異国の地で主のための歌を

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日曜礼拝・英語通訳付

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異国の地で主のための歌を

(詩編137)

永原アンディ

 今日のテキスト、詩編137編の背景には“バビロン捕囚”というイスラエル民族にとって忘れられない出来事があります (II列25:2-21)。 当時の強大国、新バビロニアにより占領された南ユダ王国の中心都市であったエルサレムの人々が、強制的に移住させられ半世紀以上、故郷に帰ることができなかったという出来事です。(当時イスラエルは南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂していて、北のイスラエル王国はすでに滅亡していました。)

 バビロン捕囚は、エジプトからの解放の記憶と対極的な記憶として、ともに彼らの心に深く留められるものとなりました。

 まずこの詩の全体を読みましょう。

1 バビロンの川のほとりそこに座り、私たちは泣いたシオンを思い出しながら。
2 そこにあるポプラの木々に琴を掛けた。
3 私たちをとりこにした者らがそこで歌を求め私たちを苦しめる者らが慰みに「我らにシオンの歌を一つ歌え」と命じたから。
4 どうして歌うことができようか異国の地で主のための歌を。
5 エルサレムよもしも、私があなたを忘れたなら私の右手は萎えてしまえ。
6 私の舌は上顎に張り付いてしまえ。もしも、あなたを思い出さないなら。もしも、エルサレムを私の最上の喜びとしないなら。
7 主よ、思い出してくださいエドムの子らをエルサレムのあの日を彼らがこう言ったのを「剝ぎ取れ、剝ぎ取れ、その基まで」と。
8 娘バビロンよ、破壊者よ幸いな者お前が私たちにした仕打ちをお前に仕返しする者は。
9 幸いな者お前の幼子を捕らえて岩に叩きつける者は。

1. バビロン捕囚がイスラエルにもたらしたこと

 バビロン捕囚は、イエスの時代から600年ほど前から約60年の期間に渡って続いた状態です。当時のイスラエルは強大国のエジプトと新バビロニアの間にあって両国の脅威にさらされていました。当時の預言者たちは、このような困難の主な原因は外敵ではなく、イスラエル自身の神様に対する背反と見て、警告を発していました。

 イザヤはこの出来事以前の預言者ですが、100年前にこの出来事を預言していました。しかし同時に、耳障りの良い偽預言者も多くいて、本当に反省して神様に立ち戻ろうとする態度は広く共有されることはありませんでした。エルサレムをはじめとして国土は荒れ果て、残された少数の人々は人々は困窮の中に置かれていました。

 一方で、自分の住む町から強制的に連行されてバビロンに移された人々はどのような思いで暮らしていたのでしょうか?その期間の長さから言って、移された時に成人だった人々は生きて故郷に帰ることはできなかったはずです。 

 この出来事については旧約聖書以外の資料はほとんどなく、移住させられた人数やそこでの待遇に関してはさまざまな見解があって不明な点も多いのです。   旧約聖書から受ける印象ほど過酷ななかったとする見解も多く見られます。しかしイスラエル人が心に受けた民族的な記憶としては、先に触れたように、出エジプトと並んで深く刻みつけられたものであったことは間違いありません。  しかも、その結末は出エジプトとは異なりハッピーエンドというわけにはいかなかったのです。

 60年後に周辺の国際情勢によって帰国はかなったものの、そこから輝かしい未来につながったわけではありません。民族の苦難は現代に至るまで続いているとも言えるでしょう。

 最初の4節には平和な暮らしを奪われ、不自由な異国で暮らし始めた人々の嘆きが歌われています。支配する側、力を持つ側の要求は気まぐれで過酷です。

バビロンの川のほとりそこに座り、私たちは泣いたシオンを思い出しながら。そこにあるポプラの木々に琴を掛けた。私たちをとりこにした者らがそこで歌を求め私たちを苦しめる者らが慰みに「我らにシオンの歌を一つ歌え」と命じたから。どうして歌うことができようか異国の地で主のための歌を。

 こう想像してみたらどうでしょう? イエスを礼拝することを禁じる国に強制移住させられて、酒の席のようなところに引き出されて、からかうためにかつて教会で歌っていたワーシップソングを歌ってみろ、と言われているような経験です。人はこうも残酷になれるのです。その人の信仰といった、心の中で大切にしているかけがえのない事柄についても容赦なく踏み躙ることができます。

 5、6節はもし自分がエルサレムへの思いを忘れることがあるなら呪われるべきだと言っているわけですが、それは周囲がすでにそのような状態になりかけていたからです。捕囚が進む中でバビロニアの文化に順応して、バビロニア風の名前をつける人も出てきたそうです。捕囚が解かれても、帰らないことを選んだ人もいたのです。

 7節以降は復讐を願う叫びです。  彼らほどの苦しみを受けていない者が、「残酷な復讐を神は望まないのではないか」などと批判することは簡単なことです。人は、客観的な目で見ることのできない境遇に置かれることがあるのです。それを自制できないことを非難することは無意味です。

 もちろん神様は一民族の神様ではなく、すべての人の神様です。詩人の復讐願望に応えられることはありません。そのことに彼らは大きな失望を覚えたでしょう。

 しかし、その中で神様に対する自分たちの背信に気付かされた者もいました。 神殿が破壊されることを目の当たりにして、頼るべきは偉大な神殿ではなく、神様の言葉=彼らに取っては律法であることに気づいた者もいました。神様は自分たちの民族神に留まらない、唯一の創造の神様であることを再確認した者もいました。

