障害は神様の意志によるものなのか?

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障害は神様の意志によるものなのか?


シリーズ「障害者と相互依存の神学」第1回 (ヨハネによる福音書9:1-5)

池田真理

 去年のクリスマスに、平和とは何かを考えたくて、イザヤ書11章を読みました。その時に、真の平和とは、強者が弱者を搾取しないだけではなく、弱者が弱者のままで恐れることなく助けを求められることであり、弱者の必要を満たすことが強者の当然の責任とされることだと考えました。その意味で、弱者は真の平和を作るための先導者です。

 このことは、日本の児童福祉の父と言われる糸賀一雄さんの言葉、「(障害のある)この子らを世の光に」という言葉にもとてもよく表されています。障害のある人たちは社会の助けを必要としていますが、その人たちのニーズに応じることで社会はより良いものに変わることができます。だから、「この子らに世の光を」ではなく「この子らを世の光に」なのです。

 このことを考えている中で、キリスト教書店でたまたま見つけたのが、キャシー・ブラック著「癒しの説教学−障害者と相互依存の神学」(教文館、2008年)です。著者は自身が内部障害を持っており、ろう者の大学のチャプレンやろう者の教会の牧師を長く務めた人だそうです。この本は、障害者の立場で聖書を読むと従来の読み方には多くの問題があるということを教えていて、私は目からうろこが落ちる思いでした。そして、ぜひこの本の内容を皆さんにお伝えしたいと思っていました。そこで、ヨハネによる福音書のシリーズと並行して、この本を読んでいくシリーズを始めたいと思います。

 今日は、第1章の内容を私なりに解釈してお伝えします。第1章は、根源的な問いから始まります。「障害は神様の意志によるものなのか?」という問いです。この問いは、障害を持って生まれた人にとっては、「なぜ私に障害が与えられたのか?」という問いにつながりますし、自分の子供に障害があると分かった親にとっては、「なぜこの子に障害が与えられたのか?」という問いにつながると思います。障害を持たない人は、この問いを家族や友人に聞かれたら、なんと答えるでしょうか?とても難しい問いだと思います。今日は本を手がかりに私の考えをお伝えしますが、これが私たちが互いに話して考えるきっかけになればと思います。それが、津久井やまゆり園の事件や旧優生保護法のような過ちを繰り返さないためにも必要なことだと思います。

 それでは、最初にヨハネによる福音書の9章の最初の5節だけを読みます。

A. ヨハネ9章のエピソードから

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4 私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。5 私は、世にいる間、世の光である。」

1. 生まれつきの障害は誰の罪のせいでもない

 聖書の時代から現代に至るまで、おそらく世界中どこでも、私たちが人生で経験する苦難は悪いことをしたことに対する罰だという考え方があります。因果応報という考え方です。輪廻転生の思想ともつながっていて、前世で悪いことをした人は今の世で罰を受けていると考えたり、前世での罪を償うために今世で良いことをしなければいけないと考えたりします。または、イエス様に質問した弟子たちのように、両親の罪を子が負っているという考え方もあります。これは、先祖の罪は数世代先の子孫にまで問われるという旧約聖書の教えによっています。

 でも、イエス様はここでこれら全ての考えを否定して、「この人が生まれつき目が見えないのは、本人のせいでも両親のせいでもない」と断言しています。生まれつきの障害は誰の罪のせいでもないのです。では、なぜこの人は生まれつき目が見えないのかというと、イエス様の答えは曖昧です。「神の業がこの人に現れるためである」とは、一体何を意味しているのでしょうか?そのことを今日は考えていくのですが、4−5節に少しヒントがあります。

2. 私たちは神様の働きを委ねられている

 イエス様は「私たちは、神の業を昼の間に行わなければならない」と言われています。注目したいのは、「私は」ではなく「私たちは」と言われている点です。生まれつき目が見えない人に現れなければいけない神の業は、イエス様がひとりで行うものではなく、「私たち」がやらなければならないことなのです。このことが具体的に何を指しているのか、今日の後半で考えていきます。

