敵に語りかけ続けたイエス様

Hans Leonhard Schäufelein, CC0, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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敵に語りかけ続けたイエス様

(ヨハネによる福音書8:21-29)

池田真理

 今日もヨハネによる福音書の続きで、今日は8:21-29を読んでいきます。この箇所を通して見えてくるのは、タイトルの通り、イエス様はご自分を苦しめる敵に語りかけ続けたということだと思います。イエス様は、ご自分を殺そうと狙っていたユダヤ人指導者たちのことを見放さず、できるだけ救いたいと願われていました。
 イエス様は私たちに「敵を愛しなさい」と教えました。だから、今日の話は、私たちもイエス様に倣って自分を苦しめる人と対話を続けなければいけないと教えていると解釈することもできます。でも、それは違うと思います。今日の話が教えているのは、自分を殺そうとしている者たちのことさえ赦して愛しているイエス様の憐れみの大きさです。イエス様を殺そうとしていたユダヤ人たちは、私たちです。私たちは、イエス様に倣う前に、私たち自身がイエス様を苦しめる敵であったということ、その私たちを赦して愛してくださったのがイエス様であるということを忘れてはいけません。私たちは、そのイエス様の憐れみを知って初めて、自分を苦しめる者にも神様の愛が平等に注がれているという不公平さを受け入れる余裕が少しできるのだと思います。
 敵を愛するというのは私たちにはとても難しいことです。自分を傷つけ苦しめる人を、または大切な人を苦しめる人を、許すことも難しいのに、愛するなんて到底無理に思えるかもしれません。敵を愛することが具体的に何をすることを指すのか、私たちはそれぞれの状況の中で答えを出していくしかありません。大切なのは、敵を許せない私たちのことを神様が大きな愛で愛し、私たちが自分ではどうしようもないと感じる心の傷を神様は癒すことができるということをいつも確認することだと思います。
 それでは、イエス様がどのように私たちを赦して愛して、語りかけ続けてくださっているのか、今日の箇所から考えていきましょう。まず21-24節を読みます

A. 敵を断罪しながら救うことをあきらめていない(21-24)

21 そこで、イエスはまた言われた。「私は去って行く。あなたがたは私を捜すだろう。だが、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。私の行く所に、あなたがたは来ることができない。」22 ユダヤ人たちが、「『私の行く所に、あなたがたは来ることができない』と言っているが、まさか自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、23 イエスは言われた。「あなたがたは下から出た者だが、私は上から来た者である。あなたがたはこの世の者であるが、私はこの世の者ではない。24 だから、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになると、私は言ったのである。『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

 イエス様の言葉は、一見、ユダヤ人たちを断罪して突き放しているような印象を持ちます。「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」と断言していますし、「私の行くところにあなたがたは来られない」とも言っています。
 でも、注目したいのは24節です。「『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われています。イエス様は彼らをただ断罪したのではなく、彼らに救われる方法があることを思い起こさせようとしていました。
 ただ、その内容が少し不明瞭です。「『私はある』ということ」が何を意味するのか、言葉だけでは曖昧です。英語では “I am he” (私は彼であるということ)と訳されていますが、原語に “he” はありません。原語を直訳すると、「私はそういうものであるということ」となります。
 前後の言葉も合わせて考えると、ここでイエス様が言いたかったことは、「神様がどういう方なのか、私を通して知りなさい」ということです。そして、イエス様を通して示される神様の愛を信じなさいということです。
 では、なぜイエス様はこのことを分かりやすく説明せず、曖昧な表現を使ったのでしょうか?それは、ユダヤ人たちも私たちも、本当の神様のことを本気で求めない限り、神様の愛は分からないからです。自分を神様として自分中心に生きる生き方の限界と間違いに気が付かなければ、神様の愛を知ることはできません。イエス様が言葉でどれだけ分かりやすく説明したところで、意味はないのです。
 イエス様は、罪の中に生きている私たちを救ってくださる方です。イエス様はある箇所でこう言われています。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)

私たちは誰もが神様の前では罪人であり、神様を悲しませる神様の敵です。でも、神様はそんな私たちを敵のままにするのではなく、助けを必要としている子供として、または友人として招いてくださいました。この招きを受けるかどうかの判断は、私たち一人ひとりに委ねられています。
 それでは続く25-26節に進みましょう。

B. 敵の心にも神様はいるはずだと期待する (25-26)

25 彼らが、「あなたは一体、何者なのか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。26 あなたがたについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、私をお遣わしになった方は真実であり、私はその方から聞いたことを、世に向かって話している。」

 25節でイエス様は、「あなたは一体何者なのか」と問われて、「それは初めから話しているではないか」と、少しいらだちを見せているようにも思えます。でも、おそらくこれはいらだちではなく、イエス様の忍耐強さです。初めからずっとイエス様は、ご自分が神様の元から来られた世の光であり、命のパンであり、命の水であると言われてきました。それを受け入れられない人々に、根気よく語りかけ続けてこられたのです。
 そして、イエス様は、自分のことを一向に理解しない人々の心にも、神様がいるはずだと期待しています。「あなたがたについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある」と言いながらも、彼らを裁くよりも、彼らに神様のことを知ってほしいと願われました。「私をお遣わしになった方は真実であり、私はその方から聞いたことを、世に向かって話している」と言われています。これは、「あなたがたが私のことを理解できなくても、神は真実の方であり、あなたがたのことを救うために私をこの世界に遣わされたのだ」という意味だと思います。そして、イエス様は、そのことをいつか私たちが理解し、イエス様が語られたことは神様が語ってくださったことなのだと理解することを期待されています。
 イエス様の期待は続く言葉からさらによく分かります。最後の部分、27-29節を読んでいきましょう。

