盲人を癒したイエス様と、差別を続ける社会(前編)

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盲人を癒したイエス様と、差別を続ける社会(前編)


シリーズ「障害者と相互依存の神学」第2回 (ヨハネによる福音書9:1-23)

池田真理


 先月からキャシー・ブラックの本を読むシリーズを始めていますが、今日はその第2回です。第1回はヨハネによる福音書9章の最初の5節を読んで、キャシー・ブラックの言う「相互依存の神学」についてお話ししました。今日はその続きの9章全体を読んでいきますが、長いので、今回と次回の2回に分けて読むことにしました。イエス様が盲目の人の目を癒す物語です。最初にもう一度1-5節を読んで始めましょう。

A. イエス様が私たちに託された愛のわざ
1. 相互依存の神学 (1-5)

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4 私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。5 私は、世にいる間、世の光である。」

 前回、この箇所を読んで、生まれつきの障害は誰の罪のせいでもないことを確認しました。神様は私たちに罪に対する罰よりも赦しを与えてくださる方で、意図的に私たちを試したり苦しめたりすることはありません。障害に限らず、ある人には与えられる苦しみや困難が他の人には与えられないのはなぜなのか、答えられる人は誰もいません。私たちには神様の全てを理解することはできません。でも、私たちに分かっているのは、そのような困難の中で互いに助け合うことを神様が私たちに期待されているということです。それが、神様が私たちに委ねられた愛の働きです。この働きは、神様と私たちの相互依存関係と、私たち相互の依存関係で成り立っています。これが、「相互依存の神学」です。

 今日はこの物語の続きを読んでいきますが、読んでいくと、相互依存の神学の要は、助けを与える人と助けを求める人が人として全く対等であるとお互いに思えるかどうかだということが分かると思います。私たちは何ができてもできなくても、神様の前に全く平等です。イエス様はそのことを実践したために、問題になりました。6-7節を読みます。

2. イエス様の愛は無条件で無差別に注がれている (6-7)

6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

 先にお断りしておくと、ここでのイエス様の行動にどんな深い意味があるのかは誰にも分かっていません。イエス様は他の箇所では言葉だけで病人を癒しており、この箇所のように、ご自分の唾で泥をこねたり、その泥を人の目に塗ったりするような手順を取ることはあまりありません。「シロアムの池」に何か特別な意味があったのかも分かっていません。どうしても気になる方は、いつか天国でイエス様に会えた時に聞いてください。

 さて、この場面で一番注目すべきなのは、この盲目の人が何も言っていない点だと思います。彼は、イエス様に癒しを求めてもいません。人々のざわめきから、イエスという人物が近くにいることは分かっていたかもしれませんし、もしかしたら1-5節のイエス様と弟子たちのやりとりが聞こえていた可能性はあります。でも、イエス様に全く気がついていなかった可能性もあります。そんな彼に対して、イエス様は自分の手を泥で汚して、その手でその目に触れ、彼を癒しました。

 このイエス様の行動は、私たちがどんな状態であろうと、信仰があろうとなかろうと、助けを求めていようといなかろうと、イエス様は私たちを愛して、私たちの必要を私たちよりも知っていてくださる方だと証明しています。私たちは、自分が何を必要としているのか、意外と分かっていないのではないかと思います。期待が裏切られることが続けば、願い続けることをあきらめてしまうこともあります。イエス様は、そんな私たちの心をよく知っておられます。そして、ご自分の方から私たちに近づき、手を伸ばして助けてくださいます。

 私たちが互いにイエス様の愛を伝えるためには、このイエス様の愛のあり方を理解していることが全ての始まりだと思います。一人ひとりの必要を誰よりも知っているのはイエス様です。自分が愛しているよりもイエス様の方がずっと相手のことを愛していると認めることも必要です。だから私たちは、イエス様の愛を実践するために、自分が相手のことをどう思うかという判断を一旦脇に置いて、その人の強いと思うところも弱いと思うところもそのまま受け止めます。また、たとえ自分にはその人のことが理解できず、愛せないと思ったとしても、イエス様がその人のことを愛しておられることには変わりないと確信することも必要です。相手がイエス様の愛を知らないなら、その人が愛されていることを感じられるように、一時的に私たちがイエス様の代わりにその人を愛します。私たちがそのように人に接する時、私たちは条件も見返りも何も求めません。イエス様を信じるように求めることも、教会のメンバーになることも、もちろん求めません。それがイエス様の愛のあり方だからです。

