人種差別と教会

David Hayward @nakedpastor (https://nakedpastor.com/)
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日曜礼拝・英語通訳付

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人種差別と教会


(マタイ25:31-46ほか)

池田真理


 今日は特別に「人種差別と教会」というテーマでお話ししたいと思います。なぜそうしようと思ったかは後でお話ししたいと思います。最初に、マタイによる福音書にあるイエス様の言葉を読んで始めたいと思います。マタイ25:31-46です。

31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35 お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。42 お前たちは、私が飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』44 すると、彼らも答える。『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。』46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」 (マタイ25:31-46)

A. この教会での人種差別

 私は最近、ある人から、この教会のある人たちから人種差別を受けていると相談を受けました。日本で人種差別的扱いを受けるのには慣れているし、自分の考えすぎかと思っていたけれど、何回もあったし、自分以外の外国人に対してもその人たちは差別的だったので、これはよくないと思って相談した、ということでした。私は、その人に相談されるまでは全く気が付いていなかったのですが、相談を聞いていて、事実だと判断しました。
 また、その人から相談を受ける前から、私自身、最近のユアチャーチは日本人と外国人の間に距離があるように感じていました。それは、私自身も含めて、この教会の人数構成的に多数派である日本人の側の問題だと感じていました。言葉の壁は仕方ないことですが、多数派の日本人は日本人だけでいることもでき、少数派の外国人と知り合おうとする努力をしないでも済んでしまいます。でも、そういうスタンスの人が増えたら、ますます外国人は外国人だけでいるしかなくなってしまいます。
 私は皆さんを一方的に責めるつもりはなく、これは私自身の問題でもあるとも思っています。私はカナダで4年間勉強する恵まれた環境に置かれたことがありながら、恥をかきたくないというプライドから、自分から英語でしゃべるということをずっと避けてきました。自分の性格が内向的であるということも言い訳にして、ユアチャーチの牧師になってからもずっと、外国人メンバーの皆さんに対してフレンドリーではなかったと思います。本当にそのことは謝りたいと思います。また、自分は人種差別をしているとは思ってきませんでしたが、もし私からそういうものを感じたら、教えてください。
 人種差別はどの国にもありますが、日本人は自分たちが人種差別をしていることに気が付いていないことが多いと思います。過去に日本がアジアの国々を侵略したように、日本人は今だにアジアで一番優れている人種のような感覚を持っている人たちがいます。日本人とは自分と同じような見た目で日本語をしゃべる人だけを指すと思っている人たちもいます。日常の中でも、「〇〇人はルールを守らない」というような言葉を時々聞きます。そう言い始めた時点で、私たちはその人を「〇〇人」というステレオタイプに当てはめて、その人を個人的に理解しようとすることをやめています。このような偏見と差別は、もちろん日本人だけに限らず、どの国の人も陥る間違いです。
 実は、人種差別と教会には深い関わりがあります。人種差別は、教会が最初に乗り越えなければいけない問題でした。そして、教会が教会であるために、そして福音が福音であるために、教会は人種差別を乗り越えてきました。最も重要なのは、自分が正しいと思ってやっていることや無意識のうちに判断していることが人種差別になっていることがあると気が付いて、謙虚に態度を改めることだと思います。イエス様の愛を知った私たちには、それができるはずですし、できなければいけません。それが神様の国の民の責任であり、イエス様の言葉で言うなら、それがイエス様の友であるということです。ヨハネによる福音書15章のイエス様の言葉を読みます。

B. 互いに愛し合っていなければ、私たちはイエス様の友ではない (ヨハネ 15:12-17, 1ヨハネ 3,4)

12 私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14 私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。15 もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16 あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。17 互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」 (ヨハネ15:12-17)

 イエス様は、私たちが立派な人間だから、私たちのために命を捧げてくださったのではありません。私たちそれぞれの弱さや欠けや過ちを含めて、ありのままで価値のある存在なのだと教えてくださいました。そのイエス様が私たちに願うのは、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」ということだけです。
 ヨハネの手紙1の言葉を二箇所読みます。

16 イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ3:16-18)

19 私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(1ヨハネ4:19-21)

 ヨハネが言っているように、互いに愛し合うことというのは、抽象的な理想ではなく、とても具体的な行動です。それは、目に見える具体的な誰かの必要を満たすために、自分の持っているものを分けたり、時間や労力をかけることかもしれません。様々な意味で自分とは異なる背景の人を理解しようと努力することかもしれません。つまり、自分の必要が満たされることよりも、他人に仕えることを喜ぶということだと思います。イエス様の友人、神様の国の民は、そのように自分の利益よりも他人の利益を優先することを心から喜べる人たちです。

