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日曜礼拝・英語通訳付
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男性優位的な聖書とイエス様の愛の普遍性
(ヨハネによる福音書7:53-8:11)
池田真理
(※この箇所は、本来はヨハネ福音書にはなく、後になって付け加えられたものだと言われています。理由は、内容的に前後の文脈から切り離されていることと、文章の特徴がヨハネ福音書の特徴とは異なっているからです。皆さんの聖書でもこの箇所は括弧書きの中にあると思いますが、理由はそういうことです。でも、そのような経緯があっても、この箇所はイエス様の罪の赦しとはどういうことかを端的に教える重要なエピソードとして、早い時期にヨハネ福音書の一部としてこの場所に挿入されました。なので、私たちがこの箇所を他の箇所と同等の価値のあるものとして読んで何も問題ありません。)
今日はヨハネによる福音書のシリーズに戻って、7:53-8:11を読んでいきます。早速、全体を通して読んでみましょう。
〔53 人々はおのおの自分の家へ帰って行った。1 イエスはオリーブ山へ行かれた。2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御もとにやって来たので、座って教え始められた。3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った。10 イエスは、身を起こして言われた。「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」11 女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
この箇所の主題はイエス様による罪の赦しです。でも、私が注目したいのは、タイトルの通り、この箇所が男性優位的な価値観を反映していることについてです。主題ではないことに注目して話して良いか悩みましたが、お話しすることにしました。
理由はいくつかあるのですが、まず一つは、残念ながら聖書の中に他にもたくさんある女性差別的な箇所の中でも、この箇所は実際に起こった男女関係の問題にイエス様が直接関わっていることです。そういう箇所は、私が考えた限りでは他にはありません。だから、ちゃんと取り上げるべきだと思いました。
もう一つの理由は、私が当たった聖書註解書の中で、この箇所を男性優位的な価値観を反映していると名言しているものが一つもなかったからです。英語で3冊、日本語で2冊当たりました。だから自分の解釈が間違っているのか悩んだのですが、それらの参考書全てが私より2世代以上前の男性研究者(Raymond E. Brown, J. Ramsey Michaels, Leon Morris, 松永希久夫、村瀬俊夫)によるものだったので、それも理由かもしれないと思いました。註解書ではないのですが、最近の本で「これは男女差別である」と明言しているものもあったのですが、その言い方は男女差別は過去のものであると言っているようでした。(松本敏之)
もう一つの理由は、私が女性支援の現場で働いていることです。この箇所を読んでいて、新宿の公園で売春の客待ちをしていて逮捕された女性たちのことを思わずにいられませんでした。日本では、買春する男性より、売春する女性の方が取り締まられることが多いのが現状です。そして、売春する女性の多くは家族関係の破綻から貧困に陥っており、同時に精神障害や知的障害を持っていることもあります。彼女たちは支援を必要としているのであって、逮捕され制裁を下されるべきではありません。このような社会の歪みに、聖書を読む私たちが決して加担せずに、正しくイエス様の愛を伝えるために、今日の箇所から学ばなければいけないと思いました。
なお、今日は男性優位的な価値観の問題を取り上げるため、男女の性別しか取り上げませんが、性のあり方は男女だけでなく、トランスジェンダーも同性愛も、どんな性自認も性指向も大切にされなければいけないと私は信じています。
それでは、内容を詳しく読んでいきたいと思います。
A. 男性優位的な聖書
1. なぜこの場に「姦通の現場で捕らえられた男」がいないのか?(レビ20:10、申命記22:22)
まず、この場面で宗教指導者たちが「姦通の現場で捕えられた女性は殺されなければならない」と主張していることに関しては、根拠となる旧約聖書が二箇所あります。まずレビ記20:10です。
人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。 (レビ記20:10)
もう一つは申命記22:22です。
男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。(申命記22:22)
この通り、この二箇所によれば、不倫の現場で捕らえられた者は、「男女共に」殺されなければならないとされています。それなのに、なぜ今日の箇所の現場には女性しかいないのでしょうか?そして、なぜそれを誰も問題にしていないのでしょうか?
