過ちを繰り返さないために続けなければいけない努力

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日曜礼拝・英語通訳付

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過ちを繰り返さないために続けなければいけない努力

(ヨハネによる福音書8:31-47)

池田真理

 8月は日本にとって戦争の記憶を思い起こす時ですが、今年はパリ・オリンピックの熱で例年よりも戦争関連の報道は縮小しているような印象を受けます。先週は広島と長崎でそれぞれ平和祈念式典がありました。広島はロシアとベラルーシの大使を招待せず、長崎はその二国に加えてイスラエルの大使も招待しませんでした。
 今日の週報の表紙は、何年か前にも使ったのですが、広島の原爆死没者慰霊碑の写真です。慰霊碑には、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とあります。この文言は、核兵器や戦争という過ちは、核兵器を使用した国だけの責任でも、戦争を始めた国だけの責任でもなく、全人類がそれを繰り返さないための責任を負っているという決意を示しています。世界大戦が終結して今年で79年ですが、私たちは世界中で今でも過ちを繰り返しており、この慰霊碑の言葉はとても虚しく感じられてしまいます。でも、虚しく感じたとしても、私たちは努力をやめてはいけないと思います。
 今日はヨハネによる福音書のシリーズの続きで8:31-47を読んでいきますが、この箇所はイエス様が人間の罪の性質を明らかにしている箇所で、なぜ私たちが過ちを繰り返してしまうのか、繰り返さないためにはどうすればよいのか、ヒントを与えてくれると思います。個人間で起こるいじめや仲間はずれも、国家間で起こる戦争も、その根幹にあるのは人間の罪という問題です。他人の中にばかり問題を見るのではなく、自分自身の中にこの問題があるということを認識できないから、私たちは過ちを繰り返してしまうのだと思います。
 それでは少しずつ読んでいきましょう。まず31-33節です。

1. 人種・民族・国籍・宗教による差別をやめる(31-33)

31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」33 彼らは言った。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたがたは自由になる』とどうして言われるのですか。」

 初めに心に留めていただきたいのは、イエス様がここで語りかけているのは、31節にある通り、「ご自分を信じたユダヤ人たち」であるということです。つまり、すでに信仰を持った人たちです。彼らは、自分たちは神様をよく知っていて、正しい信仰を持っていると思い込んでいましたが、イエス様はそれが偽りであると見抜いていて、彼らに厳しい言葉を向けられました。ですから、もし私たちが神様をよく知っていて、正しい信仰を持っていると思っているなら、注意が必要です。ここでのイエス様の厳しい言葉は、私たちにこそ向けられているかもしれないと思って、聞く必要があります。
 それでは内容を読んでいきましょう。ここでイエス様が明らかにしている私たちの罪の性質の一つ目は、人種や民族、国籍や宗教によって特権意識を持ち、自分たちに属さない人々を差別し、排除するという罪です。
 33節で、人々はイエス様に「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません」と抗議しています。彼らは、自分たちがアブラハムの血統に属し、ユダヤ人という人種(民族)であるということを誇りにしていました。その誇りはとても強く、たとえ先祖たちがエジプトで奴隷だった事実やアッシリアやバビロンに滅ぼされた事実があっても、今は自分たちもローマ帝国の支配下にあっても、「自分たちの心は誰の奴隷にもなったことはない」と言わせるほどでした。彼らには、自分たちは神に選ばれた特別な民族であるという誇りがあったからです。でも、その誇りは健全なものではなく、ユダヤ民族は他の民族よりも優れているという思い込みを招き、民族の純粋さを保つために血統を重んじ、異民族を差別し排除する結果につながりました。
 神様は、私たちの血統や民族や宗教とは関係なく、全ての人を愛しておられます。そういうものに基づいた特権意識を私たちが持っていたら、ここでのユダヤ人と同じように、私たちはイエス様のことを否定して、排除することになります。しかも、自分たちは正しいと思い込んで、そうすることが正義であるとさえ思ってしまうでしょう。
 続く34-38節に進みます。

2. 罪の奴隷であることを知る (34-38)

34 イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36 だから、もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。37 あなたがたがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたがたは私を殺そうとしている。私の言葉を受け入れないからである。38 私は父のもとで見たことを話しているが、あなたがたは父から聞いたことを行っている。」

