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日曜礼拝・英語通訳付
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私は知っている
(詩編140)
永原アンディ
私たちが数年かけて読んできた詩編のシリーズも、いよいよ終わりに近づいてきました。今日は140編です。139編では、神様に「知られていること」についてお話ししましたが、今日は詩人が知っていること、私たちが知っていることについてお話しします。
久しぶりに〔セラ〕という表記のついた詩ですが、150編中40編にみられる〔セラ〕は音楽的な区切りを表すものです。詩編がワーシップソングとして歌われてきたものであることを、私たちに思い起こさせてくれます。特に前半は、〔セラ〕の区切りごとに繰り返される語順や、用いられる類義語でメロディーがわからなくても歌詞であることがよくわかります。
私たちも、この〔セラ〕の区切りに従って、歌うように味わってゆきましょう。
A. 詩人の切なる訴え (1-9)
1. 邪悪な者の攻撃から守ってください (2-4)
1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。2 主よ、邪悪な人間から私を助け出し暴虐の者から私を守ってください。
3 彼らは心に悪をたくらみ日ごとに戦いを挑んで来る。
4 舌を蛇のようにとがらせ唇の裏には蛇の毒がある。〔セラ〕
皆さんは、ここに書かれているような攻撃にさらされたことがあるでしょうか? 学校のクラスの中でおこる“いじめ”がわかりやすい例です。いじめは、理由もなく、あるいは本人にはどうすることもできない理由で、日々、延々と繰り返されます。なぜそこまで子供達が残酷になれるのかと驚くほど酷いことが起きてきました。
それは、大人の職場や色々なコミュニティーでも形を変えて起きていることです。 子供を守る立場にある先生方の間でさえ“いじめ”は起こります。物理的な暴力だけではなく、言葉による暴力にも、繰り返されれば命を奪うほどの力を持っています。
先々週、北海道に旅行して“ウポポイ”(Upopoy National Ainu Museum and Park)というアイヌ民族について学ぶ施設を訪ねました。
博物館を中心に、歌や踊りを上演するシアター、楽器の演奏や、工芸を体験する教室、再現された集落などがある、とても印象深い施設でした。
アイヌ民族は北海道の先住民族です。冬の寒さは厳しくても、豊かな自然と調和した平和な暮らしをしていた人々です。しかし、明治時代の政府の方針によって、本州からの多くの移住者が送り込まれ、土地や言葉、文化を奪われ、貧しくされ、ひどく差別を受けるようになってしまいました。
今でも差別はなくなっていません。 アメリカ大陸の先住民の悲劇と同じです。日本は単一民族の国という間違った思い込みで、他国の民族差別を非難する人がいますが、日本にも民族差別はあるのです。朝鮮半島にルーツを持つ人に対する差別、それ以外にも身分、職業、性のあり方による差別が存在します。
差別のない国は存在しません。差別は全ての人が持つ罪の性質の現れの一つだからです。
いじめ、差別、迫害といった暴虐から、誰が自分を守ってくれるのか?それは神様以外にないことを詩人は思い知らされているので、このように神様に叫び求めています。このことは、神様の存在を認めない人にとっては絶望的な事実でしょう。神様がいないなら、世界は強者のためにあるということになってしまいます。
しかしイエスとして、ご自身の創造された世界に来てくれた神様を信じる者にとっては、何が起こってきても無くならない希望があります。福音書を読めば、イエスがどのような人々の側に立ち、守ったか、彼らを攻撃する者たちに対してどのような態度を取ったかが明らかに記録されています。
そのイエスの体である教会、私たちがどのような態度でこの世界に存在するべきか、答えは福音書のイエスの言葉と行いにあるのです。
いじめによって死に追いやられた子供のニュースを見るたびに、もしその子が教会の交わりの中にいて、イエスを信じていたらどういう結果っになっていただろうか、と考えてしまいます。なぜ私たちはイエスを世界に紹介したいのか、それは教会が大きくなるためではありません。一人でも多くの人がイエスの愛を知ることによって解放され、安心して生きてほしいからです。
2. 暴虐の者の罠から守ってください (5, 6)
5 主よ、悪しき者の手から私を保護し暴虐の者から私を守ってください彼らは私の足を突き倒そうとたくらむ。