それから、不倫で捕まった人は石で打ち殺されなければいけないというルールは、旧約聖書に直接的な根拠がありません。いくつかの聖書箇所が組み合わせてそう解釈されて、そのやり方が慣例になっていた可能性はあります。
また、旧約聖書には、どんな罪でも二人以上の証人がいなければ認められないとされており、この不倫の現場に本当に二人以上の目撃者がいたのか疑問が残ります。もし目撃者が二人いて、正式に姦通の罪が認定されたなら、なぜ女性だけが捕まって男性は逃げられたのか、疑問が深まります。
これらの疑問や矛盾は全て、宗教指導者たちをはじめとする当時の男性たちが、モーセの律法の権威を笠に着ながら、実際は自分たちに都合がいいように律法を解釈し、利用していたということを示しています。それは、新約聖書の他の箇所でも、イエス様と宗教指導者たちがいつも対立する理由なのですが、今日の箇所では特に、その背景にあった女性蔑視の問題に注目したいと思います。
2. 旧約聖書の時代もイエス様の時代も社会は家父長制だった
旧約聖書の時代も新約聖書の時代も、社会は家父長制でした。全ての女性は、結婚するまでは父親のものであり、結婚した後は夫のものでした。つまり、女性は男性の所有物だったということです。
特に、旧約聖書では一夫多妻制が認められていて、先の姦淫の罪についても、女性は夫以外の人と関係を持ったら全て断罪されたのに対して、男性は未婚の女性が相手であれば罪に問われませんでした。先ほど読んだ申命記22章の続きには、「未婚の女性を襲ったら、その女性を妻にしろ」という、とんでもないことも書かれています。
新約聖書の時代には一夫一婦制が普通になっていたようですが、女性は男性に従属するものとして同等には扱われませんでした。「五千人の給食」のエピソードでも、「男が五千人いた」とあり、女性と子どもは含まれていません。また、イエス様の弟子の中には多くの女性がいたはずなのに、新約聖書のほとんどの記述は男性の弟子たちに関するものです。そして、パウロの手紙には女性は男性に従順であるべきだという指示が繰り返されています。
今日の箇所に戻りましょう。今日の箇所の女性は、宗教指導者たちにとって、彼らがイエス様を追い詰めるための道具でしかありません。彼らは、律法が家父長制を反映した男性優位的なものであることに疑問を感じていません。女性が相手なら律法を厳密に守る必要はないとさえ思っていたのかもしれません。そして、それをイエス様に咎められるとも全く思っていません。そんなことは男性なら誰も気にしないはずだからです。彼らの女性差別は無意識のうちにされていたのであり、それは当然で正しいことだとさえされていたのです。
だから私は、この箇所を解説する現代の学者たちも、彼らの無意識の差別にもっと注意を向けるべきだと思います。女性差別に限らず、差別というのは無意識のうちに行われるもので、それが差別だと思われていないことが一番の問題です。それは現代でも同じです。
3. これは現代も続いている問題
私が平日勤めている施設は住宅街の中にあるのですが、近所にこんな看板が立っている道があって、私は見るたびにモヤモヤします。「チカン出没注意」という看板です。所轄の警察署が出しているものです。皆さんのお住まいの地域でも見かけるかもしれません。チカン被害が多いと知らせることは警察の役割で、間違っていないと思います。でも、私が問題だと思うのは注意の呼びかけ方です。警察が警告すべきはチカンであって、被害に遭う可能性のある女性たちではありません。なぜ、女性が警告されなければいけないのでしょうか?もしその道でチカン被害に遭ったら、その女性の注意不足が悪かったことになるのでしょうか?私は看板の書き方を、嘘でもいいから「チカン取り締まり強化地域」とか「チカン警戒中」とかにしてほしいです。
こんな小さな看板のことをそんなに気にするべきじゃないと思われる方もいるかもしれませんが、私はこの看板の文言に多くの人が疑問を持たないところに、男性優位主義の根強さを感じます。警察が当たり前のようにこの文言を看板にしていることに怒りを感じます。
日本で性被害に遭った人の多くは、警察だけでなく身近な人からも、「あなたの服装が悪かった」とか「そんな時間に一人で歩いていたあなたが悪かった」と責められることが多いと言います。男性が女性にとって危険を及ぼす可能性がある以上、女性が自衛のために服装や外出時間に注意することは仕方ないことです。でも、女性がどんな服装であろうと、どんなに人気のない夜道を歩いていようと、襲わない選択をすることができたのに襲う選択をした人にこそ責任が問われるべきです。それなのに、日本社会で被害者を責める風潮が強いのは、信じ難いですが、男性が時に女性を襲いたくなってしまうのは仕方ないこととして許容されているからではないでしょうか。だから、チカンはまるで熊と同じように「出没注意」とされるのかもしれません。それは、多くの良心的な男性にとっても大変失礼なことだと思います。
本当はここで売春防止法のことや今年4月から施行された「困難女性支援法(困難な問題を抱える女性への支援に関する法律)」のこともお話ししたかったのですが、もうすでにかなり長くなってしまったので、また別の機会にお話ししたいと思います。
私がお伝えしたかったのは、イエス様の時代も今の時代も、男性優位主義は社会の構造に組み込まれ、私たちの日常の中に入り込んでいるということです。その価値観があまりに当たり前で、正しいこととされているので、疑問すら持たなくなっているかもしれません。でも、その結果、弱い立場の女性たちが苦しむことになります。