 それでは、まず、障害は神様の意志によるものとしてきた伝統的解釈がどう間違っているのか、考えていきましょう。間違いは大きく分けて三種類あります。

B. 障害は神様の意志によるものなのか?
1. 罪に対する罰?

 障害は罪に対する罰であるという考え方は、すでにイエス様が否定した通りですが、もう少し詳しく考えると、この考え方は二重の意味で間違っています。

 第一に、神様は私たちの罪に対して罰を与える方ではありません。イエス様が十字架で苦しまれたのは、神様が私たちに罰を与えないために、自ら私たちの身代わりになるためでした。ですから、障害だけに限らず、私たちが人生で経験する苦しみを神様からの罰だと考えることは、イエス様の十字架を蔑ろにすることです。イエス様の十字架の贖いは完全です。私たちにできるのは、その赦しと憐れみを感謝して受け取ることだけです。

 障害を罪に対する罰とする間違いの二つ目は、障害を自分とは関係ない、特定の人たちにだけ与えられた不幸だとしている点です。それは障害を持たない人の傲慢です。障害があってもなくても、一人ひとりが自分らしく生きられることが、社会のあるべき姿です。今の社会がそうでないから、障害を持つ人やその家族や友人が困難を感じ、自分たちは不幸だと感じてしまいます。また、今は障害を持たない人も、障害を持つことを恐れ、病気や事故や加齢によって障害を持つと絶望的な気分になりますし、実際に社会的にも苦しむことになります。知的障害、身体障害、精神障害、どんな障害であっても、もっと受け入れやすい社会を私たちは作れるはずですし、その責任は全ての人にあります。


2. 信仰を強めるための試練?

 伝統的な解釈の二つ目は、障害は信仰を強めるための試練であるとするものです。

 この解釈の極端な例は、十分な信仰を持てば障害は癒されると信じることです。反対に言えば、障害が癒されないのは信仰が足りないからだということになります。この方向で考えると、すぐに矛盾が出てきます。単純に、切断された足は元に戻りません。また、信仰がなくても健康な人もおり、困難な状況を信仰によって耐えている人もいます。信仰の有無や強弱は、私たちの経験する困難の多さや大きさとは関係がありません。

 そこまで極端でなくても、神様は私たちの成長のために試練を与えるという考え方は根強くあります。確かに、私たちは困難な中で神様を信頼することを学びます。でも、生まれつき重度の障害を持っている人や、脳損傷や認知症によって考えることが難しくなった人に、これは当てはまりません。神様は私たちに、精神的に、信仰的に、常に成長し続けることを求めたりしませんし、そのために次々に課題を与えるような方でもありません。神様は、欠けの多い私たちをそのままで愛してくださる方です。神様が私たちに成長を求めるとしたら、それは神様の愛を受け取る素直さにおいて成長することだけだと思います。

 イエス様と弟子たちのこんなエピソードがあります。

 

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れてきた。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカ18:15-17)

3. 神様の癒しの力を証明するため?

 障害を神様の意志ととらえる伝統的解釈の三つ目は、障害は神様の超自然的な癒しの力を証明するものであるという考え方です。これは、あのイエス様の謎の言葉、「神の業がこの人に現れるためである」のせいで生まれた考え方です。イエス様はこの言葉の後に、盲目の人を癒し、目が見えるようにしました。このエピソードを元に、障害は神様の超自然的な癒しを証明するために与えられているという短絡的な解釈がされることがありますが、現実を見ればそのような奇跡は稀です。