 だから、それぞれの慣れ親しんだ文化や言葉にとらわれないで、互いに理解しようとすること、そして互いの違いを喜び受け入れ合うことがなければ、私たちは神様の国の民とは言えません。それぞれの違いは単なる違いであって、それらに優劣をつけることが差別です。誰でも自分が慣れ親しんでいるものが一番いいと思いがちです。例えば、日本人なら日本人的な礼儀正しさや遠慮深さに安心を感じるかもしれませんが、それが神様の国で一番大切にされることではありません。神様の国で一番大切にされる文化は、繰り返しになりますが、自分の必要が満たされることよりも、他人に仕えることを喜びとする文化です。

 これを実際に行うことが本当に難しいということは、これがイエス様の弟子たちが教会を建てあげていく中で最初に直面した問題だったことからも分かります。イエス様も彼らも皆ユダヤ人で、イエス様を信じる信仰は当初はユダヤ教の中の一分派でしかありませんでした。彼らが、ユダヤ教の枠を超えて、ユダヤ人以外の民族の人々を迎え入れていくことによって、教会が成立しました。その過程は困難だったということが、使徒言行録以降の新約聖書を読むとよく分かります。

 ユダヤ人たちは、彼らが異邦人と呼んだユダヤ人以外の異民族の人々をなかなか対等に扱えませんでした。それは元々、ユダヤ人は血統と律法を重んじる民族で、それが神様に忠実に仕えるということだと考えていたからです。そこで、自分たちと同じ信仰を持つようになったのなら、異邦人もユダヤ人の文化を守るべきだと考えました。自分たちの文化が、神様の国の文化であると勘違いしたのです。

 同じ過ちは、西欧の宣教師たちが植民地支配と宣教活動を混同した時にも繰り返されました。彼らは、西欧文化が神様の国の文化であると勘違いして、先住民や植民地とされた国の人々の文化を見下し、否定しました。

 それでは具体的に聖書の箇所を読んでいきます。まず使徒言行録10章です

C. 人種差別を乗り越えなければ、教会は生まれなかった
1. 最初の変化 (使徒 10,11)


24 次の日、一行はカイサリアに到着した。コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて待っていた。25 ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。26 ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。私もただの人間です。」27 そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、28 彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神は私に、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。29 それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。(使徒10:24-29a)

  この場面を少し解説すると、コルネリウスはローマ軍の指揮官で、ユダヤ人ではありません。ペトロは、この直前に不思議な幻を見ていて、その幻を通して、自分が異邦人を差別しているのは神様の意志に反することかもしれないと思い始めていました。この二人の出会いの結果、コルネリウスを始めとした多くの異邦人たちがペトロからイエス様のことを聞き、彼らの上に聖霊が降り、彼らはイエス様を信じる家族に加わりました。
 この出来事は、ユダヤ人信者に衝撃をもたらしました。続く11章を中略して読みます。


1 さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。2 ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、3 「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。4 そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。…18 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。 (使徒11)

ユダヤ人信者たちは、ペトロの報告を聞いて考えを改めました。ここから、イエス様の福音を知らせる活動は、異邦人にも広がっていきます。まだまだユダヤ人中心的な感じですが、教会が教会として成立していくための最初の変化をもたらした出来事でした。

 でも、この後も各地の教会は内部対立を繰り返しました。ユダヤ人信者と異邦人信者の融和に一番心を砕いたのはパウロだと思います。パウロの手紙の多くから、パウロの関わったほとんどの教会で、ユダヤ人信者と異邦人信者の緊張関係があったことが分かります。ここではガラテヤの人々への手紙2:11-14のパウロの言葉を読みます。ここに登場するケファとはペテロを指します。


2. ペトロの外国人差別を非難するパウロ (ガラ 2:11-14)

11 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、私は面と向かって反対しました。12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。13 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。14 しかし、私は、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」(ガラ2:11-14)