 でも、私たちの社会は、昔も今も、イエス様の愛を邪魔してばかりの差別的な社会です。この社会というのには、残念ながら教会も含まれます。そのことを、続きの箇所が示しています。まず、8-12節を読みます。

B. 障害者を取り巻く社会の状況
1. 彼らの持つ力を認めず、奪う (8-12)

8 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「私がそうです」と言った。10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 この箇所から分かる残念なことは、盲目の人が目が見えるようになったことを、周囲の人が喜ぶよりも不審がり、信じようとしていないことです。彼のことを一人の人として対等に見ていたら、何が起こったのかは理解できなくても、彼と一緒に喜ぶことができたはずです。そうできなかったのは、彼らが彼のことを対等に見ていなかったからでしょう。

 聖書の時代と現代で比べれば、障害を持つ人々を取り巻く社会状況はかなり改善したと思います。障害を持っていても社会の中で活躍している人たちはたくさんいます。それでも、貧しい国ではいまだに障害を持つ人々が物乞いをするしかないことがあります。経済的に豊かな国でも、障害を持っていることによって経済的に苦しくなることがあります。また、たとえば、目が見えないということはかわいそうなことで、目が見えないなら何もできないだろうし、貧しくてもしょうがないという認識が、今でも健常者の間にはあるんじゃないでしょうか。そのような誤った認識が、障害を持つ人の力を奪います。自分のことを個人的に知りもしない大勢の人からかわいそうな存在と決めつけられたり、できることもできないと決めつけられて見下されたら、誰でも無力感を覚えるのではないでしょうか。

 キャシー・ブラックは、目が見えなかったり、耳が聞こえなかったりする障害を持っている人々は、障害を持たない人々の知らない世界を知っていると言います。彼らは、自分の体のどちらが太陽に照らされてるかに従って、歩いていく方向を決められます。銅像に触って、その冷たさや表面の凹凸によって感動することができます。大切な人の存在を、その足音や匂いによって感じられます。

 それでは、13-17節に進みましょう。


2. 彼らの言葉を軽んじる (13-17)

13 人々は、前に目の見えなかった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日であった。15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、私の目にこねた土を塗りました。そして、私が洗うと、見えるようになったのです。」16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。17 そこで、人々は目の見えなかった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、お前はあの人をどう思うのか。」「預言者です」と彼は言った。

 盲目だった人が目が見えるようになったという奇跡をどう解釈すればよいのか、人々は自分たちの手に負えないと思ったのだと思います。そんな奇跡が本当に起こったのだとすれば、そんな奇跡を起こしたイエスという人物は何者なのだという問いになるからです。そこで、彼らは盲目だった人を宗教指導者たちのところへ連れて行きました。彼らの問いに対して、盲目だった人は自分に起こったことをそのまま語りました。でも、人々は彼の言葉を信じようとしませんでした。

 キャシー・ブラックによると、現代においても、法廷の裁判で盲目の人々の目撃証言が信じてもらえないことがよくあると言います。目が見えない彼らが事件を「目撃」できたはずがないのだから、彼らが聞いた音や感じた匂いによる彼らの証言は疑われるのだと言います。理由は、目が見えない人の生きる世界を目が見える人が想像できず、彼らの能力を過小評価しているからです。

 一つ、今読んだ箇所で注目しておきたいことがあります。それは、盲目だった人が、イエス様のことを「預言者です」と告白していることです。彼はイエス様を知らなかったはずですが、自分の身に起こった素晴らしい奇跡を人々が信じてくれないので、イエス様が正当に評価されていないと思い始めたのかもしれません。彼は、自分自身がこれまで不当に扱われてきたので、不正義に対して敏感だったのかもしれません。

 それでは今日最後の箇所、18-23節に進みます。

3. 彼らを子供扱いする (18-23)

18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、19 尋ねた。「この者はあなたがたの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」20 両親は答えて言った。「これが私どもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。誰が目を開けてくれたのかも、私どもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

盲目だった人は、もう大人だったにもかかわらず、両親まで呼ばれて、彼の言っていることが真実なのかどうか確かめられました。これは、現代にもある偏見だと思います。障害を持つ人々は、大人になっても子ども扱いされて、その人自身の意志が軽く見られ、時には本人の意志がないかのように扱われます。彼らが自分の意志を表明する手段を持っていたとしても、健常者は彼ら自身に話しかけるのをためらって、彼らの家族や友人や介助者に話しかけます。その結果、障害を持つ人々はまるでそこにいないかのようにされてしまいます。自分の存在が無視されることほど、人の力を奪って、心を傷つけることはないのではないでしょうか。

