧約聖書の原語、ヒブル語で、二つの元になる単語「ハレル(たたえよ)」と「ヤ(ヤーウェ)」を繋げた単語で、「ヤーウェをたたえよ」という意味です。 しかし、ほとんどの英語の聖書は「ハレルヤ」をそのまま使わず、Praise the LORD(主をたたえよ)と英訳した言葉に置き換えています。ですから私たちの使っているNIVでも「Hallelujah」は黙示録の19章で4回出てきるだけで、今日の箇所でも”Praise the LORD”(主をたたえよ)と英語になっています。
 いつものように、少しづつ読み進めてゆきましょう。7節までをお読みします。

1. 主に仕える者は主をたたえよ (1-7)

1 ハレルヤ。賛美せよ、主の名を。賛美せよ、主の僕たちよ
2 主の家に我らの神の家の庭に立つ人たちよ。
3 ハレルヤ、主はまことに恵み深い。その名をほめ歌え。その名はまことに麗しい。
4 主はヤコブをご自分のために選びイスラエルをご自分の宝とされた。
5 私は確かに知った主は大いなる方我らの主はすべての神々にまさる、と。
6 主は何事も御旨のままに行われる天と地において海とすべての深い淵において。
7 地の果てから雨雲を湧き上がらせ雨のために稲妻を造り風を倉から送り出される。

 この歌は当時のユダヤ教の神殿礼拝で歌われた神様をほめたたえる歌です。イエスを主と信じ従って歩むというキリスト教信仰はユダヤ教社会で生まれました。教会を始めた弟子たちは、自分たちの信仰がユダヤ教を否定する者ではなく、イエスをユダヤ教を完成させるの最後のワンピースだと信じていたのです。ですから、彼らは旧約聖書を“聖書・神様の言葉”と信じ読み続けました。私たちの教会の祖先たちも、この賛美の歌を自分たちの歌うべき歌と心から信じ歌っていたはずです。

 そして私たちも、ヤコブとかイスラエルという言葉にとらわれず、「主は私たちをご自分のために選び、私たちをご自分の宝とされた。」というつもりで理解すれば良いのです。私たちは主の僕です。教会は主の家、神の家であって、私たちはその庭に立つ者です。

 主イエスと共に歩み始めると、主の素晴らしさをもっと知るようになります。共に歩めば歩むほど主の偉大さの実感は大きく確かなものになってゆきます。6,7節に歌われている通り、神様は私たちを取り巻くあらゆる物事について主権を持っておられる方です。しかし神様は地上の独裁者たちのように無慈悲に人を支配する方ではありません。私たちを苦しめる神様ではなく愛する神様、私たちを殺す神様ではなく、生かす神様です。私たちが、ハレル/たたえる価値のある存在は、ただお一人のヤーウェ・主だけなのです。

 それではテキストを読み進めてゆきましょう。8-14節です。

2. 聖書の神様はユダヤ教徒とキリスト教徒だけが好き? (8-14)

8 主はエジプトの初子を人の子も家畜の子もことごとく打ち
9 エジプト中に、しるしと奇跡を送り込んだファラオとその家臣すべてに対して。

10 主は多くの国を打ち、強大な王たちを殺した
11 アモリ人の王シホン、バシャンの王オグカナンの王国をことごとく。
12 彼らの領地を相続地として与えたご自分の民イスラエルに相続地として。

13 主よ、御名はとこしえに。主よ、御名は代々に唱えられる。
14 主はご自分の民を裁き僕らを憐れむ。

 初代教会が始まった時、新約聖書はまだ存在していません。新約聖書はこの初代教会の人々によってまとめられたのです。福音書は、イエスの地上での働きの証人である使徒たちによって口伝えの伝承が文書化されたものです。
 先に触れたように、初代教会の人々はイエスをユダヤ教の中で待ち望まれていたメシアであると信じていました。しかし、イエスご自身はユダヤ教という一つの宗教に収まる方ではありませんでした。イエスを信じた人々もそのことに気付きはじめ、イエスの言葉やなさったことを福音書に、初代教会に現された聖霊の働きを使徒言行録に、イエスの教えを体系的に整理した教えやイエスの思いに適った教会のあり方の教えのつづられた手紙、そして預言の書である黙示録として新約聖書としてまとめました。

 現在の新約聖書27巻として確定されたのは4世紀のことです。聖書は、旧約でも新約でも、誰かが神様のお告げで発見したとか、天から降ってきたとかいった最初から完成した本ではないのです。これはどのような意味で聖書は「神の言」なのかという非常に重要な問題です。 
 ある人々は、聖書は誤りのない神様の言葉なのだから、書いてある文字通りに読まなければいけないと言って、神様を「ユダヤ・キリスト教徒だけを愛する神様」とするのです。しかし神様は、創世記によれば、すべてのものを創られたすべての人の神様です。聖書の成り立ちから言って、聖書はそのような意味では、一字一句誤りのないものではありません。その時代、文化の影響を避けられない人の言葉で書かれた「神様の言葉」なのです。 私たちは文字の表面上の意味ではなく、欠けのある人々の言葉を用いて書かれた聖書を、イエスの行いと言葉を基準にできるだけ正しく解釈して受け取る必要があるのです。
 今読んだ箇所とは関係ない話をしているように聞こえるかもしれませんが、実は、そのことはこの箇所を正しく理解するために欠かせない事柄なのです。イエスがこの世界に来られるまで、ほとんどの宗教は民族や国家に結びついたものでした。それはユダヤ教も例外ではありません。
 今読んだ箇所は、当時のユダヤ人の視点で書かれているということに留意しなければ、「聖書の神様はユダヤ教徒とキリスト教徒だけを愛する神様」ということになってしまいます。イエスの思いをいつも真剣に聞こうとしているみなさんにとっては笑い話に聞こえるかもしれませんが、今、実際に「神の言である聖書によれば、神様はユダヤ人やキリスト教徒の虐殺を許さないが、異教徒、ペリシテ人虐殺を認める方」だと教える人が日本にもいます。そして、キリスト者なら当然、現在ガザ地区で起こっている紛争に関してイスラエル政府を支持するべきだと教えています。ユーチューブで検索すれば、そのようなユーチューバー牧師がいくらでも出てきて悲しくなります。