C. 神様の愛が敵を変えることができると信じている (27-29)

27 彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。28 そこで、イエスは言われた。「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。29 私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を独りにしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」

 イエス様はここでははっきりと、「あなたたちにも分かる時が来るだろう」と言っています。「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、…が分かるだろう」と言っています。「人の子を上げたとき」というのは、イエス様を十字架につけたときという意味です。つまり、全体を通して考えると、イエス様が十字架で死なれるとき、人々はイエス様の言葉を本当の意味で理解し、イエス様は本当に神様から遣わされた方だったのだと理解するだろうという意味です。イエス様は、ご自分が自らの命をささげて証明する神様の愛が、ご自分を殺した者たちの心さえも変えることができると信じていたということです。
 歴史を知っている私たちは、それを聞くと、首を傾げたくなるかもしれません。なぜなら、イエス様の死後、イエス様の敵だった人々全員がイエス様を信じたわけではないからです。では、イエス様の期待は裏切られてしまったということでしょうか?私はそう思いません。神様の愛が私たちの頑なな心を変えることができるというイエス様の願いは、忍耐強く、憐れみ深く、今でも有効だと思います。
 最近読んできたヨハネによる福音書の箇所を思い起こしていただきたいのですが、今日の場面は仮庵祭の最後の日です。イエス様が仮庵祭に参加した経緯を覚えてらっしゃるでしょうか?私の解釈では、イエス様は身の危険を避けるため、もともと仮庵祭に来る気はありませんでしたが、祭りの虚しさに耐えられず、祭りの本当の意味を人々に思い起こしてほしくて祭りに参加されました。イエス様が訴えたかったのは、神様は一人ひとりの心の中に住むことを願われている方であるということです。だから、神殿で大声で叫ばれました。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。」(7:37)ご自分のことを理解せず、殺そうと狙っている人々に向かって、このように叫ばれたのです。それから、仮庵祭の出来事の中で唐突に挿入されている「姦淫の罪で捕らえられた女性」のエピソードでは、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」と女性に告げられました。
 イエス様は、私たちがイエス様に関心を持っていなくても、意識的に拒絶していても、裏切っても、私たちに対する態度を変えません。いつも、私たちに期待して、信じて、待っていてくださる方です。そして、私たちがイエス様に助けを求めるなら、私たちにイエス様を頼って生きる新しい生き方を与えてくださいます。それは、この世界で生きながらも、神様の望む世界のあり方を求めて、神様の霊に導かれて、決して希望を失わない生き方です。
 このように広いイエス様の憐れみの中で生きるなら、私たちは人から受けた傷を癒され、自分が他人に与えた傷を悔いて、互いに許しあって生きていく道を見つけることができるはずです。時間はかかっても、イエス様は忍耐強く待っておられ、根気よく私たちを助けてくださいます。

(祈り)祈りましょう。主イエス様、あなたの憐れみの大きさ、愛の深さ、忍耐強さに感謝します。私たちは互いの関係の中で傷つけあい、許し合えないことが多いですが、あなたはそんな私たちに忍耐し、根気よく助け、導いてくださいます。自分にはどうしようもないと思われる状況の中で、どうかあなたの愛を改めて確認することができるように助けてください。私たちを傷つける人のこともあなたが愛しておられることを、どのように理解すればよいのか助けてください。私たちそれぞれが背負う重荷を、あなたは共に担ってくださいます。ただあなたに助けを求められますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約

ここで「敵」とは、自分を苦しめる者の意味です。私たちは皆、イエス様のことを理解せず、自分勝手に生きようとしてイエス様を苦しめる、イエス様の敵でした。でもイエス様は、そんな私たちの心の渇きを知っており、私たちを見放しませんでした。そして、私たちに神様を求める心があり、神様の愛は私たちの心を変えることができると信じて、一人ひとりに語りかけ続けてくださいます。

話し合いのために
  1. 私たちがイエス様の敵であるとは?
  2. 私たちがイエス様に愛されていることと、私たちを苦しめる人を私たちが愛することは、どのようにつながりますか?
子どもたち(保護者)のために

子どもたちは、イエス様を悲しませてしまったと感じたことはあるでしょうか?(イエス様というのが分かりにくければ、「大好きな人」に置き換えてもいいかもしれません。)それか、何か秘密のことがあって、イエス様に知られたら怒られたり嫌われたりしてしまうかもしれないと心配していることはあるでしょうか?保護者の皆さんの具体例を話せそうだったら話してあげてください。そして、イエス様は全てを知っていて、その上で私たちを嫌いになることも見捨てることも決してないということを、子どもたちに伝えてください。