 私たちが不健全な誇りや特権意識を持ってしまう理由は、私たちが罪の奴隷であるからです。
 イエス様の教える罪とは、的外れな生き方を指します。本来目指すべき方向を目指していない、中心を欠いた生き方です。本来、私たちの心を本当に満たせるのは神様の愛だけです。でも、私たちは神様以外の様々なもので自分の心を満たせると勘違いします。それらは、権力や財産、社会的功績や人からの称賛を得ることかもしれません。そういうものの恐ろしいところは、より多くを手に入れなければ気が済まなくなることです。そして、より多くを得るためには、他人との競争に勝って、他人のものを奪うことが必要になります。
 私たちは、自分で自分の心を満たそうとしている限り、この不毛な連鎖から抜け出せません。自分を満たすことが中心の関心事になり、他人に無関心になり、他人を理解しようとする姿勢を持てなくなります。逆に、他人のものを奪うのを正当化するために、様々な言い訳をするようになります。「自分たちは特別だから」「彼らは昔私たちから奪ったから」「彼らは悪を行っているから」「自分たちに従わない彼らは間違っているから」などの言い訳です。だからイエス様は、私たちは罪の奴隷であると言われました。

3. 自分で自分を救えないが、イエス様は私たちを救えると知る (35-36)

 イエス様は、36節でこう言われています。「もし子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる。」これは、十字架で命を捧げられたイエス様の愛を私たちが受け取るなら、私たちは自分で自分を満たす必要はなくなるという意味です。イエス様は、私たちが優れているから命を捧げて守ってくださったのではありません。どうしようもない私たちをそのままで愛してくださっているから、その私たちを救うために命を捧げてくださいました。私たちは他人より優れている必要はありません。そうでなければならないと思うこと自体が間違っています。私たちは、神様の前に等しく救いようのない罪人であり、等しく神様に赦され愛されている罪人です。だから、私たちを的外れな生き方と不毛な奪い合いの連鎖から救えるのはイエス様だけなのす。
 39-42節に進みます。


4. 神様を自分勝手に利用しない (39-42)

39 彼らが答えて、「私たちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をしているはずだ。40 ところが今、あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。41 あなたがたは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「私たちは淫らな行いによって生まれたのではありません。私たちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、42 イエスは言われた。「神があなたがたの父であれば、あなたがたは私を愛するはずである。なぜなら、私は神のもとから来て、ここにいるからだ。私は自分勝手に来たのではなく、神が私をお遣わしになったのである。

 私たちは、神様に選ばれて神様の子とされているという恵みを誤解して、自分勝手に都合よく利用します。神様の子という身分は、私たちが自分の力で手に入れる特権ではなく、神様の憐れみによって私たちに与えられる恵みです。それは、たとえるなら、自分の力で歩けない私たちを神様が自分の背に乗せて運んでくださっているようなものです。私たちにできるのは、神様にしがみつくことだけです。それを私たちはよく思い上がって勘違いし、神様の軍勢を引き連れて自分が先頭に立って行進しているかのように考えます。そういう時、私たちにとって神様とは、私たちの正しさを証明するためだけに存在します。そうなると、自分の信じる正義が神様の正義だと勘違いし、それが絶対だと思うようになります。そして、自分とは意見の異なる人の意見を理解しようとする姿勢を失い、彼らは皆敵だと決めつけて排除する過ちを犯します。
 アブラハムは、家に突然訪ねてきた見知らぬ人々を客としてもてなしました。実はその人々は神様の遣いでした。また、アブラハムは神様の言葉を信頼して、慣れ親しんだ土地を離れて、遠い土地に旅立ちました。そのように行動できるのが、本当の意味で神様の子であるということです。神様が出会わせてくださる人や連れていってくださる場所に心を開いて受け入れていくということです。
 43-44節に進みます

5. 悪魔の影響を受けやすいことを知る (43-44)

43 私の言っていることが、なぜ分からないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ。44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである。