 では、イエス様は何を言おうとされていたのでしょうか?その答えを説明するのが、キャシー・ブラックの「相互依存の神学」です。

C. 相互依存の神学

1. 神様が私たちに依存している

 実は、ヨハネ9章の盲目の人をイエス様が癒すエピソードは、目が見えるようになった人を社会が受け入れないという結末で終わります。目が見えなかった人が見えるようになり、力強く大勢の前で話し始めると、人々は喜ぶよりも不快感を持ちました。イエス様の超自然的な奇跡だけでは、社会は変わらなかったのです。
 だからイエス様は、「私たちは神の業を行わなければいけない」と言われたのだと思います。「神の業」とは、イエス様だけがやることではなく、イエス様だけではできないことなのです。イエス様は私たちを必要としています。相互依存の神学の出発点は、ここにあります。私たちが神様を必要とすると同時に、神様も私たちに依存しているのです。
 でも、神様が私たちに依存しているというのは、神様が全知全能であるということと矛盾しているように感じられるかもしれません。神様が全知全能であるとはどういうことでしょうか?この世界で起こる全てのことは神様の計画通りで、全てそうなるように最初から仕向けられていて、私たちが何をしてもしなくてもその計画から外れることはできないということでしょうか?私は、それは違うと思っています。
 神様は全知全能の方ですが、全知全能であるということは、その力を使わないこともできるということです。神様は私たちを神様の指示通りに動く精巧な操り人形のように造ることもできたはずですが、そうはなさいませんでした。なぜなら、愛するということは、自分の意志通りに相手を動かすことではなく、相手の意志を尊重することがなければ成り立たないからです。神様は私たちに、自分で神様の愛を受け取るかどうかを決める自由を与え、どのように生きるか決める自由を与えられました。それは、神様にとってリスクを伴うものです。おそらく神様は年中、私たちにヒヤヒヤしたり、がっかりしたり、時には強く憤っておられることもあると思います。それでも、そこまでして、神様は私たちにご自分の愛を委ね、この世界を変えていく働きを委ねてくださいました。
 では、イエス様が私たちに委ねた神様の業とは、具体的にどのようなことでしょうか?それは、障害があってもなくても、何ができてもできなくても、一人ひとりが神様に愛されていることを実感できる社会を作ることです。私たちには、イエス様のように、目の見えない人を見えるようにするような奇跡は起こせないかもしれませんが、その人が社会の一員としてその人らしく生きる喜びを持てるように、社会を変えることができます。社会貢献の度合いによって人の価値を決めるのは間違っています。むしろ、先ほどのイエス様の言葉によれば、乳飲み子のように何もできない方が神様に近いのです。経済的な生産性や効率性、お金や物質的な豊かさを追求していたら、そのような社会は作れません。それは人の罪に抵抗することで、イエス様の愛が私たちに働かなければ実現できません。だから、イエス様だけでは起こせない、でも同時に私たちだけでも起こせない、イエス様と私たちが一緒に起こす奇跡なのです。


2. 私たちは互いを必要とする

 でも、そんな社会を実現する前に、今ある苦しみをなぜ神様は取り除いてくださらないのかという問いは残ります。障害は神様の意志によるものでないとしても、ある人には障害が与えられ、他の多くの人には与えられていません。「なぜ私に、なぜ私の子供に障害が与えられなければならなかったのか」という切実な問いは残ります。

 この問いに対する正解は、「誰にも分からない」ということだと思います。神様には私たちを苦しめる意図はないのは確かで、社会の中の助け合いが足りていないのも事実ですが、「なぜ?」という問いには誰も答えることができません。これは、私たちは誰も神様の全てを理解することはできないという現実を、私たちが受け入れなければいけないことを意味していると思います。

 だから、私たちは互いを必要としています。神様のことが分からない時、それでも神様の愛は変わっていないということを証明してくれる存在が必要です。私たちには苦しみを取り除くことができなくても、共に苦しみ、悩むことはできます。そして、イエス様も十字架で神様に向かって「なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたことを、思い起こすことができます。神様は、私たちの苦しみの中で共におられ、決して私たちを見捨てているのではありません。

 キャシー・ブラックは、次のように言っています。少し分かりやすく修正して引用します。

「私たちは、慰めのために触れてくれる誰かの手を通して、愛を持って受け入れてもらうことを通して、抱きしめられたり、食卓に招かれることを通して、そこに神がいるということを経験します。… 私たちは、他人の人生を互いに結び合わせ、(痛みを癒しに)転換するために遣わされた神様の代理人なのです。」(p.52)

痛みを癒しに転換すること、絶望を希望に変えることは、私たちは一人ではなかなかできません。そしてこれは、障害のない人が障害のある人を助ける時のことだけを指しているのではありません。障害のある人が障害のない人を救うこともあります。 

 私が時々ご紹介する、カトリックの司祭でありハーバード大学の教授でもあったヘンリ・ナウエンは、教授としての地位や名誉を捨てて、知的障害を持つ人々が共同で生活をする場で生活をするようになって、孤独から解放され、帰るべき家ができたと感じたと言います。そのホームの人たちは、ナウエンの学術的功績や社会的地位には興味はなく、ただ一人のヘンリという人を喜びました。またナウエンは、重度の障害で寝たきりの人の世話をするために、その人の意志を読み取ろうとする中で、小さな変化に気が付くようになり、それが大きな喜びになっていったと言います。身体的な介助をしているのはナウエンでしたが、介助をされていた人はナウエンの心を救いました。ナウエンにとっては、知的障害を持つ人たちの共同体が、神様の無償の愛を教えてくれる家族になったのです。