 私は神様がどこに国の人であれ、どんな宗教の人であれ等しく愛され、彼らを虐待することを誰であろうと認めないと信じます。そこで14節は「民族国籍に関係なく、神様はすべての人に正義を求め、すべての人を憐れまれる」と解釈すべきだと思います。

 15-21節を読みましょう。

3. 偶像を恐れず、主をたたえよう (15-21)

15 国々の偶像は銀と金人の手が造ったもの。
16 口があっても語れず目があっても見えない。
17 耳があっても聞こえず口には息もない。
18 それを造り、頼る者は皆偶像と同じようになる。

19 イスラエルの家よ、主をたたえよ。アロンの家よ、主をたたえよ。
20 レビの家よ、主をたたえよ。主を畏れる人たちよ、主をたたえよ。
21 シオンから主をたたえよエルサレムに住む方を。ハレルヤ。

 聖書には、何かを偶像に祭り上げて神様の代わりにしてしまう偶像礼拝を警告する言葉がたくさん出てきますが、ここでは偶像を恐れることを戒めています。当時の人々にとっては文字通り、周囲の強国の力の源泉と信じられていたそれぞれの偶像に対する恐怖でもあったのでしょう。
 現代人は手で偶像を作ったりはしませんが、心で作った偶像を持っています。神様を知らなければ、偶像を作るしかありません。しかし、どんな偶像も無力であることはここに書いてある通りです。
 私たちにとって何かを恐れるということは、作られた偶像を恐れているということなのです。本当は全てを支配されている神様と共にいる者なのですから、何も恐れる必要はありません。だからハレルヤ!なのです。

 実は、私はイエスを信じた初めの頃、「ハレルヤ」は苦手でした。牧師になる前に短い間、某キリスト教出版社で働いたのですが、そこに出入りする牧師のなかに、挨拶がわりに「ハレルヤー」という方がいて、人混みの中で出会っても「ハレルヤー」とくるわけです。こちらが「こんにちわ」と返すとまた「ハレルヤー」と言われて、私が「ハレルヤー」というまで許してくれないのです。周りを気にして小さな声でハレルヤというと、もっと大きな声でと言われてしまいました。
 つまり、私にとって「ハレルヤ」の第一印象は、とても能天気でしかも押し付けがましいものだったわけです。8年前に亡くなりましたが、レナード・コーエンというユダヤ系カナダ人の詩人・シンガーソングライターがいました。 「ハレルヤ」と題された曲は多くあります。週報の写真はヘンデルのオラトリオ「メサイア」の中の「ハレルヤ」の自筆の楽譜の歌い出しのところです。ヘンデルの「ハレルヤ」を除けば、コーエンの作った「ハレルヤ」が一番よく知られていて、多くの歌い手によってカヴァーされています。そこで歌われているハレルヤは能天気でもなく、押し付けがましくもなく、むしろ痛々しく、弱々しいのです。自身の罪深さに、無力に、悪い状況の中で、自分を創ってくださり、きっとなんとかしてくださるであろう神様に向かって、絞り出すように声に出される、あるいは、自分の内からはそれ以外に何も出てこない、ため息のようにつぶやくハレルヤです。
 こんな歌詞が出てきます。 

「愛は勝利の行進ではない 冷え切った破壊されたハレルヤ」
「光を見いだした誰かのようではなく 冷え切った破壊されたハレルヤ」

大きな罪を犯した時のダビデの口からも、髪を切られて無力にされたサムソンの口からも発せられた(それはコーエンの想像ですが)ハレルヤには、元気で楽しげに歌われるハレルヤよりも実は価値があります。コーエンは自身でこんなことも語っていました。

「周りを見回すと、理解できない世界が見える、拳を上げるか、ハレルヤと言うしかないだろう。」

私は無力でも、愚かでも、罪深くても、何も持っていなくてもあなたがいるから大丈夫、ゆだねます。それは誰かに向かって命じる「ハレルヤ」ではなく、自分自身を慰め、励ます「ハレルヤ」なのです。ハレルヤ。

(祈り)神様、今誰よりも近くに、私たち一人一人と共にいてくださるあなたを喜びます。
状況がどのようであれ、あなたに信頼します。
世界の先行きが破滅に向かって進んでいるようにも見えますが、全能の神であるあなたに全てを委ねます。
人々を恐れるのではなく、あなたをほめたたえ歌い礼拝します。
どうぞ私たちの歩みを導いてください。
私たちの主、イエス・キリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

私たちはどんな時でも「ハレルヤ」(主をほめよ)と言うべきです。それは、どんな時でも元気で満ち足りているように振る舞うべきだということではありません。むしろ、何もできることが見当たらない、人の助けも当てにならない、絶望的と思える状態にあって、もう主にお任せするしかないと、神様に全てを委ねる態度で、自分自身に呼びかけるように発するハレルヤこそ、信仰の核心です。

話し合いのために

1. 「ハレルヤ」とはどのような意味ですか?

2. 聖書はどのような意味で「神様の言葉」と言えますか?

子どもたち(保護者)のために

「ハレルヤ」って知ってる?から始めましょう。その意味を教えましょう。
神様が全能であることを1-7から、神様以外のものを恐れる必要のないことを15-18で伝えてください。