 悪魔というのは、神様に敵対する者を意味します。悪魔の目的は神様に反抗することで、神様の望みを叶えさせないことです。だから、私たちが神様の愛を忘れて、罪の奴隷のままでいることを喜びます。私たちが自分勝手に生きて、互いに奪い合い、決して心が満たされない不毛な争いを続けるなら、悪魔を喜ばせるだけです。悪魔は、それが正しいことなのだと私たちに嘘を吹き込みます。そして、私たちが絶望してあきらめることを何よりも喜びます。
 私たちは、自分が悪魔の影響を受けやすいことを知っている必要があります。私たちが神様の愛を頼りにしないで、自分の力に頼ろうとすれば、悪魔の働きに加担することになります。私たちは、神様を頼りにしなければ、悪魔を頼りにすることになるのです。悪魔を積極的に崇拝する人はあまりいませんが、神様を礼拝しないことは悪魔を喜ばせ、私たちは意図せずに悪魔のやり方にはめられています。それが悪魔のやり方です。
 それでは最後の45-47節です。

6. 自分よりも神様の意志を優先する (45-47)

45 しかし、私が真理を語っているので、あなたがたは私を信じない。46 あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私は真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。47 神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは神から出た者ではないからである。」

 ここに、私たちがしなければいけないことが一言でまとめられています。神様から出た者になること、または神様に属する者になることです。
 本来は、神様は私たち全てをご自分に似せて造られたので、私たちは全員が神様から出た者で、神様に属する者です。でも、私たちは自らその身分を捨ててしまいました。それは今日お話ししてきた通り、自分の力に頼れると思った方が自由で魅力的に感じるからです。その結果、私たちは罪の奴隷になり、悪魔を喜ばせています。
 だから、私たちは神様に生まれ変わらせていただく必要があります。もう一度、何度でも、神様の子どもとして、新しくやり直す決心をするということです。それは、自分の価値観や考えには常に限界があり、偏りや誤りがあることを認め、代わりに、神様が望まれることは何かを模索し続けることを意味します。それはまた、神様の愛が自分にも他の全ての罪人にも注がれていることを信じて、自分自身が神様によって造り変えられながら、神様が世界を造り変える働きに加わることを意味します。自分が正しいと信じてきたことが間違っていたと認めることや、敵対してきた人を理解しようとすることは、謙虚さと忍耐が必要ですし、痛みも伴うかもしれません。それでも、神様の愛は私たちを必ず正しい方に導いてくださいます。私たちは、そのことを信頼して、何度でもやり直しましょう。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従う道を歩む努力を続けましょう。

(祈り) 主イエス様、私たちはそれぞれが正しいと思うことを行っていますが、私たちが過ちを犯す者であるということをどうか私たちが忘れないで、いつでも謙虚に間違いを認めて方向修正できるように、助けてください。理解し合えないと思う人との間にあなたが立ってください。あなたはその人のことも私のことも同じように愛しておられるということを分らせてください。今の世界の状況はあなたが悲しむことばかりで、私たちは過ちを繰り返していますが、どうか私たちが絶望せずに、あなたの愛と希望が実現することを祈り、平和を実現するための努力を続けられるように助けてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。 

要約

個人間で起こる仲間はずれやいじめも、国家間で起こる戦争も、その根幹にある問題は同じです。私たち全てが持つ、自己中心性と他者への無理解・無関心という罪です。私たちができるだけ過ちを繰り返さないようにするためには、一人ひとりが努力を続けることが必要です。その努力とは、自分の判断や価値観には必ず偏りと誤りがあることを認め、誰もが神様の前に等しい価値があることを信じて、知らない人と知り合い、意見の合わない人を理解しようとすることです。そして、イエス様の教えてくださった愛が自分自身の中で大きくなるように、それが不完全な形でも自分から他の人々に伝わるように、求めていくことです。

話し合いのために

1. 自分(または自国)の正義と神様の正義の違いをどうやって見分けますか?

2. 悪魔の言葉と神様の言葉をどうやって聞き分けますか?

子どもたち(保護者)のために

ノートの6つの要素の中から、話しやすいと思われる1つか2つをピックアップしてみてください。差別はなぜ起こるのか、私たちはなぜ誰かをいじめたくなるのか、憎しみを持つのか、どうしたら神様を悲しませないで喜ばせることができるのか、一緒に話してみてください。