6 高ぶる者は私に網の罠を敷いた。道端に縄を網にして広げ罠を仕掛けた。〔セラ〕
初めの部分では、攻撃は、その人に対する、嫌悪、偏見、軽視で起こること、私たちも無意識のうちにそれに加担してしまいやすい者であることをお話ししてきましたが、この部分では、攻撃する者たちの側にある動機を見ることができます。
ここでは、他の人の歩みを妨害し、思い通りに行動させないこと。捕らえて自由を奪うことが歌われています。なぜ、悪き者、高ぶる者はそのような事を行うのでしょうか。それは自分の利益のためです。
力ある者は、自分の利益を増やすために弱いものの活動を妨害したり、財産を騙し取ったり、捕らえて奴隷にとして働かせたりしてきました。この国はアイヌ民族に対してアイヌ語の使用を禁止したり、日本語の名前へ改名させたり、伝統的な漁業や狩猟を禁止したりしましたが、それは精神的財産を奪うと同時に、経済的にも貧しくさせ、人口を減らすことになりました。朝鮮半島にルーツを持つ人々に対しても同様な苦しみを与えてきました。
そしてこのことも世界中で、少しづつ形を変えて今も起こっている事です。日本では、高齢者という弱者を騙して財産を奪う“特殊詐欺”が次々に手口を変えながら横行しています。私はこの国が特別に悪いと言っているのではありません。悪き者、高ぶる者はどの時代のどの国にも存在して人々を苦しめるのです。
そしてこのことについても、教会はこの社会の中で果たすべき役割が与えられています。前項でお話しした、虐げられている魂に、キリストの体として手を差し伸べることとともに、この社会の不正義を叱り、声を上げることも教会の役割です。アメリカの公民権運動や日本の女性の地位向上において教会は大きな役割を果たしてきました。イエスは私たちに「世の光、地の塩」である事を求められているのです。
3. 私の声に耳を傾け、 悪き者を高ぶらせないでください (7-9)
7 私は主に言いました「あなたはわが神」と。主よ、嘆き祈る私の声に耳を傾けてください。
8 主よ、わが主よ、わが救いの力よ戦いの日にあなたは私の頭を覆ってくださった。
9 主よ、悪しき者の欲望を許さずそのたくらみを遂げさせず彼らを高ぶらせないでください。〔セラ〕
この3番目の訴えは、「私の声を聞いてください」と「悪い者たちの思い通りにさせず、彼らを高ぶらせないでください」という二つの訴えです。それは1と2のまとめとも言える内容です。 前の二つの訴えのような特定の状況での切実な願いではなく、もっと本質的な願いです。そして、それらは私たちの神様との関係についてよく疑問に感じる事柄がです。
「本当に私の祈る声を神様は聞いているのだろうか?」という疑問と、「神様は、悪人が栄え、私が苦しみ続ける事を許すのだろいうか?」という疑問です。 そこには、自分の祈りは聞かれないのではないか?神様は私に酷い事をする人々に何もしないつもりか?という神様への不満も見え隠れしています。
しかし、詩人は生まれてからずっとそう感じることしかなかったわけではありません。神様に何度も助けられ、攻撃する者をさまざまな方法で退けていただいた経験をしています。だからこそ、「 主よ、わが主よ、わが救いの力よ戦いの日にあなたは私の頭を覆ってくださった。(8)」と言えるのです。
それなのになぜ、私たちの信仰は繰り返し失われそうになるのでしょうか? それは神様が私たちの想像できない方法によって、世を治めているからです。 あのとき神様が私と共にいてくださったので危機を乗り越えることができたとわかるのは、たいていその後になってからです。私たちは「今、私の思う通りの方法で」神様が介入してくださる事を期待しますが、神様の考えは、私たちの考えとは異なります。
神様は確かに私たちの嘆き祈る声に耳を傾けてくださっています。しかし、確かに聞いていてくださる事を知っているからと言って、詩人のように嘆き祈る必要がないわけではありません。むしろ、その時の正直な思いを神様に訴えることは大切なことです。それは、私たちと神様の間の距離を縮め、この後お話ししようとしている「神様を知る」ことを助けてくれるからです。
それでは次の部分を読んでゆきましょう。
B. 私は知っている (10-14)
1. 呪いたくなる私たち (10-12)
10 私を取り囲む者の頭には彼らの唇の害悪が覆いかぶさるがよい。
11 燃え盛る炭がその上に降りかかり穴の中に落とされて彼らが二度と立ち上がれないように。
12 舌を巧みに操る者はこの地に堅く立つことなく暴虐の者は災いにつつかれ追い立てられるがよい。