 この出来事は民族にとって忘れることのできない恐ろしい記憶となりましたが、このことがなければ、ユダヤ教は本の中に記録された過去の宗教となっていたかもしれません。

2. この出来事から私たちが学べること

 イスラエルは困難な歴史を背負って、現代に至っています。ユダヤ人に対する風当たりは常に強くありました。しかし今、イスラエルを名乗る国家はまるで今日の詩の報復の誓いを実践するような暴虐に手を染めてしまっています。

 イスラエルだけが強権的な国家であるわけではありません。かつてのバビロニアやローマ帝国は、イスラエルに対して過酷な占領を行いました。

 日本も被害国であると同時に加害国でした。今のところ唯一の被爆国ですが、それ以前に、戦争捕虜に対して過酷な国であり、中国や朝鮮半島から、人々を強制的に連れてきて働かせた歴史を持っています。

 ソビエト連邦は降伏した日本人の帰国をすぐには許さず、冬の寒さの厳しいシベリアで強制労働させることによって、戦争では死なずに済んだのに、戦後も異国に置かれたまま死ななければならなかった人が多くいたのです。

 アメリカやカナダはどうでしょう? 第二次世界大戦が始まると、アメリカ・カナダでは市民権を持っているのに敵国からの移民という理由で日系人を住み慣れた家を奪われ、砂漠の中の収容所に強制移住させています。もっともカナダとアメリカは、当時の間違いを認め収容した一人一人に賠償金を支払っています。「あれは強制ではなかった」などと言い逃れをしている某国よりはずっと立派です。 

 

 つまり、私が言いたいことは、何人が特別に残虐であるとか非人道的であるということではないということです。地上のどの国家も時と場合によって残虐で非人道的な振る舞いをしてきたのです。人種や国を誰かが印象付けたステレオタイプで決めつけることは、間違っているだけでなくその人々を創られた神様に対する侮辱です。残虐な人も不道徳な人も嘘つきも、どの国にも存在します。

 神様を信じるというなら、特定の国や人種に偏見を持ってはいけません。それより、私たちは自分の内にある、あるいは自分の国の残虐性、非人道性を認めるべきでしょう。このことを認めないなら私たちは過ちを何度も繰り返してしまうことになります。 

 イエスが、12人の弟子を集めて、ご自身の宣教の働きを担わせるにあたって、彼らに心構えとして語られたかなり厳しい言葉が、ヨハネ以外の三つの福音書に記録されています。今日はマタイによる福音書から紹介します。この世界がイエスに従って歩む者にとってどのようなところであるかということを教えている内容です。

その時、一人の律法学者が進み出て、「先生、あなたがお出でになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ 8:19,20)

また、

弟子は師を超えるものではなく、僕は主人を超えるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はなおさら悪く言われることだろう。」(マタイ 10:24,25)

同じ10章の34節には: 

「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。

とあります。地上はイエスにとっては異国のような厳しい環境でした。そして、それは彼に従って歩む者にとってはさらに生き辛い環境であるということです。キリスト教国と呼ばれる国でさえ、本当にイエスの従って歩もうとするなら、そこには嘲笑と迫害が起こるのです。

 私たちにとっては、この地上のどこに住んでいても異国の地に置かれているのだということです。私たちの真の国籍は天=神の国です。あまりにも神様の意思とはかけ離れた不正義や残虐な行いが起こりますが、そのようなところで救いを求める人々のために、イエスとしてこられ、私たちを弟子としてその働きに就かせたのです。

 神様は、神の国のショーケースとしてこの世界に教会をおかれました。このキリストの体である教会という共同体があるので、私たちは世界という”異国”に置かれても主のための歌を、いやいやではなく、喜んで心から歌い礼拝することができます。一人一人がどんな境遇に置かれても互いに助け合い、支え合うことができます。

 今週も聖霊に満たされて元気に歩んでゆきましょう。

(祈り)神様、ありがとうございます。あなたは全てをご存知で、それぞれの必要を満たしてくださいます。
この世界は、相変わらず人の罪の性質によって恐ろしいことが起こりますが、すべてあなたの手の上にあることを信じます。
なぜそれを、あなたが許されるのかと思うようなことでも、あなたを信頼して、ただあなたに聞いて、自分のすべきことをしたいと思いますから、どうぞ教えてください。
そのために必要な愛、忍耐、知恵をお与えください。
感謝し、期待して、主イエス・キリストの名前によって祈ります。


要約

イエスを信じ、彼に従う者の国籍は神の国です。それは、この世界においては寄留者であるということを意味します。しかも、旅行者のように自分の意志でそこにいるのではなく、そこに置かれた者として生かされています。寄留者としての生活には様々な制約があり生き辛さもあります。しかし神さまは、私たち一人一人にここで生きる使命を与え、生きる力、喜び、助けを与えてくださる方です。地上の権威は、私たちを最終的に屈服させることはできません。

話し合いのために

1. 私たちの国籍が天にあるとはどういうことでしょうか?

2. イエスを信じる者として、バビロン捕囚から学べることは?

子どもたち(保護者)のために

4節までを読み聞かせ、状況を想像させてください。またそれが難しい年代なら国籍について話してあげてください。そしてイエスを信じる者は「神の国」に真の国籍があることを伝え、この社会の中でどのように生きることができるのか話し合ってみましょう。