 私たちは誰もが、そのような共同体を必要としています。障害のある人もない人も、自分に何ができるかできないかによらず、そのままの自分を受け入れて愛してくれる人の存在が必要です。誰も頼らずにひとりで生きられる人はいません。


3. 教会は人の弱さや依存性を尊ぶ

 聖書には、2千年も前から、社会のあり方とは違う教会のあり方が勧められていました。1コリント12章です。

20 …多くの部分があっても、体は一つなのです。21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。23 私たちは、体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします。実は、格好の悪い部分が、かえって格好の良い姿をしているのです。24 しかし、格好の良い部分はそうする必要はありません。神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。25 それは、体の中に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うためです。26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(1コリント12:20-27)

 現代の社会は、個人の自立をとても重んじていて、誰かや何かに依存することは未熟さや弱さのしるしであると思われています。また、依存性が高ければ高いほど、手間や費用がかかり、社会に貢献できる度合いが減ると思われて、差別や排除が起こります。

 でも、人は誰も完全には自立しておらず、誰もが誰かや何かに依存しなければ生きられません。なぜなら、それこそが人間であるということだからです。障害を持つ人は、人間であるとはどういうことかを、障害を持たない人よりもよく知っているのかもしれません。

 そして、教会はその本来の人間らしさを尊ぶ場所です。神様を信頼して生きるとは、自分の弱さを隠さずに、むしろ弱さを誇って、弱さを神様に委ねて、どんな状況でも神様のしてくださることを期待して、希望を持って生きることです。私たちの弱さにこそ、神様の愛は働き、互いに助け合える奇跡が起きます。障害を持つ人は、障害を持たない人よりも、その奇跡をより多く起こすことができるのかもしれません。神様は、私たちの強さや自立性よりも、私たちの弱さや依存性を通して、私たちの間で愛を実現されます。教会はその意味で、社会の中で異質な存在であり、そうでなければいけません。

(祈り) お祈りします。主よ、あなたは、私たちがどんな状態であろうと、何ができようとできまいと、どんな間違いを犯してきたであろうと、一人ひとりをよくご存知で、愛しておられます。一人ひとりがそれぞれの人生を希望を持って歩むことを望まれ、私たちの一歩一歩を喜んでくださいます。どうか私たちが、社会が強調する強さや自立性ではなく、あなたが私たちの弱さに働いてくださることを求められますように。私たちが自分の抱える障害や病気や苦しみの中で孤立してしまわないように、あなたが共におられることを教えてくれる誰かを遣わしてください。また、私たちを用いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約


<キャシー・ブラック著「癒しの説教学−障害者と相互依存の神学」を読むシリーズ第1回>神様を信頼して生きるとは、自分の弱さを隠さずに、むしろ弱さを誇って、弱さを神様に委ねて、どんな状況でも神様のしてくださることを期待して、希望を持って生きることです。教会とは、そのように生きることの喜びを互いに分かち合うために、互いに助け合う共同体です。そのような生き方、そのような共同体は、現代社会が強調する個人の自立とは正反対に、相互に依存することを尊びます。そして、障害をもつ人々は、相互依存のあり方を導くことができます。シリーズを始めるにあたり、「障害は神様の意志によるものなのか」という問いを考えましょう。

話し合いのために

1. 「神の業がこの人に現れるためである」とはどういうことですか?

2. 「障害は神様の意志によるものなのか?」という問いにどう答えますか?

子どもたち(保護者)のために


ヨハネ9:1-3をぜひ子どもたちと一緒に読んでください。生まれつき目が見えない人が目が見えないのは、その人が何か悪いことをしたからでも、その人の両親が何か悪いことをしたからでもありません。なぜその人が目が見えないのかは、誰にも分かりません。でも、神様はその人が目が見えないからといって困らないですむ世界を望まれていることは確かです。その人が目が見えないことで困るとしたら、それはその人のせいではなくて、必要な助けを用意できていない社会に問題があります。もし身近に障害を持つ友達がいたら、どうやってサポートすればいいか、その子が自分の障害を辛いと感じていたら、何を言ってあげられるか、話してみてください。