詩人はイエスよりずっと前の世界を生きた人ですからイエスも、イエスの言葉も知りません。しかし私たちは知っています。イエスは「呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。」と言いました。 イエスの使徒となったパウロは、このイエスの言葉を紹介して「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。」と教えます。
それでも私たちは詩人のこのように呪ってしまう気持ちに同情するのではありませんか。 それは当然の感情であって、神様はその気持ちを非難することはないでしょう。しかし、呪いは役に立ちません。神様は私たちのリクエストで誰かを亡き者にする殺し屋ではありません。また呪う心は私たちの心の健康も損ねるでしょう。
私たち人間は神様の視点から見るなら、例外なく罪人です。そして、詩人を苦しめた者たちと同様の残酷さを内に秘めています。イエスに従って歩んでいる人でも、油断していれば、いつでも表面に現れてくるものです。もし私たちが大きな権力を持てば、多くの為政者と同様に残酷な者となる事を、この虐げられている詩人の言葉から察することができます。
そうならないためにという消極的な理由だけでなく、そのような者でありながらイエスの「解放」の働きに用いられて実際に「世の光、地の塩」として歩むことができるように、私たちはしっかりとキリストの体:教会に連なり、心からの礼拝を日々献げ続けることが欠かせないのです。
2. それでも私は知っている (13, 14)
13 私は知っている主が苦しむ人の訴えを取り上げ貧しい人のために裁きを行うことを。
14 確かに、正しき人はあなたの名に感謝を献げまっすぐな人たちは御前に住まう。
世の中には学べば人生を豊かにする知識が多くあります。しかし、どれほど多くの知識を得ても、それらが人を幸せにしてくれるわけではありません。それどころか、知識は強者の手の内にあって、弱いものを苦しめる手段にさえなってしまいます。
しかし、「本当に必要なことは一つだけである」(ルカ10:42)と言ったイエスの言い方を借りれば、「本当に知るべきことは一つだけ」です。それはイエスが私たちにとってどのような方であるかということなのです。皆さんにとってイエスはどのような方でしょうか?
詩人と共に、私たちは知っています。この世界に来てくださったイエスこそ、そのように生きられ、絶望した人々に希望を与えたことを。私たちのうちにある恐ろしい残酷さを知りながら、イエスにつながることによって神様と共に生きるものとされることを。私たちを苦しめる残虐は永遠に続くことはなく、むしろ私たちが神様と共に永遠の存在であることを。イエスと共に歩むことによって、人々に希望を与えられる存在であることを。
この知識は、私たちに聖書を通して読むことのできる真実であって、感覚的な安心感のようなものではありません。私たちの感情は、人生の波風に直面すると簡単に動揺して、不安でいっぱいになります。礼拝することは、私たちが不安によって真実を見失ってしまわないために、神様が備えてくださった大切なときです。
今朝も心からの礼拝を捧げ、このイエスについての知識を確信して、週の歩みを始めましょう。
(祈り) 神様、あなたがご自身をイエスとして私たちの目の前に立ち、教え導いてくださる事をありがとうございます。
あなたがどのような方であるかを明らかにしてくださり、究極的な希望となってくださいました。
あなたが私たちの体と心を守り、神の国への道のりを歩み通すことができるようにしてくださる事を信じます。
あなたが希望である事を知っている私たちが、あなたの光を掲げて人々の希望となることができるよう、聖霊で満たし、日々力強く歩めるよう導いてください。
主、イエスキリストの名によって祈ります。
要約
詩人と共に、私たちは知っています。この世界に来てくださったイエスこそ、そのように生きられ、絶望した人々に希望を与えたことを。私たちのうちにある恐ろしい残酷さを知りながら、イエスにつながることによって神様と共に生きるものとされることを。私たちを苦しめる残虐は永遠に続くことはなく、むしろ私たちが神様と共に永遠の存在であることを。イエスと共に歩むことによって、人々に希望を与えられる存在であることを。
話し合いのために
1. 今、神様に一番訴えたいことはどのような事ですか??
2. あなたはイエスについてどのような事を知っていますか?
子どもたち(保護者)のために
9節までを読んで、この世界にどんな恐ろしさがあるか、あるいは悪人とはどのような者たちなのか、子供達が感じている事を聞いてみましょう。そして詩人が神様について知ってた事(13節)を読んで、イエスはそのような者たちから私たちを守ってくれる神様である事を伝えてください。