私自身も以前は性被害の被害者を責めたり、売春をする女性に対して偏見を持っていたりしました。それが間違いだと気が付くまで、私は男性優位主義の手先になっていたと思います。社会が男性優位的であることの責任は男性だけにあるのではありません。女性も男性も関係なく、それが間違いであると気が付かなければ不正義はなくなりません。だから私は、聖書にある男性優位主義も見過ごしてはいけないと思います。
それでは、やっと今日の箇所の本題、イエス様の愛について考えていきましょう。
B. イエス様の愛の普遍性
1. イエス様は全ての人が罪人だと知っておられる
「こういう女は石で打ち殺すことになっていますが、あなたはどうお考えになりますか?」と、宗教指導者たちに問われたイエス様は、何も答えずに、座り込んで地面に何かを書き始めた、とありました。何を書いていたのかは誰にもわかりません。それよりも、なぜイエス様は彼らの質問にすぐに答えずに黙ってしまったのでしょうか?私は、彼らの間違いがあまりに多すぎたのと同時に、彼らが自分たちは正しいと思い込んでいたので、イエス様はご自分がどう答えようと彼らには届かないと分かっていたからだと思います。
だから、彼らにしつこく尋ねられて、お答えになった時、イエス様は彼らに逆に問いかけました。「あなたたちは一度も罪を犯したことがないのか?」と。これは、彼らの関心を、他人の罪から自分自身の罪に向けさせる問いかけです。
そして、彼らが全員いなくなった時、イエス様はこの女性に「私もあなたを罪に定めない。もう罪を犯してはならない」と言われました。これは、「あなたが罪を犯したのは事実だけれども、私はその罪を赦します」という宣言です。イエス様はこの女性を断罪されるべき赤の他人として突き放すのではなく、赦されて愛されるべき人の一人として迎えたのです。
私たちは全員が罪人です。社会的に強者であろうと弱者であろうと、神様の前で罪を犯したことのない人は誰もいません。誰もが、自分が正しいと思って他人を傷つけたことがあり、自分の利益のために誰かを傷つけることを正当化したことがあります。この女性が不倫をした事実も変わりません。
でも、イエス様は私たちが罪から解放されることを望まれました。個人的な関係の中で私たちが犯す罪も、社会の構造の中に組み込まれている私たちの罪も、イエス様の前には隠されていません。ただイエス様は、私たちがそれに気が付いて、繰り返さないことを望まれています。そのために、イエス様は十字架に架からなければならなかったのであり、私たちのためにそれを成し遂げてくださいました。
2. 私たちが互いに許し合い、愛し合うことを望まれる
私たちは全員が、イエス様のこの語りかけを聞くところから始めなければいけないと思います。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
私たちの一番の問題は、自分の間違いを間違いだと思っていないことです。でも、それによって人との関係が壊れたり、誰かを傷つけたりしていることに気が付けたら、そこから私たちの新しい歩みが始まります。その自分の過ちをイエス様が赦してくださっているように、私たちも互いの過ちを許し合います。それは間違いをなかったことにするのではなく、間違いを間違いと認識した上で、同じ間違いを繰り返さないように互いに協力することです。
私たちは、育ってきた家庭環境や受けてきた教育の中に組み込まれた人間の罪に気が付いていけるでしょうか?それは、男性優位主義だけではありません。私たちは私たちの罪の呪いから互いを解放していけるでしょうか?それぞれが神様に愛されている子の一人として生きていけるように、尊重しあえるでしょうか?イエス様が私たちに託されたミッションです。
(祈り)お祈りしましょう。主イエス様、どうぞ私たちが自分の過ちを認めて、あなたに正しい方向に導いていただけるように、私たちを変えてください。社会の中で見えにくくなっている間違いに気が付けるように助けてください。あなたの憐れみと愛がこの世界の中で実現してくように、私たちが自分の力に頼らずに、あなたの霊の助けを求められるようにしてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
要約
聖書は、聖書の時代の人々が持っていた家父長制的・男性優位的な価値観を強く反映しています。また、聖書学者たちも近年に入るまではほぼ男性でした。私たちは聖書を読むときにこのことに留意しなければいけません。でも同時に、聖書を読んでいて分かるのは、イエス様は、現代においても革新的なほどに、性別や人種や障害や身分にとらわれずに、一人ひとりの人格を尊重し、愛されたことです。イエス様が望まれているのは、イエス様が私たち全ての罪を赦されたように、私たちが互いに許し合い、愛し合って生きる社会を作っていくことです。
話し合いのために
1. 聖書の男性優位的な記述をどう解釈すれば良いですか?
2. イエス様は差別を許せと言われているのでしょうか?互いに許し合うとは、差別する側とされる側の間ではどのように実践すれば良いですか?
子どもたち(保護者)のために
子どもたちの日常の中で性差別があるか、聞いてみてください。「男の子だから」「女の子なのに」「男らしく」「女らしく」という言葉を聞いたり言われたりしていないでしょうか?家の中で家事をするのがお母さんに偏っていないでしょうか?お父さんが働いてお母さんが家のことをするのは「普通」ですか?政治家はなぜおじさんが多いのでしょうか?子どもたちのモヤモヤや、保護者の皆さんのモヤモヤを一緒に話してみてください。