 ペトロはコルネリウスとの出会いを通して異邦人差別はやめたはずでしたが、まだ迷いがあったようです。パウロはそんなペトロを正面から非難しました。
 ここで問題の中心になっているのは、ユダヤ人と異邦人が食事を共にすることについてです。食事を共にするということは、当時も今も、誰かと親しくなる上でとても基本的で重要なことです。イエス様も弟子たちや人々とよく食事を共にされました。(だから、ぜひ皆さんも互いに誘い合ってごはんを一緒に食べてください。)でも、ユダヤ人の律法には食物規定があったので、そんな規定を持たない異邦人との会食がたびたび対立の火種になりました。ユダヤ人信者たちの中には、異邦人の食事は汚れていると考えて見下し、ユダヤ人の規則を異邦人信者にも守らせようとする人たちがいました。それはもちろん間違いでした。でも、子どもの頃から教えられてきた習慣はなかなか抜けないもので、ペトロのように保身のために浅はかな行動をしてしまい、結果的に人を傷つけていることは、私たちにもあると思います。
 最後に、フィリピの人々への手紙3章のパウロの言葉を紹介します。

3. パウロの自戒 (フィリピ 3)

4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、私は頼れなくはない。誰かほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、私はなおさらのことです。5 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。7 しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。8 そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、9 キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。10 私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。12 私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。…20 しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(フィリピ3)

 パウロは、自分が熱心なユダヤ教徒であったことを決して悔いておらず、自分は律法を完璧に守ってきたと誇っています。このパウロの誇りは、他の箇所でも見られます。パウロは、ユダヤ人がユダヤ人としての誇りを持つことも、異邦人が異邦人としての誇りを持つことも、何も反対しませんでした。ただし、その誇りが他民族に対する優越感になったり、他者を見下す傲慢さになったりするのが間違いだと言っています。そしてさらに、今読んだ箇所の中では、結局のところ、自分の民族や自分の勤勉さに基づく誇りは、それ自体は悪いものではなくても、イエス様を知る喜びに比べたらゴミと同じだと言っています。
 20節のパウロの言葉は、皆さんもよくご存知だと思いますが、今日改めてぜひ心に留めてください。「私たちの本国は天にあります。」このことを自分の生き方で体現していくことが、あらゆる差別を超える鍵だと思います。生まれ育った環境や受けてきた教育の影響から自由な人はいません。自分は他人より優れていると思いたい誘惑は、何歳になってもあります。この地上に生きている限り、完全な者になることは誰にもできません。でも、パウロが言っている通り、私たちも、神様の国に属する者にふさわしくなれるよう、「何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」イエス様は、私たちが少しでもイエス様に近づき、互いに愛し合うことができるように、私たちを作り変えてくださいます。ヨハネによる福音書のイエス様の言葉も思い出してください。

あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。

D. 全ての人に対してイエス様に対するように (マタイ 25:31-46)

 今日最初に、マタイによる福音書のイエス様の言葉を読みました。世界の終わりにイエス様は全ての人を裁いて、祝福される人と罰を受ける人に分けると言われています。私は、イエス様がこの話をしたのは、私たちを脅かすためではなく、私たちが今すぐにすべきこととできることに気がついてほしいと願ったからだと思います。それは、全ての人に対してイエス様に対して接するように、相手を尊重し、大切にし、仕えることです。
 イエス様は正しい人たちに言われました。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」そして、悪い人たちにはこう言われました。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。」
 ヨハネの言葉をもう一度引用して終わりにしたいと思います。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

(祈り) 主イエス様、どうぞあなたの霊で私たちの心を照らして調べてください。人を人種や国籍によって見下していないか。個人的に知り合う努力をしないで、互いに理解し合うことを放棄していないか。どうか、私たちをあなたの前に低めて、謙虚にしてください。あなたの愛する一人ひとりを私たちも大切にすることができますように。自分の居心地の良さや必要が満たされることだけを求めるのではなく、他人に仕える喜びをもっと知ることができるように導いてください。この教会で、私たちが互いの違いを喜び、あなたの家の家族の一員として、互いに支え合うことができるように、私たちを作り変えてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


要約


私たちは、自分が人種差別をしていることに気が付いていないことが多いと思います。この教会の中でも人種差別的な言動が見られます。私たちは、互いに愛し合っていなければイエス様の友であるとは言えません。また、そもそも教会というものは、ユダヤ人が外国人差別を乗り越えて始まったもので、人種差別を乗り越えなければ教会は教会ではないし、福音は福音でなくなります。私たちは、国籍も人種も関係なく、全ての人に対してイエス様に対するように、尊重し、大切にすることを求められています。

話し合いのために

1. ご自分の人種差別についてどう思いますか?
2. この教会で、日本人と外国人の間の壁を感じたことはありますか?どう乗り越えればいいですか?

子どもたち(保護者)のために

人種差別について一緒に話し合ってください。