 この箇所で、盲目だった人の両親は、ユダヤ人たちに対する恐れからだったとしても、自分たちの息子を一人の大人として尊重しています。彼は自分のことは自分で弁明できるし、自分のことは自分で決められる権利を持つ主体なのだととらえています。この両親の彼に対する尊重と期待を、彼はしっかり受け止めたということが、この後続く箇所から分かりますが、そのことはまた次回にお話ししたいと思います。

 最後に、この箇所全体のことについて一つ付け加えて終わりにしたいと思います。この箇所の伝統的な解釈では、目が見えなかった人が見えるようになったという奇跡を、罪人を罪から解放できるのはイエス様だけであるということを示す比喩としてとらえてきました。この箇所だけでなく、旧・新約聖書を通して、目が見えないことや耳が聞こえないことを罪の状態のたとえとして表現する箇所が多くあります。有名な讃美歌、アメージング・グレイスでも、「私はかつて見えなかったが、今は見える (Was blind, but now I see)」という歌詞があるように、信仰を持つ前は目が見えなかったが、信仰を持った後は見えるようになったという表現もよく使われます。私自身も、自分が作った曲でもメッセージの中でも、そのような使い方をしてきました。実際に目が見えない人や耳が聞こえない人がそういう表現をどう感じるのか、考えたことがありませんでした。たとえ比喩だとしても、盲やろうの状態を罪の状態と同じ意味で使うのは、その人たちに対して失礼で、抑圧的です。また、その表現を多用すれば、障害を罪の結果ととらえる間違いを助長するのではないでしょうか。だから、聖書を障害を持つ人の立場から読み直すことが重要だと、キャシー・ブラックは教えています。私は、自分のメッセージの中で使う言葉に気をつけようと思いましたし、今まで歌ってきた曲の歌詞をどうしようかと考えています。

 社会が変わることは重要ですが、せめてこの教会の中ではできるだけ神様の愛が本当に実現するように、求めていきたいと思います。障害を持たない人は、私も含めて、今日の箇所で読んだような障害を持つ人に対する偏見や差別を自分が持っていないか、よく考えてみてください。また、障害を持つ人またはそのご家族の皆さんは、もしこの教会で差別を感じたことがあったらぜひ教えてください。

(祈り) 主イエス様、あなたの愛が私たち全てに平等に注がれていることを、もっと私たちが理解して、周りの人たちをあなたが愛するように大事にすることができるように助けてください。障害を持たない人が障害を持つ人から学ぶことができるように、謙虚にしてください。障害を持つ人が不当な扱いを受けて無力感を味わう時、それは不当で間違っているのだと思うことができるように、そしてそのことを一緒に信じて立ってくれる人が周りにいるように、私たちをも用いてください。主イエス様、私たちをあなたの愛で導いてください。あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約


<キャシー・ブラック著「癒しの説教学−障害者と相互依存の神学」を読むシリーズ第2回>イエス様は、私たちがイエス様のことを個人的に認識する前から、私たちがイエス様に助けを求める前から、私たち一人ひとりのことを知っておられ、愛しておられます。イエス様の愛がそのように私たち全てに無差別に無条件に注がれていると確信することが、全ての始まりです。障害を持つ人々を取り巻く社会の状況は、昔も今も、イエス様の愛に反しています。私たちの社会は、障害を持っていることを理由に、個人が持つ能力や魅力を認めず、子ども扱いして自尊心を傷つけ、力を奪います。そのような差別は無意識に行われており、差別している方は差別している認識がありません。

話し合いのために

1. イエス様の愛が無条件なら、信仰を持つ前と後で何が変わりますか?
2. 「障害は神様の意志によるものなのか?」という問いにどう答えますか?

子どもたち(保護者)のために


私たちがイエス様のことを知っている前から、イエス様は私たちのことを一人ひとりよく知っていてくださるということを、子どもたちに伝えてください。私たちに何が必要かも、イエス様はよく知っています。それでも私たちがイエス様に祈ったり願ったりするのは、私たちがイエス様に話しかけて、自分の思いを打ち明けることを、イエス様は喜ばれるからです。そのことを一緒に話して、子どもたちと一緒に実際に自分の思いをイエス様に打ち明けるお祈りをしてみてください。